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「一緒に笑えるって、いい事」後編

前編のあらすじ
電車に揺られていた高校卒業間近の僕。停車して入れ替わる乗客に紛れ、隣に座ってきたのは、2年前に僕をふったかごめと新しい彼氏。動揺した僕は降りるはずじゃない駅に降りてしまう。そんな僕に声をかけきたのは、かごめの姉、ツグミ。ツグミに誘われるまま街の喫茶店に入り、僕と元カノの姉との、奇妙な時間が始まる。


後編

ピザを頬張り、ビールを飲み干した僕らは、喫茶西海岸を出ると、そのまま西へアーケードを歩く。
「まだ飲めるの、君は?」
 と、ツグミさんが聞く。
「まだ飲めると思いますが、限界まで飲んだ事はないので、よく分かりません」
「正直でいる事は大切よ。多くの場面においてはね」
 交差する縦通りをひとつ越し、次の交差点の手前の細い通路を左に折れ、ツグミさんは僕の手を引いて少し進むと、正面にある小さな扉を押して中に入った。
 いらっしゃい、という低い声で迎えられた店内は薄暗く、時間が早いからかカウンターもテーブル席も、他の客はいない。ツグミさんは、カウンターの中にいるバーテンダーに右手でテーブル席を指すと、彼は軽く会釈して丁寧にやはり右の手のひらで、その席をすすめる。
 向かい合わせに座った僕の顔を少し見つめたツグミさん。バーテンダーに向き直り
「ギムレットをふたつ。軽くシェイクして。そしてミックスナッツも」
 と、告げた。
 ギムレット。初めての経験、ふたつめだ。
 ツグミさんは左手で軽く頬杖をつきながら、右手の人差し指の爪先で、僕の左手の爪を軽く、ほんの軽くさすっている。ツグミさんの視線はその指先を見てるようでもあり、見てないようでもあり。きっと、どこも見ていないんだろう。頬杖をつく女、って歌があったな、と、ふと思い出した。僕はどう反応すればいいかなんてもちろん分からず、店内をゆっくりと見回す事しか出来ない。棚には、僕の知らない銘柄のお酒が並んでいる。知ってる方がもちろん少ないんだけど。その棚の隣には、レコードが詰め込まれている。何枚かは、ジャケットが分かるように壁に飾られている。こちらも僕が知らないアーティストだけど、ジャケットの雰囲気から、ジャズじゃないかと思う。自分が好きなお酒の名前、飲み方、ジャズプレイヤーとその演奏、そんなものを身につけないと、大人になれないんだろうか。歌謡曲だと、大体歌詞覚えてるんだけどなあ。シェイカーをふる音で現実に引き戻された僕は、ツグミさんを見る。僕をじっと見ているツグミさんの視線と合う。ツグミさんは、何も言わない。こんな風にツグミさんの瞳を正面から見つめるのは初めてだ。今日三つ目の初めて。
「ねえ、御手洗くん」
「はい、ツグミさん」
「今日私は、ワタシのお気に入り、を、幾つか教えたわ」
 お気に入り。
「西海岸、ピザとビールの組み合わせ。そしてこのお店と、ギムレット、ですね」
「そう」
「ありがとうございます」
 と、言った時にギムレットが運ばれて来た。厚めの紙でできた、丸いコースターを置くと、そこにとても丁寧にギムレットが置かれる。ふたつ。そしてミックスナッツを入れたガラス製の器。僕らはその間、静かに待っている。次は自分たちでカクテルグラスを置くための、その手順を覚えるかのように。バーテンダーは軽く、ほんの軽く会釈すると、カウンターの内側に戻る。僕にとっては初めての、そしてツグミさんにはお気に入りの、ギムレットが入ったカクテルグラスを、じっと見つめる。じっと。幸いな事に僕は視力がいい。グラスの表面を覆う細かな水滴を、薄暗い店内でも見つめる事が出来る。とてもきれいだ。キレイ。あまりにきれいなので、手でふれられない。
 この子、どうしたのかしら。じっとグラスを見てて。もしかしたらほんとはお酒弱いとか。まあ、歳からいって、強くはないだろうけど。
「大丈夫?」
「もちろん。あらためて、ありがとうございます、ツグミさん」
「もう、いいわよ。お酒は楽しく飲まないとね」
「はい。まだ誰もいないお店で、早い時間から飲むお酒って、なんだか特別に見えます」
「しょぼくれたサラリーマンみたいなこと言わないの」
「しょぼくれたサラリーマン。僕もいつかそうなるんでしょうか」
「そんなこと知らないわよ。素敵な年上の女の子を前にして、いつまでつまらない話をするつもり?」
「どんな話をすればいいんでしょうか。ツグミさんに喜んでもらうためには」
「まずはひとくち飲みましょう」
 人って、変われるのかしら。
 人って、変われるのかな。
「ツグミさん」
「なあに」
「このお酒、めちゃくちゃ美味しいです」
「それは良かったわね」
「僕、もう一生このお酒だけでもいいかもしれません」
「あなたって、たまに素っ頓狂なこと言い出すわね」
「そうでしょうか」
「そうでしょうよ」
「そうですか。でも今の僕は、心の底から美味しいと思えました。美味しいと思ったお酒は、これが初めてかも、です」
「ほんとに?」
「あっ、ウソでした」
「なによそれ」
「中学2年の夏休み、だったと思います。父と一緒に庭の塀を修繕するために、コンクリートを練りました」
「コンクリートって、素人が練れるものなの?」
「父の仕事は土木なので、素人ではないんです。その夏の暑い日、父に教わりながらコンクリートを練りました。まず、鉄板の上で、うちには庭に鉄板があるんです。すごいでしょ。で、その鉄板の上で、砂とセメントをしっかりと混ぜます。混ぜ合わせたものの真ん中をあけて、周りを土手の様にします。ちょうど阿蘇のカルデラのように」
「うーん、わかるようなわからないような」
 僕はテーブルの上に右手の指先で描いてみせた。
「なるほど」
「そしてその中心に水を入れるんです。周りの土手を少しずつ壊しながらその水と混ぜていきます。水が外にこぼれないように細心の注意を払いながら」
「なんだか面白くなってきたわ」
「あの時は、よれよれのTシャツを着てた気がします。ウチは田舎ですし、周りの目を気にしなくてもいいし。で、それくらい暑かったんです。あの日。コンクリートは練り終わると、すぐ使わないと固まってしまうんです。なので、休む間もなく塀を修繕しました。修繕が終わると、のどがからっからです。その時、父と一緒に飲んだ冷えたビールが、美味しかったんです」
「中2のくせして」
「そう、中2のくせして、です。さっきのピザと一緒にいただいたビールも美味しかったんですが、あの夏の日、父といっしょによれよれのTシャツ姿で飲んだビールは、格別でした」
「いい思い出ね」
「はい。そうかもしれません。こんな風に思い出したのは初めてです。これもツグミさんのおかげです」
 もう、まったく。
「ちょっとお手洗い。嬉し涙をふいてくるわ」
 ツグミさんが席をたって、ひとりになったとき、店内に流れている曲が僕を包む。僕は慎重に立ち上がり、バーデンダーへ歩み寄る。
「あの、すみません」
「はい、なんでしょう」
「今かかっているこの曲、なんていう曲でしょうか?」
 バーテンダーは、ほんの少し目を開きながら僕をみて(なんだ、この曲も知らずにウチの店に来たのか、とでもいいたげ)
「At Last、です」
 というと、コースターに書きつけて僕に渡してくれた。
 At Last
 昨年の夏休み、昼間、テレビの名画劇場で観た洋画でテーマ曲のように何度も使われていた。とても気になったけど、テレビではエンドロールが流れるわけでもなく、曲名は分からずじまいだった。僕はコースターを大切にリュックにしまう。
 ツグミさんが席に戻って静かにすわる。
「ねえ、御手洗くん。君は何を専攻するつもり?」
「学部は経済ですけど」
「経済。経済学部。文芸部一途だった君が」
「文芸部一途って。そんな話しましたっけ?」
「以前、昔よ。かごめが愚痴ってたことがあるなあ、って、思い出したのよ。タツヤは部活に夢中だって」
「多少は、僕の話をしてたんですか?」
「また目の色変わってきたんじゃない?」
「いえ、もう大丈夫です。きっと。今だけかもしれませんが、少しは落ち着いて自分をみようとしています」
「まあ、どうだか。で、どうして経済学部なの?」
「父をみてて、何か作り上げる仕事もやりがいがあるとは思うんですが、これからは経済が大切だと思って」
「アハハ。もう、笑わせるね、君は、ホント」
 この一貫性のないとこ、無邪気と思えるかどうか、かな。
 ミックスナッツも美味しい。家で食べるバターピーナッツとは違う。もしかしたら世の中って、めちゃくちゃ広いのかもしれない。
「そうだ。私の話の続きだったわ。私のお気に入りを教えたから、今度はあなたのお気に入りを教えて」
 さあ、なんて答えるかしら。
「僕のお気に入り。今日のお気に入りリスト筆頭は、ダントツでツグミさんです」
「つまんない事いってると、ブン殴るわよ」
「それは困ります」
「だったらそうね、お気に入りの本は?文学少年くん」
 なんと、これは答えが難しいぞ。
「それは難しいです。そして恥ずかしいかもです。んー」
 いい質問かも。ようやく自分の事を考え始めてるかも、この子。
「部活では、しょっちゅうそんな話をしてたんじゃないの?」
「その時々にお互い読んだ本の事とか、古典とか、今思えば題材ありき、だったんです。自分の人生18年を振り返っての一冊を選ぶのが、こんなに難しいなんて思ってもみなかったです。参りました」
「まあ、ゆっくり考えて。でもこういうのって、考えすぎたらダメなのよ。ふと、頭に浮かんだものがピュアなのよ。例え説明出来なくても。恋愛もそうでしょ?」
 といっても、考えちゃうんだろうな、この子。何を教えてくれるのかしら。金閣寺?それから?武器よさらば?ロミオとジュリエットだったりして。

 15年後

 僕は、妻ミドリ、3歳になったばかりの長男、1歳の次男と4人で、博多発小倉経由の特急ソニックの指定席にいる。別府まであと30分。途中、高校卒業まで過ごした日出町を通り過ぎるけど、実家にはもう住む人もいない。一昨年父、そして昨年母が他界した。今日は、クリスチャンだった母が通っていた教会で営われる、昇天者記念礼拝に参列する。僕はクリスチャンではないが、牧師の方のご厚意で声をかけてもらった。福岡に出てからまともに帰省もせず、親孝行らしき事は何ひとつしないまま、見送る事になってしまった。恩返しどころか、僕の幼少の出来事を聞くことも、もう叶わない。両親が小さい頃体験した戦争というものについても、もう尋ねる事が出来ない。死、というものがそういうものだと、ようやく知った。
 僕らが降り立った別府駅。昔の思い出を辿るように岡本太郎の壁画を探す。あった。
「あれって、岡本太郎の?」
 と、ミドリ。
「そうだよ。昔からあるんだ。あの作品は、緑の太陽、っていうらしいよ」
「えー、びっくり。ワタシの太陽なんだ」
「そうだね」
「ねえ、荷物はどうする?」
「ロッカーにでも入れようか」
「いれようか」
 と、長男が僕の語尾だけ真似る。
 大型コインロッカーに荷物を収納した僕らは、タクシーで15分ほどの教会へ向かう。
 教会につくと、牧師さんが出迎えてくれた。
「遠いところをようこそ」
「こちらこそ、母の葬儀の時にはお世話になりました」
「みなさん、これからお集まりだと思います。どうぞ中にお入り下さい」
 この教会に縁があり、亡くなられた方達の写真を飾り、名前を読み上げ礼拝を捧げるという昇天者記念礼拝。初めての参列でかっても分からないまま、僕らは中ほどの席に座った。祭壇あたりには、たくさんの写真が数段にわたって並べられている。牧師さんにお渡ししている母の写真も、どこかにあるはずだ。すでに前の席に座ってらっしゃる方々もいて、背中に隠れている写真もあり見つけられない。程なく、礼拝が始まった。
 讃美歌、聖書からの言葉に続き、昇天者の紹介に移る。その間にも、何人か礼拝堂に入ってくる音がする。祭壇左側に設置されているプロジェクターに、昇天された方の写真とお名前、天に召された日が映し出される。キリスト教では、亡くなられた日を文字通り、天に召された日、と、解釈すると、牧師さんに教えて頂いた。
 僕がまだ中学生の頃に亡くなられた方の紹介から始まった。60歳を迎えずに亡くなられた方、90歳で亡くなられた方、様々だ。どうやら時系列に沿っての紹介のようだ。10人目くらい、プロジェクターに写し出されたのは、
 かごめ、だった。
 僕が知ってるかごめがそこにいる。その意味を理解出来るまで、どのくらいの時間が経ったのか、今でも僕は分からない。僕はプロジェクターを見つめている。昇天したのは21歳。大学を卒業さえしてないじゃないか。10年以上も前に、すでに亡くなっていたなんて。あんまりだ。神様、あんまりだ。
 母の名前を呼ぶ声で、僕は正気に戻った。
「昨年亡くなられて、今回が初めての昇天者記念礼拝となる御手洗さんのご家族が、福岡からいらしてます」
 と、紹介されて、
「ありがとうございます」
 と、立ち上がって挨拶する。多分、目は泳いでるだろうけど。
 その後お話があり、讃美歌を歌い、僕らにとって初めての礼拝は終わった。小さい子を連れてる参列者はうちの家族だけで、みんなが何かとミドリと子どもたちに話しかけてくる。僕はひとり、母の写真を確認し、それからかごめの写真を探す。あった。この写真が遺影であるなんて、僕にはどうしても理解出来ない。あの日、別府駅で一瞬隣り合ったきりだったけど、本当にあの時が最後になったなんて。あんまりだ。
「お久しぶり、御手洗くん」
 僕はゆっくりと振り返る。
「お久しぶりです、ツグミさん」
 それはそうだろう。ここにかごめの家族が参列してても、なんら不思議じゃない。ただ、僕の理解が追いつかなくて、どんな顔をしてればいいのか、分からない。分からない。
「お母様、昨年亡くなられたのね」
「はい。病気で。僕は結局何も出来ないままでした」
「あなたらしい言葉ね」
「あの、ツグミさん。僕、知らなかったんです。今の今まで」
「かごめは、大学1年の冬に交通事故にあって。しばらく入院してて。なかなか体調が戻らないから再度精密検査を受けて、それで、ケガよりも深刻な病いが見つかったの。だけど、もう間に合わなくて」
「なんて言葉をかければいいのか」
「ありがとう。かごめを覚えててくれてるだけで、彼女はきっと喜んでるわ」
「彼女は、かごめは、僕の初恋の人なんです」
「初恋」
「初恋の人は、人生にひとりだけですよね」
「それはそうでしょ」
「かごめは、今の僕にとっても、今からの僕にとっても、特別な人なんです」
 少し大人になったね、大純情くん。
「あの写真、見覚えある?」
 僕は、もう一度祭壇に飾られたかごめの写真を見る。
「僕の記憶の中のかごめのままなので、高校の時かと思います。卒業してから会う事もなかったので、その後の彼女を知らなくて。あの頃の、僕が恋焦がれていた時のかごめのままです」
「御手洗くんは、かごめにフラれて、彼女との思い出を処分したからあまり記憶にないかもしれないし、思い出せないかもしれないけど。あの写真、あなたとのツーショットだったのよ」
「えっ、まさか」
「かごめの病状がいよいよ悪くなってた時。かごめは自分のアルバムをめくりながら、もしもの時は、この写真を遺影に使って欲しいと、言ったの。それがあの写真。覚えてて欲しい、覚えておきたい、そんな一枚なんだって。ホントにあの写真のかごめは、かごめらしい笑顔だもの。せっかくのツーショット、切り取ったのはあなたに申し訳ないけど、さすがに遺影だからね。ごめんなさい」
 そんな。だって。
「かごめのホントの本当の気持ちまでは分からないし、もう知りようもないのだけど。あまり深い意味でとらえてほしくはないの。とてもいい時間を過ごせたその記憶、記録として、彼女は純粋にこの写真を選んだんだと思うの。だから、その通りに受け取って欲しい。念の為にいうけど、縛られる事はないのよ」
 僕は、なんて答えればいいんだ、神様。
 どうしよう。余計な事まで話しすぎたかも。
「いくら何でもふたりで写っていた写真なら、覚えているはずです。僕は、それすら忘れてしまったなんて」
 この子、すぐ思いつめるところ、変わってないなあ。
「切り取られた笑顔を忘れていたとしても、それは大した事じゃないのよ。来年、そのツーショットの写真、持ってくるわね」
「はい。来年」
 来年。僕は答えたけど、高校時代のかごめとの思い出に小さな脳細胞は占領されてる。
「15年前。覚えてる?」
「もちろんです、クリームソーダ。お店で見かけたら今でも頼んでます」
「どうだか」
「ほんとですよ。でも、最近クリームソーダ置いてる店、めっきり減っちゃって」
「喫茶店、見かけないものね」
「残念です」
 僕がそう答えるとツグミさんは、少しあごをひき、静かに目を細め笑顔になった。僕の記憶の中のかごめが、同じように微笑んでいる。かごめ。神様、あんまりだよ。

 15年前。

 ツグミさんと僕がギムレットを飲んだ夜。
 僕の爪をひっかくことに飽きたツグミさんと僕は、アーケードの反対側、東へ向かって歩く。喫茶西海岸を通りすぎ、古の時代からあるという神社を通りすぎる。別府という温泉街は先の大戦の空襲を受けず、戦前からの街並みがところどころだけど、まだ残っている。その並びに不釣り合いなくらい白く浮かび上がる障子紙の戸をひいて、ツグミさんは僕を従え中に入る。
「あらツグミちゃん。こんばんは」
「こんばんは、おばさん。少し食べて来ちゃったんですが、ふたり、いいですか?」
「いいわよもちろん。こちらのお兄さんは初めてね?」
「こんばんは」
 と、僕。こういう時の挨拶、慣れている訳がない。
「それでは、こっちに座ってね」
 と、カウンターの奥を勧められて、ぼくが奥、そしてツグミさん、と腰を掛ける。
 カウンターには、大皿に盛られた料理が並んでいる。僕があまりに見入っていたからか
「御手洗くん、食べたかったら頼んでいいのよ。遠慮しないで」
 と、ツグミさんが優しく言う。
「では、この煮物をください」
 と、遠慮もせず僕はお願いした。
「ところでツグミちゃん、最近タカシとは会ってるの?」
「いえ、会ってません。ごめんなさい。それなのにお店には来たりして」
「いいのよ、気にしないで。私はあなたが気に入ってるんだしね。タカシとこのまま別れることになっても、気にせずに来てほしいわ、ずっと。たとえ、」
「たとえ?」
「新しい彼氏を連れてきたとしても、全く構わないのよ」
「やだおばさん、御手洗くんは彼氏じゃないです。年下ですし」
「いいじゃない、年下。キャンディーズの歌みたいで」
「もう、かずこさんたら。ビールください」
 女性ふたりの和やかな会話。笑顔。かずこさんとよばれた女将さんが、僕にビールをついでくれながら
「ごめんね、話おいてきぼりにしちゃって。うちの出来の悪い息子がツグミちゃんにぞっこんで、あんまりしつこいから、ツグミちゃんが相手してくれてたんだけど、根っからのバカ息子はいつもフラフラしてて、ツグミちゃんから愛想つかされてるって、そういう事なのよ。あなたも彼女出来たら、ちゃんと大事にしないとダメよ」
 と、僕に微笑む。
「事情はよく分かりませんが、将来こんな僕にも彼女が出来たら、今日の事を思い出して、大事にします」
 と、精いっぱい答えると、ツグミさんと女将さんは顔を見合わせて、アハハ、と、柔らかく笑う。僕もつられて笑顔になり、つがれたビールを飲む。取り分けてくれた煮物を食べる。甘口な味付け。濃い甘口。
「とっても美味しいです」
「ちょっと甘くて濃すぎるんじゃない?」
 と、尋ねる女将さんに
「いえ、そんなことないです。僕はこの味、とても好きです」
 と、答える。母の味付けに似ている。魚の煮物は得意じゃないけれど、根菜類の煮物は好きだ。ツグミさんは、湯豆腐をほふほふ、しながらおいしそうに食べる。
「ツグミさん」
「なあに?」
「その湯豆腐、少しもらえませんか?」
「いいわよ」
 女将さんから取り皿をもらって、湯豆腐を取り分けてもらった。かぼすで作ったという酢じょう油をかけて、口に運ぶ。僕もほふほふ、といっている。
「人が食べてるのをみると、おいしそうに見えるのよね。お味はどう?」
 口の中が落ち着いてから僕は女将さんに
「想像以上に美味しいです。ほんとです。今まで湯豆腐とか、お店で頼んだ事なかったですけど、これからは頼みたいリストに入れます」
「あれまあ、大げさね」
「そうよ、御手洗くん。調子いいのはお酒の力?」
「そうだとしても、美味しい食事は、なんだか僕を救ってくれます」
「なんて安上がりな幸福なのよ」
 といった女将さんは、ツグミさんとにこにこと笑っている。もちろん僕も笑顔になって、残った湯豆腐を口に運ぶ。
 女将さんとツグミさんは、先ほどから話に出てるタカシさんを話題に、
 男って、どうしてバカなの、
 とか、
 御手洗くんは、つまんない男になっちゃだめよ、
 とか、
 僕としてはつい考えてしまう言葉(だってかごめにフラれた時点で、充分つまんない男になってたはずだし)をはさみながら、とても楽しそうに話している。
 ツグミさんが日本酒を飲み干したところで、入ってきたお客さんと入れ替わるように、お店を出る。
 さっき通り過ぎた神社の前で歩をゆるめたツグミさんが
「御手洗くん、これからどうするの?」
 と、僕に聞く。
「どうするって、そろそろ帰ります。ごちそうになりっぱなしで、申し訳ないです」
「そんなことはいいのよ。まだ電車あるの?」
「んー、どうでしょう。なければ、駅のベンチで本でも読んでます。どこかの映画で観たみたいに。それもいい経験ですよ」
 ちょっと、あごをひいて考えてる風なしぐさをしたツグミさんは
「じゃあ、今日は付き合ってあげる」
 と、僕の手を引いて、今度は角を曲がり、山手へ向かって歩き始める。扇山の稜線がかすかに見てとれる。
 いくつか角を曲がりながら、そのたびに扇山が見え隠れする。20分くらいも歩いただろうか、世間知らずの僕でも、特別な場所だとわかる意匠の建物の前。いやに大きな音をたてる自動ドアが開くと、ツグミさんはためらう風もなく、僕を連れて中に入る。今思えば、システマティックな仕組みだ。誰とも顔を合わせることなく、淫靡に内側から照らされている部屋の写真の下のボタンを押せば、ガチャリと音をたてて部屋の鍵が出てくる。そしてその写真を照らしていた明かりが消える。もう、僕は言葉を発するタイミングを失っている。エレベーターが、ふたりを5階に運ぶ。やけに暗い廊下。チカチカと点滅する電飾に導かれ、僕らはその部屋に入る。
 信じられないかもしれないが、その夜、僕らにはそれ以上、何もなかった。大きなベッドにふたり並んで、手をつないで朝までいた。僕はかごめに想いを馳せ、ツグミさんはもしかしたらタカシさんの事を考えていたのかしれない。ただ手をつないで寝る。そんな事が出来た18歳。

 15年後

「読んだわよ」
「読んだって、」
「そう、星の王子さま。あの時あなたが教えてくれた本」
「僕、顔が赤くなってませんか?」
「控えめに言って、真っ赤ね」
「今思えば、恥ずかしいです。白鯨とかにしとけばよかったです」
「いい本だったわよ。ホントに。今でも時々読み返してるくらい。パラパラめくったり」
「気の利いた返事を思いつかないので、素直にそのまま受け取ります。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう。ところで、あちらはご家族?」
「はい、そうです。妻と、3歳と1歳になる息子です」
「奥さん、めちゃめちゃ可愛いじゃない。うまくやったわね。あなたよりお若く見えるけど」
「ええ、7つ下です」
「あらら。てっきり年上好みかと思ってた」
「僕もそう思ってました。少なくとも年下ではない、と」
「そうよね。かごめもびっくりしてるわよ、きっと。フラットシューズじゃないし、私と全然違うタイプじゃないかって、怒ってるかも。遺影の写真、変えてやるって」
 アハハ、と、ふたり一緒に笑った。
「ツグミさんって、なんか、いいですね」
「なんか、って事はないでしょ」
「また怒られちゃった」
「父と母も来てるの」
「ぜひ挨拶させて下さい。お父さんにはお会いした事はありませんが、お母さんには、美味しい紅茶を淹れていただいたこと、覚えています」
「ぜひ、お話して。そしてあなたのご家族にもご挨拶できるかしら?」
「もちろんです。高校の時にこっぴどくフラれた彼女のみっつ上のお姉さんで、僕にピザとギムレットを教えてくれて、そして落ち込んでた僕と一緒に笑ってくれて救ってくれた、素敵な人だって、紹介します」
「うん、上出来」
大人になった御手洗くん。人は変われるんだね。よかったね。 
 にこやかな笑顔で僕の家族に歩を進めるツグミさん。その背中を見ながら僕の身体中には、忘れていたかごめへの想いが立ち上がり、広がる。僕の前にはかごめが現れ、目を細めて僕に笑いかける。僕も一緒に笑う。
「タツヤ、私のこと、思い出してくれた?」
「うん、思い出した」
「よかった」
「よかった、って。僕をこっぴどくフッたのはきみのほうだよ」
「そうね」
「そうね、って、」
「私のこと、今でも好き?」
「好きだよ、もちろん」
「忘れてたくせに」
「忘れないと生きていけないくらい、好きだったんだ」
「うれしい。でも、過去形なの?」
「もう一度言うけど、今でも好きだよ」
「あなたが私を想っていてくれれば、私はこうして生きていけるの」
「生きていけるって、僕が知らない間に死んじゃってたじゃないか」
「あなたが私を忘れないでいてくれれば、その想いが私を包んでくれれば、いつでもこうしてあなたの前にいられるのよ」
 きみの事を忘れたり、忘れようとしたり、
 もう二度としないよ。
 人は変われやしない。変わる必要もない。
 だって、
 きみと一緒に笑っていたいんだ、かごめ。
 僕の初恋の人。
                                    完

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