スタート
長くていい文というのは、よし、いい文を書こうとし産み出せるものではない。
ただの毒にも薬にもならないつまらないものになってしまう。そして、最近「そして」を使いがちだが(素知らぬことだがそのことはどうでもいい)
そして、いい文というものは大抵、机に向かっているときではなく便所で座って、椅子のぬるさを感じているときに産まれる。
若い女が不和の恋でいらない子供を命の可能性を流すようにして暗い穴の中から這い出てくる。時には手招きもする。
それをそれをただ糞と同じように流してしまうのは悲しいことだ。だから私は今これを書いている。自分の納得のために。
街を歩きだしたらそれは。「それは」も使いがちだがいい潤滑油になってくれるのでありがたい。その、ぬめりを押しとどめての感謝。ありがとう。
「それは、その、そして」
それはそうとして、町を歩いている時なんて大変で一人でならメモを取りながら歩くことができるので問題が無いのだが、友達と歩くとなれば話は別、トイレの回数が増え、そのたび弁明をしなければならない。
手のふさがらない個室でしか用を足さないのでいつもうんこだと思われているし、そのキャラが定着してしまった。つまり、思いつきをメモするためには遊園地にいようが、博物館にいようがトイレにはいり、自分の世界に入らなければならなくなる。今だってそうだ、トイレで思いついたものを、小説を書くための肥料であるこの文を、お風呂にはいるのをやめにしてベッドの上で書いている。汚くて臭い体をそのままに。
でも私はこの衝動に迷惑していない。それどころか感謝している。
名前を付けてかわいがってみようか、「アスター」と。
詩のようなものを一つ。
羽のはえそろってしまった天使、むじゃきさの皮を少しずつ露出するずがい骨にかえていくばかりの天使たち。私はそれを見たくない。歩みをどうか牛歩のように。わらって、私に。もう一度名前をよんでおくれ。
最後に。
歩いても辿りつけない場所というものはどうしても魅力的に映るものだ。