あなたの目の中に不安の色が見たかった
僕がこの本を知ったのは、かのドキュメンタリードラマ「三島由紀夫vs東大全共闘」にて、三島が言及したことに端を発する。そこで三島は表題の通りの言葉を用いてこの本を引用し、東大生に向かって何か語りかけていた。(語りかけていた内容は忘れた。話は変わるが、忘れるって時に最高であり、最悪である。忘れたいものを忘れることができることはどちらであるかいうまでもない。それを議題にしたいのではない。問題は後者だ。映画、本、美しい思い出、どんなに感激しようと、涙を流そうと、それらに影響され奮い立とうと、明日からの活力にしようと意気込んでも、いずれ忘れてしまう。ちょうど私がこのドラマの三島の発言を鮮明に覚えていない様に。それって悲しい。最悪。僕の脳の構造が悪いのかしら。)
それに得体の知れぬ魅力を感じ、読むに至ったのである。
さて、この本についてペラペラ喋ろうと思う時に欠かせないのはやはりテレーズ・デスケルウという女である。(以下、少々ネタバレを含むので、興味関心がある人は読んでから見た前。)
作中ではこの女、こう形容されている。
「テレーズは美しいとはいえないけれども魅力そのもののような女ね」
ーーーモーリアック 「テレーズ・デスケルウ」講談社文芸文庫 173ページより抜粋
前後に彼女を形容した文はいくつもあるだろう(もしかすると上にあげた形容も既出かもしれぬが、ここの場面が最も記憶に残っている)。しかしこの文、この文字の並び、女性を形容する際、「彼女には魅力がある」というのは月並みで誰にでも言えることだが、「彼女は魅力そのもの」ということを一体誰が言えようか!(一体誰が言えようかという反語文を用いておいてなんだが、三人も言えているのである。モーリアック、遠藤周作氏、作中のランドの女である。)
無論翻訳文であるが故に原文は少し異なるかもしれない。僕はフランス語に疎いため、ジュッマペール、くらいしか知らないため、原文に当たることは当分できない(冗談抜きに、フランス語に疎いことを恥じている)。ただそこは、芥川賞も受賞している、僕なんかよりもっともっと賢く鋭敏な遠藤周作氏の訳を信じようではないか(随分偉そうである)。
本題に入りたいが、このテレーズ、本当に魅力そのもののような女なのだ。ロオマンチックな、いかにも乙女な女ではない。孤独を抱え、人に無関心、自分の子供にさえ無関心、夫も愛したことはない(周りと比べて良い、という評価は一応している)、おまけにタバコの吸いすぎで手が真っ黄色。読書を好み、頭が良い、そのくせに、自分より読書量が豊富で考えの深い相手には話を合わせて知ったかぶりをするなど、人間らしい一面も併せ持つ。なんと言えば伝わるだろう、「彼女の興味のいくさきに、思わず読者である私までもが嫉妬してしまう」という具合か。我ながら、なかなか的を得たことを言うではないか。
そして、セックスに喜びを見出せない。これは現代の女性にも一定数いるのではないだろうか。作中ではこう表現されている。
「肉欲というものはわたしたち女に近づく男を、似ても似つかぬ怪物に変えてしまうのだから。」
ーーーモーリアック 「テレーズ・デスケルウ」講談社文芸文庫 45ページより抜粋
どうであろう男性諸君。テレーズは営みの最中死人の真似をしていたそうだ。死人。。。 マグロ。。。
下ネタは置いておいて、僕は、最近になってだがテレーズの考えに深く同情できる。セックスは男の快楽のためにしか、ほとんどなっていないと思う。巷のフェミニストみたいなことを言っているが、割とマジで。これは専ら自分の恋愛体験によるものかもしれないが、本当にテレーズに似た女性と出会ったことがあり、その時の彼女の考えが今になってわかるのだ。だって、あんなもの、終わってみたら残るのは孤独だけなんだから。
テレーズという女を理解するのにもう一歩進むとしたら、それはアルジュルーズという土地を理解することと同値である。松林が無限に広がる、寂寞とした世界。孤独そのもののような世界。この自然描写が、本当に退屈になる程ふんだんに散りばめられ、それがテレーズの心の裡を細やかに表しているのだ。もう書くのがめんどくさくなる程なので、ここはぜひ読んで体感してもらいたいところだ(私は自然描写を読むのがあんまり得意ではない。どうしてもプロットの方に集中してしまう。アホの印である。もっと勉強した前)。
もうテレーズのことが大好きでかつ大嫌いという、愛と憎しみ、これが好きってやつ、私生活集中できなくなる、いやイーフトか、って感情を覚えてしまっているもんだから、彼女についてもう一つ書くと、「矛盾」を内包した女なのだ。ここでは括弧を矛盾につけといてなんだが、内包という言葉が重要で、性質そのものではないということを理解していただきたい。いわば「そう空想できるような自分は、それとして一人飼っている」ということ。
前述した通り、テレーズはセックスにポジティブではない。夫も愛していない。人を愛さない。しかし、夜にベッドで知らぬ男に抱かれて恍惚としている自分を想像したりする。ジャンという、夫と違う男と出会うのだが、恋はしていない、と言ってる割に、事あるごとに彼を思い出す(恋はしてない、って言ってる時点で逆説的だけど恋してるよな)。時にエロティズムを感じさせたり、貞操の危うい部分を感じさせる。そういう、自分を高尚に見せといて、ちゃんと気まぐれな女の部分があるのがテレーズの魅力なのではないだろうか。いやはや僕は本当に似た女と付き合ったことがあるのだ。彼女、嫌だろうな、こんなところで書かれて。思い出すなら、せめてもっと有名になってから思い出せってね。ノーベル賞のスピーチの時とかね。いや流石に、僕の中の彼女の理想像投影しすぎか。でも本当に似ていた。冬が大好きな人で、それは僕に純白なイメージを与えた。事実、綺麗だった。賢く、おしゃれが好きで、少しというかだいぶ生意気であった。
さあ肝心のプロットの方だ。もう簡単でいいよプロットは。あ、さっきプロットに集中しちゃうとか言ったのに。矛盾している。あ!矛盾内包しちゃってる!イェーイ!テレーズは矛盾、俺は矛盾、三段論法より、俺🟰テレーズ。だからテレーズの場合、性質じゃないっての。
やや気が狂ったところで、プロット。テレーズは毒殺を図るんです、夫の。でも夫死にません。裁判になりますが、夫は家族の体裁をめちゃくちゃ気にして嘘つくので、テレーズは免訴になります。そのかわり、夫一家に幽閉生活を強いられる。そのテレーズの孤独を追っていく話です。
やっとここで表題のセリフが出てくる。三島が引用したところ。物語終盤、夫はテレーズに問いかけるのです。なんで俺にアレをしようと思ったんだ?って。阪神ファンの諸君、アレって、アレじゃないよ。aim!respect!empower!じゃないよ。お間違えなく。そこでテレーズは言うのです。あなたの目に不安の色が見たかった、と。
いやあ〜、モーリアック、さすがノーベル賞取ってるだけあるね。これはすごいよ、すごいことなんだよこれが書けるって。だって、誰しも自分がやったことの理由を巧みに雄弁に語れないでしょ。今日だって、俺朝からこのブログ書いてるけど、それなんでって言われたら説明できない。でも作家である以上、その分からないことを分からないで終わらせたら、名が売れないわけで。モーリアックはこう言ったのだ(もしかしたら分かってた可能性もあるな、天才だし)。そしてこの言葉をちゃんと覚えてて引用する三島もさすが。凄いものをすごいとわかるのは、当たり前でない。馬鹿の前には、どんな言葉も無味乾燥している。「名馬常にあれど、伯楽常にあらず」だね。
そんなこんなでテレーズ・デスケルウ、語ってきたのであるが。ここで私は、このテレーズを自分のものにしたい、閉じ込めておきたいという自分の中の暴力性に気がつく。と同時に、この女から離れなくてはならない、遠い地球の端っこに置いておかねばならないというアラームも鳴る。そう、あの夫、および家族と一緒なのだ。燃えるような恋ではない、ただ、彼女の特別でいたい、認められたい(まんまミスチルのloveである)。男目線で話すと、こういうまとめ。
同じ人間という目線で言うと、こんな孤独を感じている人と、本と出会えて、嬉しくて暖かい気持ちになりました。こういう具合である。
いやまとめが薄いねえ〜anticlimax、ってやつですねえ〜。まあ、初回ということもあり、ご勘弁くださいな。