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制約されざる人間

フランクルの「制約されざる人間」を読んだ。
今回の芝居にとても関係がある。
そんな気がしたのだ。

ー事実性へと「堕落する」前の実存的人間。
無力を知っている者はまた、精神の抵抗力の証人ともなるのである。

精神がそのつど「触れる」ものすべての「もとに在る」
「私は見た、それが善なることを」
空間化と分裂。

生、それは暗闇であり、死、それも暗闇である。受肉。

時は流れ去る。
しかし生起したことは歴史として凝固する。
生起したいかなることも、生起しなかったことにすることはできない。
創造されたいかなるものも、この世界から取り除くことはできない。
すべてのものは過去存在の中で失われることなく守られている。

すでに視た。
離れて立つ。
精神は実体ではなく、純粋な力。

それにもかかわらず、つまり人生が不完全であるにもかかわらず、人はいつでも人生にイエスと言っている。

人間には責任がある。
死ぬとき意識が消えても、責任は消えない。
それは究極的な自由を背景としているということであるー


堕落する前、触れる前のわたし。
それがすぐそばに在る、いつも。

過去は永遠であり、未来はエネルギーである。

死んでも楽にはならないが
わたしたちはいつ死んでもいいのだ。
自由だ。

それなのに好き好んで、生きるを選ぶ。
生きると責任は、同時存在だ。

責任とはつまり
死ぬ自由のことだ。

愛とはつまり
狂気の果てに咲く花だ。

ねじれ、うねり
精神の破綻と、有象無象の果てに
人間は何を掴み取ろうとするのか。

それはもはや
作品を越えて
わたし自身の問題なのだ。


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