【掌編小説】花言葉
PCの画面右下の数字が17:00になって、僕の研究者としての人生は終わった。
はあ、と思わず小さくため息が漏れる。のろのろと机の上を片づけて黒いリュックを背負った。
この研究所で非常勤研究員として勤務するのは今日までだ。この席には、明日から僕より若くて将来有望なやつが座る。
「お疲れ様です、失礼します」
なんとなく周りに向かって小さく声をかけると僕は席を立つ。誰からも返事はなかった。
「お、お疲れさん。今までありがとうね」
挨拶のために事務室に顔を出すとPCに向かっていた所長が僕に笑いかけて言った。
「……こちらこそ、お世話になりました」
「森本くんはこれからどうするんだっけ?」
「地元に帰って会社勤めすることになったんです」
「そっか」
所長がそう言うと、一瞬だけ世にも気の毒そうな色が瞳に映った。夢破れて都落ちする僕に対する同情。
「じゃあ頑張ってね、元気でな」
僕はありがとうございました、ともう一度小さく言うと逃げるように事務室をあとにした。
「なんにもなれなかったな」
呟いた言葉が思いのほか大きく聞こえて胸の中にすとん、と落ちた。
見慣れたはずの白い廊下が見る間にじんわりと滲んでぼやける。
僕の人生において故郷の両親を喜ばせることができたのは、都内の名門大学に受かった時だけだった。
奨学金を何百万も借りてまで大学院に残っても、研究者にはなれなかった。
そんな僕のために走り回って小さな会社の事務員の仕事を見つけてくれたのは父だ。
僕は自分が情けなかった。
たとえなんにもなれなくても、明日もあさっても人生は続いていく。もう二度とここに来ることはない。
そう思いながら入口のドアを押した時に、後ろから声を掛けられた。
「森本さん!」
僕は慌てて白いシャツの袖で涙を拭って振り向く。
「繭ちゃん?」
繭ちゃんはアルバイトの大学生の子だ。研究所には週2、3日来て郵便の発送やデータ入力なんかの事務作業をしてくれている。
僕にはよくわからないけど繭ちゃんは服装にこだわりがあるらしく、今日もお嬢様みたいなひらひらしたワンピースを着て長い黒髪を背中に垂らしていた。
繭ちゃんはたまに仕事中の僕に話しかけてくることがあった。
いつも「このお菓子まずいから森本さんにあげます」とケミカルな色のスナック菓子やどう見てもゴムタイヤにしか見えないグミを置いて足早に去って行く。僕はいつも意味が分からずにただ「どうも」と返事をして受け取っていた。
そういやあの子のことを同僚が陰で「不思議ちゃん」と呼んでいたっけ。
「どうしたの?」
声をかけると繭ちゃんは困ったような顔をして僕を見上げた。
青白い頬に微かに赤みが差している。
「これ、あげます」
「え?」
手に小さなブーケになった青い花束をぎゅっと押し付けられた。
「今日で最後だって聞いたから」
「……ありがとう」
非常勤研究員は入れ替わりが激しいので、元々送別会もやる慣習はなかった。
僕がいなくなることなんて誰も気に留めていないと思っていたのに。
「森本さんこのお花の名前知ってますか?」
「知らない」
「勿忘草って言うんです。可愛いでしょ? この機会に覚えて下さいね」
彼女はやっと調子を取り戻したように忘れちゃ、だめですよ、といたずらっぽく笑う。端が吊り上がった唇がやけに赤かった。
「じゃあね、森本さん」
「繭ちゃんも元気でね」
もうこの子に会うこともないんだな、なんて考えると急に名残惜しくなった。さっきまで何とも思っていなかったのに、現金なものだ。
「どうしたの?」
繭ちゃんがなかなか立ち去ろうとしないので、僕は声をかけた。
少しだけ変な感じに間が開く。
「……何でもないです」
彼女はそう言ってさっさと歩いて行った。すぐに小さな後ろ姿が見えなくなる。
「ああ、そう?」
やっぱりよく分からない子だったな。
家に帰っても、一人暮らしの部屋には花瓶もない。仕方なく水を入れたペットボトルに花を差しておいた。
数日後に見ると花が枯れかけていた。
思いついて研究所に来てからつけていた日誌の一番前のページに押し花にして、重石代わりの辞書を載せる。
こんなことをするなんて、ちょっと感傷的になっているみたいだ、と思いながら。
それから月日が巡り、何年か経ったある日。
残業の帰りに疲れた体を引きずるようにして駅に向かうと、ぽっかりと開いた空き地に儚げな青い花が一面に咲いていた。
思わず立ち止まって見つめる。疲れた心がほんの少し癒されていくように感じた。
この花をどこかで見たことがある気がする。あれは……。
家に帰って押し入れにしまったきりになっていた日誌をめくると、可憐な青い花は変わらずにそこにある。
何気なく押し入れで埃をかぶっていた国語辞典を引っ張り出して「勿忘草」の頁を引く。
「ムラサキ科の多年草。高さ約30センチ……」と続く説明の後の言葉が目に飛び込んでくる。
「花言葉・わたしを忘れないで」
わたしを忘れないで?
思わずその文字をそっと指でなぞる。さらさらと薄い紙の感触がした。
そういえば、あの時の花はわざわざ買ってきてくれたんだよな。
今思えば、繭ちゃんが話しかけてくれたのはいつも僕が自信を失って落ち込んでいる時だった。
もしかして繭ちゃんは、僕のことを好きでいてくれたのだろうか。
今となっては真実はもう分からなかった。
どうしてあの子はこう訳の分からないことばかりするんだろう。
そして確信する。
これから何年経っても、春がくるたびに、あの青を見るたびに僕は繰り返し可憐な花が待っているこの頁をめくってしまうだろう。
そして思い出す。もう記憶の中で輪郭も朧げになってきてしまった、青白い頬をした女の子のことを。
忘れちゃ、だめですよ、と頭の中で声が聞こえた。
<了>
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