「意味という病」の夢の中の世界を読んだ
批評家の柄谷行人さんの「意味という病」に収められている「夢の中の世界」を読みました。
私たちが夢を見たというとき、思い浮かべているのは夢の世界ではない。それは「距離」を置き観察されたものに過ぎない。私たちが「夢の世界」で生きているときは、振り返ればそこで奇妙なことばかり起きていたとしても、現にそこにいるときはただ起きた出来事に了解するだけである。
化け物に追いかけられている夢を見たとして、私たちはその状況に疑問を持たない。ただ必死になって逃げるだけだ。疑問を持つのは目覚めた後である。「夢の世界」、そこには「距離」がない。目覚めて、振り返る事後の観察をするときはじめて、夢は不可解なものに思える。
なぜ不可解なものに思えるかといえば、「なぜ」「いつ」「どこで」といった統語法の秩序の中に夢を組み込もうとするからだ。体験を整理して物語化する。この物語化は夢の世界だけではなく、現実の世界にも起こる。自分の身に起こったことを言葉で整理、捨象して物語を作る。この物語が自己だ。人間は物語を作り続けなければ自己を保ちえない。
私たちが未開社会や狂気の思考、また夢の自由奔放な内容に憧れをもつのは、それを外側からみるだけで内側から見ていないからだ。内側から見るなら、未開社会の生活の過酷さに直面するだろうし、聞きたくない声が頭に鳴り響き、見えないはずのものが目の前にありありと浮かび上がるだろう。出来事を直接突きつけられる、リアルな世界を生きることになる。
いやむしろ未開、狂気、夢の思考に憧れを持つのは、私たちが非現実感のなか生きているからかもしれない。今、ここにいるという感触を持てないから、確かな現実がありそうな未開、狂気、夢の世界を求めるのかもしれない。
自分なりに内容をまとめてみようとしました。が、ぐちゃぐちゃになってしまいました。
「夢の中の世界」を読んでいて、サルトルの「嘔吐」に出てくるマロニエの木の根のことを思い出しました。
意味を剝ぎ取られ目の前に突き付けられる存在。それと「夢の世界」を生きているとき了解する出来事。この2つの関係を考えてみたいと思いました。