済州島四・三事件【気になった記事のメモ】(291)

♯20250107読売夕刊.世界史アップデート

○済州島の一般島民を含む25000~30000人が犠牲

○長く「共産暴動」としてタブー視されてきた

○当時の李承晩大統領ら国家権力の責任を指摘する調査報告書が03年に作成された

○半島が米国とソ連による南北占領下にあった1948.4.3、米国が南部のみの単独総選挙を進める中、南北の分断に反対する済州島の一部島民が蜂起。同年夏、韓国が成立。
 李承晩が初代大統領に就くと、武力鎮圧が激化。「済州島四・三事件」は54年まで続いた

○李政権下で軍が48.10、全島の海岸線から5キロ以上離れた場所に出入りする人々を銃殺する布告を発し、11月には李大統領が戒厳令を敷いて村々を焼き払う焦土化作戦を実行。約130の村が焼かれた。50~53年の朝鮮戦争下では、共産主義者らの動向を警戒し、一般の済州島民を次々に虐殺した。

○一部島民が蜂起の拠点としたハルラ山の禁足が54.9に解除されるまでに多数の犠牲者を出したが、韓国では87年の民主化以前、事件は「共産暴動」とみなされ、蜂起に無関係の多くの一般島民の遺族でさえ、口を閉ざすことを強いられた。

○大阪には戦前から済州島との定期連絡船が運行していた。事件後は多くの島民が逃れてきた。
「事件から逃れるために1万人以上が日本に密航したのではないか」
 大阪市の統国寺、境内に慰霊碑

○「対馬に漂着した遺体の多くは、虐殺を隠すために済州島沿海に放置された犠牲者だろう」

cf.光州事件、反日、ライダイハン等々

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