3.「れる,られる」表現について
今回は「れる,られる」はあいまいな意味になるという話です。
皆さんは「~と見られる」や「~と考えられる」といった「れる,られる」表現を用いる機会は多いでしょうか。noteに記事を投稿されている皆さんが頻繁に用いる表現ではないようにも思います。一方,私が専門とするメディカルライティングの領域では,よく見かける表現で,それによって文意があいまいになるケースがあるので,お話しておこうと思います。
「れる,られる」は複数の意味を持つあいまい表現です。「来られる」という表現を例にとってみましょう。
明日の食事会には来られますか。
これは,可能と敬意の2通りの意味を含んでいてあいまいです。よって,両者を区別するために,以下のように明快に表現することが大切です。
明日の食事会に来ることは可能ですか。(可能)
明日の食事会にはいらっしゃいますか。(敬意)
次は「考えられた」を例にとってみましょう。
彼は無罪であると考えられた。
これは,可能あるいは受け身の意味に解釈できます。よって,この場合も両者を区別できる明快な表現に変える必要があります。
彼は無罪であると考えることができた。(可能)
周りの人々によって彼は無罪であると考えられた。(受け身)
以上のように「れる,られる」は複数の解釈が可能なあいまい表現になることがありますので,そのような場合は「れる,られる」ではない別の表現を用いるよう心掛ける必要があると考えています。
ところで,さきほどの受け身の話に戻りますが,日本語では「周りの人々によって」という表現を使った受け身ではなく,次のように能動的な文体にするほうが一般的ではないでしょうか。
彼は無罪であると,周りの人々は考えた。
周りの人々は,彼は無罪であると考えた。
これらの表現のほうが日本語らしさを感じます。「周りの人々によって」と記述することもありますが,それは文意の流れを考慮したい場合,あるいは上述のような能動文では伝えきれない微妙な感じを含めたいといった特殊な場合に限っていると思います。
そのような特殊な場合の受身表現であれば,用いる価値がありますし,文意の明快さも損なっていませんから問題はありません。しかし時々,受身文にする必要性はない,あるいは能動文で表現したほうが明快であるといったものに「れる,られる」の受動表現を充てているケースを目にすることがあります。それは高い確率で,日本語の受け身と英語の受動態を同じものと考えて「れる,られる」を使った受身表現にしているという印象を受けます。しかし,日本語には英文法でいう「態の変換」というルールはありませんので,受け身的な意味だからといって,文の述部に「れる,られる」を単純に充てるのは間違いであって,文意をあいまいにすることも多く,日本語らしさを損なう大きな原因になります。
次回は,このような日本語の受け身について,英語の受動態との比較も含めながら,お話します。