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たまには日記(回顧録②)

昨日の続き

毎年シーズンを迎える直前の3月に春季キャンプを敢行しており鹿児島へ約2週間の練習をしに行くというものがありそこが最大のアピールの場だと思っていたのだがその数日前に怪我をしてしまった。足首の靱帯の損傷だ。
ベースランニング中に痛めてしまい1人で歩くことが出来ず肩を借りながらクラブハウスに戻り応急処置をしてその後の病院で診断された。
「歩くこともままならないならキャンプは来ない方がいい」
監督からの一言だった。
至極真っ当なことなのだが今年にかける思いが強かった分、戦力外通告を受けた気持ちになった。

なんとか足首のケガを2ヶ月ほどで完治させ練習にも復帰し再起をかけるべく練習に励んでいたが、今度は練習中にひどい息苦しさと胸の痛みを感じ練習後病院に行ったら「肺気胸」と診断された。
緊急入院で1週間の療養と半年から1年ほどは激しい運動の制限がなされた。
この時に自分の中で終わりを感じた。
運も実力のうち。ではないがここまで立て続けにアクシデントが重なると神様から肩を叩かれたような気分だった。

監督から学生コーチの打診をされたが現役で選手としてプレー出来なくなったら辞めようと入部前から決めていたのでその時点で迷いはなかった。

2年生の9月秋のリーグが始まる直前に退部を決意した。
辞めることに対して相談した人はいなかった。自分で決意したことだった。
厳密にいうとこのような決断が初めてのことすぎて誰に相談して良いか分からなかったのが本音だ。

監督室のドアを叩き、野球辞めたいと告げようとした時
「や、や、野球部を…や、や、やめたいです。」
辞めようと決意をして言いに行ったのに口に出そうとすると上手く発することが出来なかった。

よく好きな子に告白しようとする子が緊張して
「す、す、好きです」
みたいにどもってしまう感覚と同じような気がした。笑

そしてその辞めたいです、という言葉を発した瞬間自分でも驚くほど涙が出てきた。

自分でも当時は不思議なほどだったが今思うとそれだけ打ち込んできたものに終止符を打つ、という中での心の葛藤があり抑えたものが噴き出したからなのだと思う。

その日家に帰り親に話した。
辞めることを一切話していなかったので大分驚いていた。
そして少し間が空いて父親が
「お疲れ様」
と声をかけてくれて、それに驚いたことと涙が止まらなかったことを今でもハッキリと覚えている。

父親は僕が野球をやっている姿を毎週末追いかけてくれて高校時代は雑誌や新聞の記事をスクラップするほど熱烈に応援してくれていた。
そんな父だったからこそ何も言わずに辞めたことを僕は怒られるのではないか、と思ってたからまさかのお疲れ様。という言葉に驚いた。
それと同時に今まで小学生の時に野球を始めたいと話をしてそこから大学まで自分がやりたい!ただ言ったことを何も否定せず続けさせてくれた両親の暖かさと寛大さに涙が止まらなかった。

結果的に大学での野球は2年の秋まででそれ以降は普通の大学生としてアルバイトや友達との遊びなど部活動をしていた頃には出来なかったことを沢山することが出来た。

『あの頃の自分の選択が正しかったか』

人生のターニングポイントみたいな形で振り返ると必ず大学2年生の時を思い出すが、あの時あの決断をしてなかったら今の自分がいなかったと思うと胸を張って正しかったと言える。

幸い、辞めた後でも同級生や先輩とも関係性が続いているので野球部での経験や感じた思いは今でも財産になっている。

2回に分けて長々と書いてしまったが自分の人生の棚卸し、という意味でもこのことを書いて良かったなと思う。
毎日が忙しなくすぎると過去のことがどんどん薄れてしまうのでたまにはこうやって過去の出来事を振り返るのも良いかもしれない。

また明日からは前を向いて進んでいこう



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