雷鳴(禍話リライト)
話の詳細から察するに、二十年近く前の出来事ではないかと思う。
ある大学の、理系の研究室での話である。
その研究室では機器の番をしなければならない関係で、夜間も学生が残っていた。
ある深夜、学生のAさんが一人で研究室に残っていたときのことだった。
廊下を誰かが歩いてくる音がした。しかし部屋の外は真っ暗だったという。
電気も付けずにどうしたんだろうと思ったが、足音はAさんのいる研究室の前で止まった。
コンコン、とノックをして部屋に入ってきたのは、研究室の先輩のBさんだった。
Bさんは長いこと大学に残っていた人で、よくある話だが、データは揃っているのになかなか論文が書けず、卒業を先延ばしにしていたという。
ほとんど研究室に来ず、ゼミにも顔を出さない。
Aさんは彼を大きなイベント事のときに数回見かけた程度だった。
Aさんは挨拶して、軽い世間話に応じた。
しかしBさんと二人で話すのは初めてで、歳も離れている。
お世辞にも会話が弾んだとは言えなかった。
正直なところ、Aさんはこの状況を気まずく感じたという。
しばらく相手をした後、Aさんはイヤホンを付けて自分の作業に戻ったが、Bさんは意に介した様子もなくさらに話を続けた。
「俺さぁ」
何か相談事だろうか。進路のこととか。
作業をしたい気持ちはあったが、Aさんは仕方なくイヤホンを外した。
「思い出したことがあってさぁ、家族で飯食ってたんだよ」
思っていた話とは違うようだ。Aさんは前置きなく始まったその話題にやや戸惑った。
「ごめんなさい、いつの話です?」
「小学生のときだよ」
小学生のとき……
いやに唐突に昔話が始まったな、とAさんは思った。
「高学年じゃなかったと思うなぁ。二、三年くらいかなぁ。
家族で晩飯食いながらテレビ見ててさぁ。ブラウン管だよな。
いつもはじいちゃんの好きなクイズ番組とか歌番組とか見てたんだけど。
その日塾かなんかで、俺帰るのが遅くなっちゃってさぁ。
うち晩飯の時間決まってたから急いで家に帰ったの。その日トンカツで。
で食卓ついたら、みんな黙ってテレビ見てんのね」
Bさんは話を続ける。
彼の話は、ある日家族の食卓で見たテレビの映像についての記憶だった。
それは真っ暗な廊下を歩いていくだけの映像だった。
はじめは、よくあるホームビデオのハプニング集か何かかと思ったという。
しかし番組のテロップのようなものは出ていないし、続けて何かが起こるわけでもない。
廊下はどこまでも続いている。
何がそんなに面白いんだろうと思ったが、家族は黙ってそれを見ている。
しばらく見ていて気が付いたが、途中で映像がプツッと切れて、また同じ映像が続いている。
長い廊下を歩く一本の映像ではなく、短い映像が何度も繰り返されているとわかった。
家族はそれをただ黙って見ている。
Bさんは「これ何なの?」と尋ねたが、誰も答えてくれなかった。
Aさんはその話を聞いて困惑した。
たしかに不思議な記憶だが、だから何だというのだろう。
「あー、たしかに変ですね。映画かなんかの一部ですかね」
適当に相槌を打つ。
Bさんは「うん」と答えた後、
「家族揃って飯食ったのそれが最後なんだ」
と言った。
ん?
話に脈絡がないというか、要領を得ない。
その直後に誰かが病気になったり亡くなったりしたのだろうか。
しかしBさんからそれ以上の説明はない。
AさんとBさんの間にしばらく沈黙が続く。
やがて、
「俺、その後は家出る形になって、家族とは音信不通なんだよね」
Bさんがようやくぽつりと言った。
そ、そうなんですか……
「あの映像が良くなかったのかなぁ。どう思う?」
……
答えようがない。
一体この人は何が聞きたいのだろうか。
Aさんは面食らった。
「えぇっと、もしかしたら何か関係があるかも、ですねぇ」
とりあえず曖昧な返事をするしかなかった。
「ごめんごめん、変な話して。こんな時間に。ごめんね」
Bさんは謝ると、そのままふらっと部屋を出て行った。
Bさん、ひょっとしてこの話をするために研究室に来たのかな。
Aさんの頭には「?」が巡るばかりだった。
◆ ◆ ◆
その週のゼミで、AさんはBさんの件を他の学生たちに話したという。
すると、ほぼ全員が「自分のときも来た」と反応した。
流れはどの学生のときも大体同じだった。
深夜、電気も付けずに廊下を歩いてきて、研究室に入ってくる。
やおら子供の頃に見た、奇妙な映像の話を始める。
そしてその記憶を最後に家族とご飯を食べていない、と——
最後にやはり「その映像のせいかどうか」を尋ねられたが、皆Aさんと同じように適当な返事をしたのだという。
変な話だな。学生たちでそう言い合っていると、
Cさんという学生が浮かない顔をして「私だけなのかなぁ」と呟いた。
彼女も一人で研究室にいたときに、Bさんから同じ話をされたという。
Cさんは真面目な性格で、授業中の教授の与太話にも頷きながら耳を傾けてしまうタイプの学生である。
皆が適当にあしらっていたBさんの話を、彼女は真剣に聞いていたのだそうだ。
そのせいなのか、Bさんの話で彼女だけ気が付いたことがあったという。
「Bさん、一回だけビデオの撮影者のこと『俺』って言ったんですよ」
え……
皆それを聞いて黙りこくってしまった。
「そ、それって大丈夫なの?Bさん……」
明らかに話の辻褄が合っていない。
ひょっとして、彼はかなり「やばい」状態になっているのではないか。
学生たちの話は彼の精神状態を懸念する方向へと広がった。
また同じような話をしてきたら、あるいはもっと対応に困るようなことをされたらどうしよう。
心配した学生たちは指導教員に相談し、Bさんが入っていないメーリングリストを使って、関係者に注意喚起してもらったという。
メールが何らかの功を奏したのか、翌週からBさんの奇行はなくなり、研究室にも姿を見せなくなった。
しかし強烈なエピソードのせいか、何人かの学生が「例の映像を見せられる悪夢」に苛まれたという。
研究室のドアを開けると、他の学生たちが集まっていてこちらを見ている。
「お前を待ってたんだ」というようなことを言いながら手招きする。
彼らが取り囲む中央には、大きなテレビデオ——VHSビデオデッキが内臓された、一昔前のテレビ——が置いてある。
誰かが再生ボタンを押す。
暗い廊下が画面に映し出され、そこを歩いていくだけの映像が流れる——
◆ ◆ ◆
メーリングリストを回してから一週間ほど経った日のことである。
ゼミの指導教員であるD教授が、珍しい時間帯に研究室にやって来た。
気になって用件を聞くと、どうやらBさんが大学を辞めることになったという。誰か詳しい事情を聞いている者はいないか、と。
「随分急な話ですね……」
誰もBさんからそうした話は聞いていなかった。
ひょっとしたら先週の件で、露骨に彼を避けるような空気を出してしまっていたのかもしれない。
不気味だったとはいえ、直接危害を加えられたわけではない。
Bさんもただ構ってほしかっただけなのではないか……
学生たちは少し申し訳なく思い、D教授に事の経緯を尋ねた。
教授はBさんから受け取ったという手紙を学生たちに見せてくれた。
学内の教員宛ポストに、直接投函されていたのだという。
コンビニかどこかで適当に見繕ったのであろう。可愛らしいキャラクターものの便箋に書かれたそれは、どこかシュールだった。
内容はごく普通だった。
お世話になりましたとか、これで学業に踏ん切りをつけて、といったような言葉が並んでいる。
手紙を最後まで読んでいくと、末尾に奇妙なものがあった。
文章全体は丁寧な字で書かれている。
しかし最後のその箇所だけ、文字が乱れていた。
「……これ、何だろう」
「うーん、雨?って書いたのかな……」
手紙の中の位置から考えると、名前のようにも見える。
しかしBさんの名前とは関係のない字だ。
そもそも、なぜ書きかけのままグシャグシャに塗り潰されているのか。
彼は一体ここに何を書こうとしたのだろうか。
頭を捻っても答えは出てこない。
D教授はBさんの心身を案じているようだった。
突然の手紙だったこともあり、まずは本人に連絡を取ろうとしたという。
しかし携帯電話に掛けても出ず、メールアドレスも変えてしまったのか届かなかった。
「Bくん大学の近くに住んでるから、今から訪ねてみようと思うんだよね」
話を聞いた学生たちも、さすがにBさんの現状が心配になってきた。
直接的な退学の理由はわからないものの、彼への対応に罪悪感がないわけでもない。
研究室にいた学生たちの何人かが、教授に同行することにしたという。
◆ ◆ ◆
一同はBさんの住むアパートに到着した。
D教授が名乗ってノックをする。返事はない。
教授がドアノブに手を掛けると、鍵は開いているようだった。
教授は躊躇いながらも「Bくん、入るよ?」と声を掛け、そっとドアを開けた。
玄関には靴があった。
いや正確には、靴「は」あった、という。
入口から見通せる限り、並んだ革靴と運動靴の他に、その部屋には何もなかった。
靴は置いてあるのだから、退居したわけではないはずである。
「もしかして引っ越しの最中なのかな……」
彼らはおそるおそる部屋に上がった。
やはり部屋の中には何もない。家具も家電もない。
奥の部屋の襖が閉まっている。学生の一人がそこを開けた。
途端に「うわ!」と声が上がる。
どうしたどうした、と皆が部屋を覗きこんだ。
そこにはBさんのものであろう服が置かれていた。
しかしその置かれ方が異様であった。
Bさんのあらゆる衣類が、種類別に分けられて、綺麗に畳まれている。
Tシャツ。
セーター。
ジャージ。
下着。
ジーンズ。
靴下。
誰かが「下着泥棒とかが捕まったときに、警察が会見で出すやつみたい」と言った。
ニュースで時折見かけるあの事務的な図——たしかに、それほど神経質に衣類が分類され、畳まれ、並べられている。
家具も家電もないのに、服と靴はある。
その部屋のちぐはぐさに、誰もが言いようのない気味の悪さを感じていた。
水道の蛇口をひねってみた。水は出る。
しかし部屋の電球は抜かれている。
まるで整合性がない。
ベランダを見に行った学生が、急に「ちょ、ちょっと!」と大声を上げた。
次は何だよと、他の学生がうんざりしたような声で尋ねる。
「あの、ベ、ベランダに……」
「どうした。洗濯機でもあったか?」
「いえ……、テレビデオがあります」
えっ。
部屋にいた全員が立ち上がり、ベランダを覗き込む。
たしかに、普通の安いアパートなら洗濯機が置いてありそうな場所に、テレビデオがあった。
しかしその画面はバキバキに割られていた。
トンカチか何かで力いっぱい殴ったように。
ベランダには破片が飛び散って、足の踏み場もない。
ビデオデッキから一本のVHSテープがはみ出している。
不思議とデッキの部分には損傷がなかった。
VHSテープを取り出す。
テープのラベルには「雷鳴」と殴り書きされていた。
何の脈絡もないその文字列を見た瞬間に怖気が走り、思わずテープを叩きつける。
気持ち悪!!!!
「あ、あの、手紙の『雨』って……」
誰かが言いかけたところで、全員が限界に達した。
一同はそのまま逃げるようにBさんの部屋を後にしたという。
ひょっとしてあのテープが、Bさんが家族と見た映像なのではないか。
誰の頭の中にも同じ考えがよぎった。
しかしどうしてそんなものが、今Bさんの手元にあるのか。
そしてあのタイトルは——何も意味をなしていない。
何もかも筋が通っていない。
D教授も部屋の異常さに圧倒されたようだったが、やがて冷静さを取り戻し、学生たちに告げた。
——とにかく彼の精神状態が普通じゃないことは確かだ。他に連絡先がないか調べてみる。
このことは外部に漏らさないように。教授はそう釘を刺し、その日は各自帰路についた。
◆ ◆ ◆
翌週、学生たちが研究室で集まっていたときのことだった。
Bさんの家に行って以降、皆どこか怯えていて、自ずと研究室に集まるようになっていた。
遠くから救急車の音がする。
それだけでは特に気に掛けないが、まもなくその音が大学の構内にまで入ってきた。
「あれ、もしかしてうち?」
野次馬根性で何人かが建物の外へ出て、救急車の行き先を探す。
けたたましいサイレンを鳴らしながら構内に入ってきた救急車は、教員用の個人研究室がある棟の前で停車した。
学生たちが出入口を見守っていると、しばらくして救急隊員たちに運ばれて担架が出てきた。
担架に乗せられていたのはD教授だった。
「えっ……」
学生たちは言葉にならない声を上げる。
D教授はそのまま救急車に担ぎ込まれていった。
とにかく事情を知ろうと周囲の人に尋ねると、異変に気が付いたのはD教授の隣の部屋の先生だったらしい。
急に何かが倒れるような大きな音がして、驚いて廊下に出たら、隣のドアが開いていた。
中から苦しそうにD教授が這い出てくるのを見て、慌てて救急車を呼んだのだという。
教授が病院に搬送されたという話を聞いた学生たちは騒然としたが、
今しがた運ばれていったなら、教授の部屋を見に行ったほうがいいのではないかという話になった。
急に倒れたということは、室内も荒れているかもしれない。片付けが必要だろう。
学生たちがD教授の研究室へ入ると、案の定部屋は荒れていた。
倒れたときにぶつかったのか、棚が横倒しになり、本や書類が散らばっている。
皆で協力して家具や本を元に戻し、部屋を掃除する。
すると、一人があることに気が付いた。
研究室の固定電話が埋もれているのである。
教授が倒れた拍子にそうなった、という様子ではない。
まるで意図的に本やものを配置して、電話を隠しているかのように感じられるのだ。
埃は積もっていない。最近やったのではないか。
内線電話も掛かってくるだろうに、どうしてこんなことを。
不審に思った学生たちは固定電話を掘り起こした。
ディスプレイに着信履歴が何件か表示されている。
一番上にはある固定電話からの着信が記録されていた。
この辺りの市外局番ではない。
それを見ていたCさんが「あっ」と声を上げた。
「この番号、昨日の夜中に私の携帯に掛かってきたやつだ」
Cさんの言葉を聞いて何人かがハッとしたように言う。
「それ、俺も掛かってきたやつかもしれない」
心当たりのある学生たちが携帯の着信履歴を確認する。
彼らに掛かってきた着信はすべて、その番号と一致した。
Cさんも他の学生たちも、夜中に掛かってくる知らない固定電話を怪訝に思って、出ることはなかったという。
教授の電話のディスプレイの着信履歴をもう一度よく見る。
番号の横に 【ツウワジカン ○フン ○○ビョウ】 と表示されていた。
話しちゃったんだ……
……
「ちょ、ちょっともうやめよう。早く片付けて出よう」
一人の学生の懇願するような声が沈黙を破る。
その言葉に皆我に返り、嫌な考えを振り払うように作業に戻っていった。
急いで片付けを終わらせ、部屋を出ようとして電気を消したときだった。
一人が部屋の隅のテレビを見て呟いた。
「あれ、テレビ付いてる」
入力がテレビ放送ではなく、ビデオを再生するほうに設定されていた。
画面が暗いままだったので、部屋の明かりが消えるまで気が付かなかったのだろう。
まだ部屋の中にいた学生がテレビに近付いた。
電源ボタンを押そうと視線を下げる。
ビデオデッキの中に、一本のVHSテープが入っているのが見えた。
え。
嘘だよな。
ビデオデッキの「取り出し」ボタンを押す。
ジーッ、と音がして、中からテープが出てくる。
ラベルには「雷鳴」と書いてあった。
全員、血の気が引いたような顔でテープの背表紙を見ていた。
あのビデオ。Bさんの家で叩きつけて帰ったはずの。
Bさんの部屋に鍵はかかっていなかった。
取りに戻ろうと思えば戻れる。
でも何のために。
ラベルにはボールペンで何かが書き足されていた。
文字や文章を割り込ませるための、「く」の字のような記号を使って。
「雷 ニ 鳴 ク」
教授の字でそう書き加えられていた。
ダメだこれ。わかっちゃダメなやつだ。
何が起こっているのか理解するより早くテープを投げ捨て、全員弾かれたように部屋を飛び出した。
◆ ◆ ◆
一週間ほど経って、学生たちのもとに事務から連絡があった。
D教授が退職することになったという知らせだった。
あれから一度もD教授は大学に顔を出さなかった。
幸い研究分野の近い先生がいたおかげで、指導はそのまま引き継がれることになったという。
しかしD教授の退職に伴って、個人研究室の荷物を処分しなければならない。その作業を手伝ってほしいとのことだった。
「荷物は全部処分するように言われてるんです」
事務の職員は明らかに狼狽した様子だった。
正直気は進まなかったものの、お世話になったことはたしかである。
学生たちはその作業を引き受けた。
「D先生や代理の方はいらっしゃらないんですね」
「そうなんです。本当にお手紙しかいただいてなくて……」
職員がD教授から来たという手紙を差し出す。
淡々とした指示の中に、こう書かれていた。
学生たちは重い足取りでD教授の部屋へ足を踏み入れた。
研究室の中は、あの日皆で掃除をしたときのままに見えた。
ただ一つ、どれだけ探しても「雷鳴」のテープだけは見つからなかったという。
この記事は、元祖!禍話 第十九夜(2022/09/10配信)より「雷鳴」(44:06頃~)を再構成・加筆したものです。
記事タイトルはwiki(https://wikiwiki.jp/magabanasi/)を参考にさせていただきました。
画像クレジット:
DeeperThought, Sony-SmartFile-VHS-Tape /Adapted by 鴨沢芹, CC BY-SA 3.0
Marceline Smith, Busy Bee Organiser Pad /Adapted by 鴨沢芹, CC BY-NC 2.0
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