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日記6/24 洒落にならないほど饒舌になる夜
「このテープもってないですか?」
「怪文書展」
「行方不明展」
などなど
プロデューサー「大森時生」とホラー作家「梨」による一昔前を装ったホラー番組や展覧会が、ここ最近よく目にするようになった。
昭和の時代、廃村に残された寺社は荒れ果て、団地計画で自然が破壊され、尾鰭のついた噂話と画質の悪い白黒写真は妄想に妄想を呼んだ。
平成の時代、新世代にとって田舎は一種の異界となり、都会は都会で都市伝説がメディアを通じて加速し、素人の撮ったカメラは手ブレの中に謎の影や音を記録した。
令和の現代、ネットの海で積み上げられた洒落怖やフォークロアはサブカル化し、時に子供向けのゲームキャラやB級映画のテーマとして消費されつつ、昭和レトロ、平成レトロのブームはオカルトを取り残すことなどなかった。
江戸の怪談話は明治や大正に受け継がれ、戦争という本当の生死に関わる恐怖がありながらも、日本人の文化としての亡霊や妖怪が持つ恐怖は、現代まで途切れなく続いている。
文化という点でみると、このホラーという文化は中々難しい。
例えば、人間の顔を歪めた写真を他人に見せるとしよう。相手は不気味の谷現象に従って驚かされる。だが、恐怖体験はそこで終わりだ。
何百枚、何千枚と人間の顔を歪めた写真を作っても、相手は驚くだろう。だがそれはびっくり箱を開けたときや落とし穴にはまったのと同じで、一時的に、反射的に驚くにすぎない。そしてそこに文化はない。
日本のホラーにおいて恐怖させるとは、
相手を話のなかに引きずり込み、
ホラーである以上結末は何となく察せられつつ、
怖いので聞きたくないと逃げ出せるにも関わらず。
それでも続きが気になるという好奇心を利用されて、
最後には背筋を凍らせる何かを見せつけ、数十分、数時間、あるいはずっとその話を頭の中で反芻させてゾッとさせ続けるというものを指す。
そして、いかに相手の心を離さないか。心に残り続ける恐怖を植え付けられるか。言葉のみで、あるいはモニター越しからのみで、倫理に触れず、生死の危険に陥れず、現実と虚構の区別をつかなくさせられるか。
ホラーの作り手たちは、それを未来永劫考え続けている。例え同じホラーの題材を使うとしても、時代や最新技術、なによりその時代を生きる人間に「すぐ側にいるかもしれない」という恐怖を与え続けるべく、アップデートしている。
小泉八雲が語った、ムジナの化けたのっぺらぼうは旅人に顔をみせて驚かせた。昭和の口裂け女はマスクを外して小学生を驚かせた。そして現代のネットの洒落怖たちは、コピペされながら新たな読者を深夜のスマホ越しに恐怖のどん底へ叩き落す。
長々とホラーについて、私がなぜ語っているのか。もうお分かりになっただろうか。
YouTubeのフェイクドキュメンタリーを見ていたら、寝れなくなってしまった。夏の怪談は納涼になっていいねなどと粋巻いてみせたら、しっかり怖くて、さっきから背後に何かの気配を感じては振り返ることを繰り返している。
江戸時代の子供も、明治の志士も、大正時代の兵士も、昭和のサラリーマンだって、きっとそれぞれの時代のホラーのせいで眠れない夏の夜を過ごしたんだろうなと、実感してしまう背筋の寒さ。
この怖いホラーも、ムジナの悪戯なんだろうか。だとしたら狸や狐に化かされた民話の人々のこと、全然馬鹿にできないなと思う、そんな蒸し暑い夏の夜の日記であった。