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日記2/14 『ゲームの王国』に縋り付く

小川哲は直木賞の「地図と拳」も、「ゲームの王国」も面白い。
ゲームの王国の舞台は、カンボジア。
革命前後で揺れ動く国の中で、関係者、巻き込まれた市民、魔術的な特徴を持つ村人や子供たちが、命を散らしながも読者にしかわからない因果で繋がっていく。
前半はSFっぽくなく、どちらかといえば土着の魔術師っぽい人が変な理屈を言っている程度だが、読み終わると、ラテンアメリカ文学のような暴力と魔術、運命によって巡り合う人々の王道なファンタジー、などが組み合わさり、ああ確かにSFかもとなる。


唐突だが、
私は年がら年中絶望をしている。

始終頭をとめどない不安が襲っている、とどこか檸檬みたいな表現もできる。
これをどうにか解消できないか、いろんな方法を試してみた。

例えば、これをゲーム的に分析するとどうなるか。
ゲームでは「勝ちか負けか」または「最終ポイントが増えたか減ったか」で考えることができる。
このあたりはゲーム理論の話となって記事10本かけてしまうので、今は省略する。

絶望というのは、将来不幸な目に遭う、あるいは今がマイナスの状態だという感情だ。

これを置き換えれば「ゲームで敗北した、または今のゲーム、次のゲームですでに敗北が確定している」という話に置き換えることもできる。

この状態で、ゲーマーなら次にどうるするか。

一つは、次に勝つ方法を考えて、敗北を帳消しにする方法。
プラスマイナスゼロ、という分かりやすい足し算でもあるし、ゲームにもよるが最終結果が勝利で終わるから、むしろプラスという結果にもなる。
今回はダメだったけど、次回に向けて再び努力する、という定期的な挑戦イベントなどには向いている。

とはいえ、そのやる気を続けるのはかなり大変である。
中学受験に失敗したが高校受験を頑張る、といったメンタルを3年間保ち、かつその学校のレベルにも依存しやすい学力をどう伸ばすかで、情報戦や自己分析能力が求められてしまう。
その「大変だ」ということ自体によって、次回のゲームの難易度も高いと感じ、また絶望に至るので、負のループを起こしやすい。


他には、ゲームを変える方法。
例えば絶対にクリアできないクエストに挑むとき、自分の「勝利」の概念を変えて、半分以上はノルマを達したのでよくやったと考える。
これは例えば学校受験で難関校を受けた、大企業の就職に挑んだ、などの後での励まし方でもみたりする。

しかし本人にとって、そのルールやクエスト内での勝利がなされてないわけなので、「敗北した」という結果は付きまとうわけである。
残り続ける結果を払拭するには抵抗が常につきまとうわけだ。

例えば自動車免許試験にマニュアルで3回落ちた、となればオートマを選択する方法もあるだろう。
しかし結局マニュアルを取れなかったという後悔があるので、絶望は存在する。


絶望の原因を考えると、仏教的には「生きてる=いつか死ぬという不安」が究極的に行き着くという。
それは人間が生きてるかぎり一生付きまとうそうなので、絶望しやすい人間はずっと絶望する。一生ゲームの敗北者じゃけえ、となる。

とはいえ、なぜこんなばかげた話になるのか。
それは目の前のことを、「勝ちか負けか」、「負けることは悪いことだ」「勝つことが目的だ」という前提において話しているからだ。

ゲーム理論だと「ポイント制」を導入して、「損をしたが最小限に抑えたので、結果としてはベストあるいはベターであった」みたいな方法もあるが、本質はそう変わらない。

勝つことが人生の大半とらえると、資本主義や競争社会では出世コースに加われるかもしれないが、勝負は常に付きまとうだろう。

とはいえ戦いのない、勝利の結果、つまり大きな利益を求めない生活は、『コンビニ人間』などで描かれているが、それもまた、全員の絶望を救えるかといえば、「みじめな生活を送っている」劣等感という新たな絶望を付き纏わせることだってある。

絶望体の脱却には、敗北を細分化するか、敗北という概念を当てはめない。
試験に落ちたことも、スコアが低いことも、ただの分岐点にすぎず、その結果の道を悪とはみなさない。

バッドエンドの道ではなく、マルチルートの通過点。
試験に受かったあとにも絶望はあるし、スコアが高くても上を見て絶望する。
敗北の可能性がないのは、高レベルプレイヤーが低い階級のクエストに挑むようなときくらい。
そしてそれは、成長する初級プレイヤーに取り残されていく。なにしろ低レベルのクエストで経験値は稼げないのだから。


さっきから、ゲーム理論と通常のゲームの考えをあえて混在させているけれど、結局そうやってゲームで捉えるにしても、「失敗を悪」という前提にしてしまうと結論は絶望に近づく以外ない。

だから、成長度、パラメーター、そういったもの変遷や維持、あるいは新たなスキル獲得やコミュニティ形成など、視点を増やしていくことで、この先絶望はし続けるけど、人生に意味をつけつづけ、それがアイデンティティーとして生きることへの希望になるかもしれない。

みたいな屁理屈をつけながら、私は今日も絶望と戦ってみる。
なんでこんなこと書いたかというと、「ゲームの王国」という作品で、ゲームとは何かを語るシーンがあるのを思い出して、書いてみた。


明日には明日の、絶望を和らげる考えを思いつき、その矛盾に気付くまで縋りつきながら生きていくのだろ
う。


丁度、この日記のように、本の言葉を借りて、なんとか日記の内容を捻り出していくように。

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