キリンを作った男
”キリンを作った男”この本は、キリン一番搾りをブランド化するまでの軌跡が書かれた内容になっています。
キリン一番搾り
キリン一番搾りが発売されたのは。1990年3月。
それ以前の1980年代は、キリンは、アサヒスーパードライにビールシェアを奪われていました。
日本のビールの最古参は、やはりキリンビール(現代のキリンラガービール)です。
1980年代以降は、女性の社会進出が始まる時代で、ビールも女性受けが求められるようになり、ビールの苦味よりもドライな喉越し爽快感テイスト、”キレ”がマーケットで支持を集めるようになります。
アサヒスーパードライがビール市場で受けたのもその理由からです。
アサヒスーパードライのヒット
1980年代以降、ドライなテイストのビールが市場で支持を集めました。
その一方、キリンはアサヒスーパードライに対抗できるドライテイストの商品はありませんでした。
正確には、キリンドライというドライビールは発売していましたが、不発に終わります。
やはり、当時のキリンのメイン商品は、苦味と濃くを全面に引き出したキリンビール(現キリンラガービール)だったのです。
ドライというポイントでは、キリンは遅れを取っていました。
1990年キリンは、一番搾りを発売します。
一番搾りは、名前の通り一番搾りの麦汁だけを使った、特別な製法で麦汁を作り出しています。
時代は、バブル崩壊後の失われた10年。
1990年代は、日本はデフレ経済へと突き進みます。
安い値段が正義という間違ったマインドが社会を覆い尽くす時代でした。
追い討ちをかけるごとく、ビールに対する増税が進んだのも1990年代でした。
ビール増税対抗して、ビールメーカーは、こぞって税率が低い発泡酒や第3のビール開発が進んでいきます。
そこで誕生したのが、キリンの淡麗、のどごし生、糖質を抑えた健康イメージを謳ったグリーン淡麗。
バブル崩壊後は、ビールへの課税が強化され為、発泡酒、第3のビールに顧客が流れていきビール離れが加速しました。
ビール離れの受け皿として氷結という缶チューハイも開発され、氷結はビール部門以外のロングヒット商品になりました。
1990年代以降は、”ビール”がすっかり存在感を失ってしまいました。
その為、ビールシェアはアサヒのスーパードライが君臨し続けました。
アサヒスーパードライの牙城を崩すキリンの戦略
発泡酒は、淡麗
第3のビールは、のどごし生
糖質オフ系は、グリーン淡麗
ビール離れの受け皿として、缶チューハイの氷結
このように、キリンは自社商品でもジャンルを分けて上手く棲み分けを狙ったブランディングとマーケティングに力を入れていきます。
しかし、ビールに限ってはアサヒスーパードライの牙城を崩せずにいました。
キリンが何故、ビールのシェアを奪還できたのか?
アサヒスーパードライの発売以降、1990年代2000年代とビールシェアはアサヒが首位を走ってきました。
2019年に、キリンが11年ぶりにアサヒから首位を奪還します。
キリンが何故シェアを奪還出来たか?
それはラガービールの広告、営業マーケティングを捨て、ビールは【一番搾りで推していく】という路線に切り替えたのが大きいです。
今や殆どの酒店やスーパー、量販店には、キリンラガービールを見かけることがなくなりました。
一部のスーパー量販店にだけ、キリンラガービールを置いています。
昔からのキリンビールファンにとって、ラガービールこそがビールという安定顧客の為にラガービールの生産自体は残しているのです。
キリンがスーパードライに対抗する商品は、やはり”一番搾り”なのです。
1990年代のデフレや増税による市場の変化でビール市場は低迷しますが、”一番搾り麦汁”というの特別感によるマーケティングによって、デフレマインドの中でも一番搾りが支持され、シェア拡大に繋がった要因として考えることが出来ます。
2021年に、アサヒから生ジョッキ缶が発売されました。
開栓した時の、泡立ちは居酒屋で注文した時の樽生を思わせる見た目です。
2022年、アサヒビールがビールシェアの首位を奪還しました。
アサヒが発売した生ジョッキ缶は、シェアを押し上げる一定の効果があったと言えるでしょう。
そして、キリンは首位から陥落します。
生ジョッキ缶のような、新商品が登場する度に業界のシェアが入れ替わります。
ビール業界も、常に新しい物と古い物の入れ替わり、アップデートが進んでいるのです。