小説 空気 5 悪夢
玄関の方から扉の開く音がした。祖父が帰ってきたようだ。私は玄関へ走った。
「おじいちゃん、おかえり。おんぶして。」
私は扉を閉めている祖父へ言った。扉を閉め終わると、私の方を見て淡々と言った。
「重いからなぁ。」
祖父は肩からかけていた竹割用の鉈(なた)を下ろし、腰に掛かっていた植木の鋏(はさみ)を外して鉈の横に置き、腰を下ろした。
「じゃあいいよ。」
私は祖父の背中に向かってそう言うと、その背中に抱きついた。
「どうした?」
何と答えたら良いか分からず、暫くそのまま泣いていた。祖父も動かずに、玄関の生け花や盆栽を眺めていた。
暫くすると、私も少し気持ちが落ち着いてきた。
「お母さんが変なこと言うの。ニュースも変なんだよ。」
言いたいことは山ほどあったが、その時はうまく言葉にできなかった。
「何だ急に。」
やはり盆栽の松から目を離さずに、祖父は静かに答えた。
「戦争でたくさんの人が死んだんでしょう?おじちゃんも怖かったのでしょう?みんな怖かったのでしょう?平和になったのに、それなのに。」
良子は自分の気持ちを言葉にできないもどかしさで、祖父の上着の襟を握りしめた。そんな良子を祖父は自分の膝へ座れと手招きした。良子は小さく頷いて膝の上に座り込んだ。
祖父は毎日のように夢でうなされていた。戦争体験での悪夢が、終戦後40年以上経っても消えないようだった。そんな祖父になら分かってもらえる気がした。
「急にどうした?」
「分からなくなっちゃったんだ。怖い夢かもしれないけど、もし私が誰かに襲われそうになったり、拐われそうになったらどうする?」
「そうだな。鉄砲ないからな。これか。」
祖父は鉈に一瞬視線を投げたが、またお気に入りの松の盆栽に視線を移した。
「おじいちゃんは戦地で怖い思いを沢山したでしょう。もう血なんて見たくないでしょう。」
「見たくない。見たくないが。」
そう言うと一瞬だけ私をみてからまた盆栽を眺めながら言った。
「初めての時は上官の命令だった。何で(殺すのか)と思いながらだ。」
「えつ。」
おじいちゃんは目の前でたくさんの人が死んでいったのを見ただけではない。殺してしまったことがあるのか。命令でも殺すなどをできるものなのか。
そんな事を考えて顔が曇っていく私に、おじいちゃんは続けた。
「それからは国のため、生きるため、帰るため。だから、良子のために出来ないことがあるか。」
祖父は真剣な眼差しで私の顔を見た。一瞬感じてしまった嫌悪感を後悔した。
「おじいちゃん。」
私は心強い気持ちになりながらも、思い出したくもないことを思い出させてしまったことを申し訳なく思った。今日の晩も、祖父は夢にうなされて冷や汗をかきながら、ずっと歯軋りをすることになるかもしれない。何も言わなければよかった、そんな事を思った。しかし、
「ははは。もう戦争は終わった。良い世の中になった。だから、大丈夫だ。」
真剣な顔の祖父が急に笑い出した。
もしここでお兄ちゃんのことをおじいちゃんに相談したらと想像した。
転がってるお兄ちゃんの首の眉間に鉈が突き刺さっているのが見えた。
私は慌てて首を振った。
おじいちゃんが逮捕されて行く光景が見えてきた。
法廷で、お兄ちゃんを殺した事を後悔してないと言っている。
私はもっと怖くなった。
想像した全てが、私の望む未来ではなかった。
その時、
「良子、ご飯よ。お箸を並べて。」
お母さんの声が飛んできた。
「はて。」
祖父は靴を脱いで、ゆっくりと風呂場の方へ歩いていった。
「あ、はい。今行く。」
そう言いながら、私は一人で解決していこうと決めた。