非合理な特殊解 8
夏子は神輿の丸太が当たって痛くなった肩を回してみたりしながら、茅場町の会社へ歩いて向かっていた。すれ違う人たちに腕が当たらないように気をつけながら腕を振り回した。
橋の上で腕を伸ばしながら空を眺めた。今日も良い天気だ、と夏子は思った。
オフィスにはすでに森田と数人の社員ががいた。彼らは昨夜は会社で徹夜しなかったようだ。誰もとても元気そうな顔をしていた。
ドアが閉まる音で夏子に気付いた森田は、ニコリと微笑んだ。
「おはようございます。今日はスッキリしてる。眠くなさそうですね。」
夏子は夜間のセキュリティのロックを解除しながら、森田に声をかけた。
「おはようございます。うん。最近、割と帰ってますよ。納期前以外は。」
「そうですか。」
森田は歌でも歌ってしまいたくなるくらい、とてもご機嫌な様子だった。夏子は聞いてみたくなった。
「何かとても嬉しそう。何かありました?」
「うん。プロジェクトのリーダーになったんだ。かなり小さな案件なんだけどね。」
森田は嬉しさを95%位押し殺して、漏れ出てきた残りの5%位でクールに微笑んだ。
そんな森田の一生懸命はにかんだクールな笑顔から、大きな喜びが頭に浮かび、夏子も笑みをこぼさずにはいられなくなった。
「そうですか。おめでとうございます。」
「ありがとう。だから最近、鰻のこと考えてるの。」
「鰻?」
夏子には、鰻にウキウキしている森田が一瞬だけさかなクンに見えた。とても夢中になっているようだ。
「うん。鰻問屋のシステム。仕入れた時から販売までに、奴らは太ったり痩せたり死んだりするからさ。しかも、都内の老舗の納入の仕方が、重さ単位とか匹数単位かとか、運送途中で死んだうなぎをカウントするしないとか、その店々で色々あって。生物としがらみをなんとか綺麗にシステム管理できるようにデザインしてるんだよ。」
森田の愛情のこもった「奴ら」という言葉に、夏子も愉快になった。今の森田と鰻との距離感は、もしかすると、老舗の鰻屋の亭主のそれと同じくらいなのではと思った。
「なるほど。何か分からないけど、説明上手いから何となくはイメージできたよ。頑張って。」
夏子はそう言って、手でグッドのジェスチャーをした。そしてう片方の手でブラインドを巻き上げるスイッチを入れた。
「うん。ありがとう。」
オフィスに朝日が差し込んだ。
夏子はいつものようにコーヒーを買いに行き、コンビニの前で出会った他の部署の人と話し込んでいたら、あっという間に始業近くになってしまった。急いでエレベーターに乗ってオフィスへ戻った。
ソフト部内はほぼ全員が席についていた。部長が靴を履き替えているのが見えた。夏子は窓の前の部長の席へ歩いた。
「部長、おはようございます。ハードの山下さん、電車遅延してて、あと15分くらいで始まる朝イチの会議遅れそうならしいです。今さっき、ハードの人と話していて、そう言ってました。」
「あ、おはよう。ああそう。じゃちょっと聞いてみるね。」
部長は元気がなかった。夏子には「ああそう」が妙にそっけなく感じられた。
「はい。変更ありましたら教えてください。」
夏子は妙に感じながらそう答えた。
「うん。。。。あ、近藤さん、ちょっと。」
部長はそう言うと、夏子を廊下へ出てと手で合図をした。夏子は頷いて部長の後につい行った。
部長は空き部屋を探したが、同じ階には無さそうなので、非常階段を使って上の階へ行こうとした。しかし、非常階段の踊り場で急に立ち止まった。
「ここ、静かだね。ひょっとすると、会社の中で、一番静かなところだね。」
「そうかもですね。こんな無音、なかなか無いですね。何かありましたか?」
夏子は何となく覚悟していた。最近何かと巷で話題になっている。
「あの、申し訳ないけど、この12月末で契約終了になります。」
「そうですか。」
夏子はやはりと思った。
「君以外の派遣社員の人は11月末までなんだ。近藤さんは、なんだかんだ言っていつも契約外のことも引き受けてくれるから、何とか切らないで欲しいってお願いしたけど、どうしても駄目だったよ。1ヶ月くらいしか。ごめん。」
仕事は選ばなければ、人間がいなくならない限り何かある。借金が無くなっていた夏子は、契約終了くらいでは落ち込んだりしなくなっていた。夏子は契約終了の事より、自分のことで会社に掛け合ってくれていた部長に心から感謝した。
「部長、ありがとうございます。色々といつもお世話になってしまって。この会社のお仕事は面白いから好きだったけど、仕方ないですね。年末まで2ヶ月ちょっと、宜しくお願いします。」
夏子は全然平気ですよと思いながら微笑んだ。そして、部長も気を揉まないで欲しいと思った。
「次の仕事の面接とかあったら言って。中抜けして大丈夫だから。」
「ありがとうございます。その際は、宜しくお願いします。」
夏子は、この部長は本当に面倒見が良い人だと思った。
「頑張って。」
「はい。ありがとうございます。」
夏子は自分の席へ戻りながら、次は何しようかな、次の職場にはどんな人がいるのかなと想像した。
その夜、銀座のお店の退勤後、同僚の弥生とその客の山本と一緒に6丁目の細い路地の先にあるラーメン屋へ入った。0時半だが店内はほぼ満席だった。ここだけは実は昼休みか夕方なんじゃ無いかと錯覚してしまいそうになった。
注文を終えると、メニューを片付けながら弥生が山本に言った。
「ねえ聞いて。律ちゃんね、12月末で店辞めるんだって。」
「そうなの?おめでとう。よかったね。」
借金が無くなったらお店を辞めると言っていた夏子を思い出した山本は、そう答えた。
「まだお店には言ってませんが、今度時期を見て言います。年末に大事なお客様のお誕生日あるから、それをしたら辞めます。」
「お店の仕事、辞めなくたっていいじゃない。普通に稼げてるんだから。」
弥生は夏子の腕を掴んだ。
「そういう問題でもないのよ。この先になりたい自分がいなければ、続けても仕方ないですから。それに、綺麗に去れるうちに去らないと。」
夏子は水を一口飲んだ。
「綺麗に去る?」
弥生が不思議そうに言った。
夏子は弥生と山本の顔を交互に見ながら、淡々と話し始めた。
「 うん。今なら、大変な時、助けてくれてありがとうございました!という良い思い出だけ持っていけそうな気がします。この仕事を始めた頃、と言っても去年ですけど、梨花さんという先輩に、昔お世話になったママのお葬式に一緒についてきて欲しいって言われてついて行ったことがありました。梨花さん曰く、亡くなったママはとても成功したママだったらしいですが、お葬式は悲惨でした。金を返せと遺族に怒鳴っている人がいたり。遺族と言っても、遠い親戚が一人だけ。その遠い親戚の喪主の人も、葬儀をしたこと自体を後悔してるようでしたよ。こんなはずじゃなかったのになって顔してました。儲けられるって思ってたのでしょうか。梨花さんも、料金未回収の売り上げが膨らんじゃって。体調不良の欠勤の罰金も重なって、急に銀座からいなくなってしまいました。」
夏子はお店で出会った色々な人の顔を思い浮かべた。
「人には表と裏があるからな。」
山本は、こんなにも業界に染まらずにいられた人も珍しいものだなと思いながら夏子を眺めた。
店員さんが瓶ビールとコップを3つをテーブルへ置いた。夏子は弥生とにコップを渡そうとしたが、要らないと言う仕草を見てコップ2つを店員さんへ渡した。
弥生は夏子の残したコップを山本へ渡し、ビールを注ぎ始めた。
「はい。私は器用じゃないので、ここでこのまま生きてくのは難しそうです。良い思い出だけ持って終わりにします。お世話になりました。弥生ちゃんもありがとう。楽しかった。」
夏子は二人に頭を下げた。
「まだ終わってないよ。年末まで宜しくね。」
弥生は慌てて言った。
「最後、頑張って。」
山本のサングラスの顔が微笑んだ。
「はい。お世話になった人たちのために何が出来るか考えて、最後の日まで頑張ってみます。」
夏子は年末までに会いたい人、会ってお礼がしたい人の顔を思い浮かべた。そして、何人くらいいるのか数え始めた。
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