非合理な特殊解 15

「エマ、ただいま。」
猫を抱いて玄関から顔を出したエマに、夏子は微笑んだ。
「おかえり。どうだった?」
エマは夏子の笑顔でホッとしていた。先週の今頃は、自分が紹介する事になってしまったお仕事のせいで、心が病んでしまうんじゃないかと心配していたのだった。
「今日もいろいな人いろいろな事情を垣間見たよ。」
夏子は、エマから頼まれていた卵1バックとトマトなどが入ったスーパーのレジ袋をカウンターに置いた。
「そう。おつかれ。コーヒー淹れよう。」
「ありがとう。」
夏子がリビングのソファに座ると、テレビの朝のニュースは、非正規雇用者の失業率の増加のニュースを報じていた。そして、女性や若者の貧困について特集されていた。
「エマ、バイト代の半分あげる。」
「何で?」
「私は今、家賃をほぼ払ってないし。スーパーの買い物も1、2回しかしてない。今まで沢山もらってきたから、お返し。」
「大丈夫だよ。描いてきた絵、ここへ残していけないから、沢山売るよ。」
「それは、あなたのもの。私のお金は、家賃、食費、水道光熱費。そうしたら私はここで心置きなくゴロゴロ出来ちゃうじゃん。」
「ふふ。じゃ、もらうね。ありがとう。」
「今日のランチは私作るね。皇居の近くの、大手町駅の大きなホテルで働いてた時、よくカレー作ってたの。カレールー使わないやつ。健康にいいよ。今日は私が作るね。お使いのついでに色々買ってきたから。」
「そうなの?あ、本当だ。ありがとう。」
エマが袋を覗き込むと、ガラムマサラとキノコとほうれん草と丸バンも入っていた。エマはご機嫌に野菜を冷蔵庫へ仕舞い、やかんに湧いた湯を、コーヒーの漏斗へ注ぎ込んだ。

「そういえば、西田とか言う、斜め前の席の人、どんな人?」
ガラスの容器の中にポタポタと落ちるコーヒーを眺めながら、夏子は言った。
「ああ、あの人。得体の知れない感じよね。あの肌がカサついた痩せ細った風貌で16か17歳なのよ。」
「高校行ってないのかな?」
「行ってないだろうね。どうしてそんなこと聞くの?」
エマは一瞬夏子を見たが、その時以外はコーヒーのお世話しながら答えた。
「あの人、今日仕事しながら乾燥わかめをずっと食べ続けて、お腹壊して早退したの。電車まだ走ってない時間だったから、家が近いのかな。」
「どうだろう。分からない。そもそも家あるのかな?前はホームレスみたいな感じだったよ。たまに橋本さんさから、お風呂に入ってから出勤しなさいって叱られてたから。」
「家庭環境が大変そうなのね。」
「大変と言うか、家庭があるのかな?という感じ。」
「そうなの。今日、私、乾燥ワカメ食べない方がいいよと言ったのに、西田くん、ずっと食べ続けちゃって。」
夏子は小さなため息をついた。するとエマは驚いて夏子の顔を覗き込んだ。
「え、話しかけなくていいよ。あの人、仕事早いから橋本さんは重宝がってたけど、その内容滅茶苦茶だから。相手にトドメを刺しているんじゃないかというような酷いことも、平気で返信したりするからね。まともじゃないよ。夏子は関わらない方がいいよ。」
急に早口になったエマに夏子は戸惑ったが、真剣な表情のエマを早く安心させたくなった。
「そう。それじゃ、そうしてみる。」
夏子はそう答えてみたものの、西田と目が合ってしまった時の妙な胸騒ぎを思い出し、どこか逃げられないような手遅れな予感がした。
この日夏子とエマは駒沢公園を散歩した。一緒に暮らし始めたばかりなのに、もうすぐお別れになることがまだ夏子には信じられなかった。散歩の度に日本に残ってみてもらえないか聞いてみたが、いいよと言ってくれなかった。
その頃はすでにこのような話をしようとすると、エマは悲しい顔をするようになった。夏子はもう、何も言えなくなった。さようならの瞬間がいつなのか、いつも頭に浮かんできた。それを何とか抑えて、一緒にいられる時間を最大限に良い時間にできるように気持ちを持っていくことに必死だった。

この日も夏子は日付の変わる直前に家を出た。駅までの暗い夜道を歩きながら、昨日の西田の、あの抜け殻のような何か乾き切ったような無表情を思い出した。
職場に着き、PCの電源ボタンを押そうとした時、橋本が夏子を呼んだ。
「近藤さん、ちょっと来て。」
「はい。」
夏子は仕切りに返信を入力していく橋本の背後に立った。
「橋本さん、どうかしましたか?」
「あのさ、君の時給の生み出される仕組み、分かる?」。
橋本は薄ら笑いながら夏子へ言った。
「分かるような分からないような。」
「やりとりの数を増やさないと。マジレスしてどうするんだよ。あんたさ。」
「あ、あの、私このお仕事。。。」
「何?そういう事は、木田さんのところで言って。俺じゃないから。」
「木田さんはいつ来るんですか?」
「知らねーよ。たまーに来る。抜き打ちで。」
「木田さんはいつもはどこにいらっしゃるのですか。」
「それ聞いちゃう?」
「え、聞いちゃいけないのですか?」
「何もわかってないね。」
「・・・」
「早く仕事始めて。10人のホストを近藤さんのアカウントに入れておいたから、そこからやって。」
「はい。」
席へ着くと西田が不敵な笑みを浮かべていた。
それを無視してPCの画面を見た。するとピンポン玉くらいの紙の玉が飛んできて夏子の額に当たった。紙を開くとこう書いてあった。
『さっきまで、みんなであんたのマジレスをみんなで笑ってたんだよ。』
西田がニヤけている。夏子はその紙にこう書いた。
『それは良かった。それがどうかしたの?』
夏子は紙を丸めて、パーテーションの西田の机側ににそれを落とし入れ、PCの画面のホスト名一覧を開いた。
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管理者 近藤夏子
管理ホスト名一覧
1、Kyoko_Mizuno
2、さおり(^^)/
3、ユウ
・・・
6、MAKI
・・・
9、LILIKO
10、ユウト
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夏子は、Kyoko_Mizunoをクリックした。このホストには15人からのメッセージが来ていた。
「新規のメッセージが多いな。」
このホストはサイトへ出したばかりのようだ。
Kyoko_Mizunoにメッセージを送った15人に返信をしようと、上から順に一般ユーザーの名前をクリックしょうとした瞬間、紙の玉が今度は夏子の頭頂部に当たった。しかも、当たった瞬間に黒い小さなものがたくさん飛び散り、それが髪の毛に降りかかった。よく見てみると、乾燥わかめだった。もう食べる気にならなくなったのだろう。夏子は大きくため息をついて顔を上げると、西田が今度はこちらを睨んでいた。夏子は西田がなぜ怒るのか腑に落ちず、紙の玉を開いた。
ワカメのこと、何でもっと早く言わなかった?許さない。
こう書いてあった。夏子は呆れて何も言えなかった。返事を紙に書いて返す気も無くなり、紙の玉をとある程度のワカメを拾いゴミ箱へ放り込むと、業務を開始した。最近動き出したホストなためか、15件の返信はあっという間に終わった。ただ1件、奇妙なユーザーがいた。
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12、返信はここへ記入してください
11、鈴木恵一 :
いろいろな仕事をしています。
収入は多めだと思います。
僕はとてもやさしい奴だとも自分で思います。
好物は焼肉、ラーメン、オムライスです。
ほとんど度毎日全く外には出ません。
元々とてもめんどくさがり屋で。
10、Kyoko_Mizuno :
♪───O(≧∇≦)O────♪
9、鈴木恵一 :
いろいろな仕事をしています。
収入は多めだと思います。
僕はとてもやさしい奴だとも自分で思います。
好物は焼肉、ラーメン、オムライスです。
ほとんど度毎日全く外には出ません。
元々とてもめんどくさがり屋で。
8、Kyoko_Mizuno :
どうしちゃったの?☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

以下を表示
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鈴木恵一は全く同じ文章を返信してきていた。あまりに奇妙なので、夏子は「以下を表示」を2回クリックし、Kyoko_Mizunoと鈴木恵一の会話を全て表示した。
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12、返信はここへ記入してください
11、鈴木恵一 :
いろいろな仕事をしています。
収入は多めだと思います。
僕はとてもやさしい奴だとも自分で思います。
好物は焼肉、ラーメン、オムライスです。
ほとんど度毎日全く外には出ません。
元々とてもめんどくさがり屋で。
10、Kyoko_Mizuno :
♪───O(≧∇≦)O────♪
9、鈴木恵一 :
いろいろな仕事をしています。
収入は多めだと思います。
僕はとてもやさしい奴だとも自分で思います。
好物は焼肉、ラーメン、オムライスです。
ほとんど度毎日全く外には出ません。
元々とてもめんどくさがり屋で。
8、Kyoko_Mizuno :
どうしちゃったの?☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
7、鈴木恵一 :
お前どうせ金持ち探してるだろう。
お前貧乏人だろう。身の丈考えろ。
絶対お前しつけもろくにされてないだろうし。
お前みたいの死ぬしかない。死んでくれ。
6、Kyoko_Mizuno :
聞いたよ(((o(*゚▽゚*)o)))☆彡
5、鈴木恵一 :
いろいろな仕事をしています。
収入は多めだと思います。
僕はとてもやさしい奴だとも自分で思います。
好物は焼肉、ラーメン、オムライスです。
ほとんど度毎日全く外には出ません。
元々とてもめんどくさがり屋で。
4、Kyoko_Mizuno :
すごーい☆彡
3、鈴木恵一 :
いろいろな仕事をしています。
収入は多めだと思います。
僕はとてもやさしい奴だとも自分で思います。
好物は焼肉、ラーメン、オムライスです。
ほとんど度毎日全く外には出ません。
元々とてもめんどくさがり屋で。
2、Kyoko_Mizuno :
こんばんは。私は都内に住んでいます。
お仕事を都内でされているのですか?
どんなお仕事をされているのですか?
1、鈴木恵一 :
初めまして。都内で会える人探してます。宜しくお願いします。
以下を表示
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Kyoko_Mizuno による返信の内、夏子のものは2、のみでそれ以外のKyoko_Mizunoの返信は、他の誰かが昨日に返信したらしい。
この鈴木という人は何がしたいのだろう。
夏子は、7、のメッセージを読んだ。そして眺めた。そして、何度も繰り返されている5、のメッセージを読んで、眺めた。
「あ!」
と夏子は急に思わず声を上げた。叫んでしまってから、思っていたよりも大きく室内に響いてしまった自分の声に驚いた。しかし誰も無表情で手を動かし続けていた。ただ一人西田を除いて。
西田はまだ夏子を苦々しい顔で睨んでいた。
夏子の視界の左端へ西田が一瞬入ってきたが、夏子はPCの画面に顔を近づけて、視界に入らないようにした。そして、
「まさかね。」
と呟いて、12、へこう書いた。
Kyoko_Mizuno :
こんにちは。
どうして同じメッセージを繰り返すのですか?
気になってしまって。
もしお嫌でなかったら教えてください。
そして次のホストに来ているメッセージへ返信を始めることにした。
PCの画面のホスト名一覧へ戻った。
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管理者 近藤夏子
管理ホスト名一覧
1、Kyoko_Mizuno
2、さおり(^^)/
3、ユウ
・・・
6、MAKI
・・・
9、LILIKO
10、ユウト
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次は、さおり(^^)/ をクリックした。
このホストにはメッセージが38件来ていた。
とりあえず、時間の直近のものからどんどん返信した。
4、5件返信したところで、鈴木恵一の返信が気になった。その人は1日のうちで、AM1~3時にしかメッセージしないようだった。夏子は返信が来てるかもしれないと思い、Kyoko_Mizuno と鈴木恵一のやり取りのページを開いた。

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14、返信はここへ記入してください
13、鈴木恵一 :
お前どうせ金持ち探してるだろう。
お前貧乏人だろう。身の丈考えろ。
絶対お前しつけもろくにされてないだろうし。
お前みたいの死ぬしかない。死んでくれ。
12、Kyoko_Mizuno :
こんにちは。
どうして同じメッセージを繰り返すのですか?
気になってしまって。
もしお嫌でなかったら教えてください。
11、鈴木恵一 :
いろいろな仕事をしています。
収入は多めだと思います。
僕はとてもやさしい奴だとも自分で思います。
好物は焼肉、ラーメン、オムライスです。
ほとんど毎日全く外には出ません。
元々私はめんどくさがり屋で。
10、Kyoko_Mizuno :
♪───O(≧∇≦)O────♪
以下を表示
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やはり返信が来ていた。もう一度11、と13、のメッセージを眺めた。
夏子は実験してみることにした。
14、Kyoko_Mizuno :
それ言いすぎじゃないですか?
あなたはしりませんよね、私のことなんて。
あなたどうかしてますよ。
私はとてもキズ付きました。
これ以上返信はムリです。
夏子は鈴木恵一へこのように返信した。
また、さおり(^^)/へ来ているメッセージへ返信していった。さおり(^^)/はアイドル好きなキャラクターな為か、アイドル好きなユーザーからのメッセージが多かった。夏子はテレビをあまり見ないせいか、全く興味がなかった為、うまく関われそうになかった。適当に相打ちを打つような返信をして残りをあっという間に終わらせた。
管理ホスト名一覧のページへ戻り、次のユウというホストをクリックしようとした。が、やはり鈴木恵一の返信が気になり、Kyoko_Mizuno と鈴木恵一のやり取りのページを開いた。
もし来ていなかったら、気のせいだった、ということになる。もし何か来ていたら、、、。さてどうだろうか。恐る恐るページを開くと、やはり返信が来ていた。
15、鈴木恵一 :
オレをなめるんじゃねぇよ。
オレは明るい人がいい。
絶対にお前めんどうなヤツだと思う。
性格だってくらそうだし。
お前みたいなのきもちわるい。
きもちわるすぎてあいてにしたくない。
夏子は叫びそうになる程、胸が高鳴った。もうすぐ午前3時。夏子は慌てて返信を考えた。
16、Kyoko_Mizuno :
めんどうなのはあなたです。
別にどうと言われようとかまいません。
わたしも訳が分かりません。
あなたの事知りたくないです。
明日は返信などありませんように。
夏子はこうメッセージを送り、ユウの返信を始めた。
胸の高鳴りは他のどんなメッセージを読んでも収まらなかった。どんな酷い罵声に近いメッセージにも優しく返信できた。どんな悲観的なメッセージにも、いつもは感じる自分の精神を剥がされていくような感覚を抱かなかった。


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