非合理な特殊解 21
エマとの平穏な日々はあっという間に過ぎ去った。
夏子のシェアハウスへの引っ越しの日が近付くにつれ、物が徐々に減り、夏子は何も持っていない人になった。
夏子の全所有物は1つのキャリーケースと鞄に入るくらいの荷物のみになっていた。エマの家を出る日の前日になっても、まだ信じられなかった。
いつものように散歩をして、スーパーで美味しそうな食材を買い、料理して食べて、少しリビングでゴロゴロとした後、お風呂に入った。
今日でこれもうお終いだなんて信じられなかった。
「エマ、何度も聞いてきたから、嫌だったら悪いけどさ、もう一回だけ聞いてみたい。本当にフランス行っちゃうの?」
夏子はエマの髪を櫛で梳かしながら言った。顔を見て言う事が出来なかった。
「うん。」
エマも夏子の顔を見る事が出来なかった。
「変わらないの?」
夏子はエマの背中に抱きついた。
「変わらないよ。夏子こそ。日本にいたら夏子らしくいられない事なんて分かりきっているのに。」
夏子は息ができなくなるほど苦しくなった。
「エマと一緒に行ってみたい気持ちもある。でも、自信が無くて。」
二人は無言になった。この無言はもう何度も何十回もあった。夏子はこれで最後にしようと思った。
その夜、約1ヶ月ぶりに鈴木恵一からの連絡もあった。
いつものように管理ホスト名一覧のページにある、鈴木恵一とやりとりをしているKyoko_Mizunoでを選択し、鈴木恵一からメッセージが来ていないか確認した。この1ヶ月ほどは連絡が無かった。毎日何らかメッセージがあった時は毎日それを確認すること、そしてメッセージを送ることが楽しかったが、最近はメッセージが無いことを確認するようなものだった。
Kyoko_Mizunoのページを開くと、
鈴木恵一(2)
とあった。2件のメッセージがあるようだ。
その久々のメッセージにはこうあった。
25、鈴木恵一 :
ども。時が過ぎるのは早い。
毎月大抵7日間は日本にいないんだ。
非常識に早朝深夜に電話かけてくるやついるよ。
あんたの誕生日いつ?一応聞いてやるよ。
俺誕生日来て48歳になったよ。
忙しく過ぎたんだ月末だったから。
それも仕方ないよな三度の飯より仕事好きだから。
26、鈴木恵一
でもねbirthdaysongは歌ってほしいよ。
俺わりと30年前のこととかも覚えてるから。
子供の頃も地元の友達が歌ってくれたの忘れてない。
その頃の家は築50年の古い家だったよ。
夏子はこう返した。
27、Kyoko_Mizuno
お久。Keyがわかりませんし、
常識的にOpenしてる店の中で歌うかなって。
夏子はまだ半信半疑だった。いや、半信も無い。ほぼ全疑だった。苦笑いになりながらもどんなことが起こるか起こらないのか胸が高鳴った。
「3月8日か。1週間後ね。」
頭の中では、何かの間違え、勘違いだと思いつつ、職場の机の島の近くの壁に掛かった大きなカレンダーを見た。
その時、紙の玉が夏子の額に当たった。
開いたルーズリーフにはこうあった。
『ニヤけてて気持ち悪。』
いつものように西田が意地悪な笑みを浮かべていた。
夏子はそのルーズリーフへこう書いた。
『今日はニヤけても仕方ない。信じられないことがあったの。これから何かあるかもだけど、一人では怖いんだ。頼まれて欲しいことがあるの。退勤後にまたコーヒー行こうよ。お願いします。』
夏子はルーズリーフを折り、西田の机のパーテーションの中へそれを落とした。
すると、すぐに丸められたルーズリーフがまた飛んできた。
『何だ?俺は忙しいんだよ。でも、仕方ねーな。』
夏子は読み終えると、西田に頷いてからルーズリーフをゴミ箱へ捨てた。
鈴木恵一のことを西田へどう話そうかと考えた。普通に話しても、信じてもらえないかもしれない。
ふと見た西田の表情はとても曇っていた。なぜだろうと思った。
ゴミ箱のルーズリーフを見た。誤字脱字を一々指摘したい西田に気がつかなかったことにして、仕事を再開した。
その日の退勤後、夏子はいつもの駅までの帰り道で西田とコーヒーを飲んだ。
今日の西田はコーヒーをやけに嫌そうに飲んでいた。そんな西田の向かいに座った夏子は、紅茶にすればよかったのにと思った。
「あの、3月8日の朝7時に築地へ一緒に行ってほしいの。」
「え!急に何?築地?」
「うん。そこへ来てって言われたのかも。」
「言われたのかも?何それ。誰に?」
「分からない。男の人っぽい気がする。」
「前に、私の苦手なアカウントを交換してくれた事があったでしょう?その時に、 代わりにもらったKyoko_Mizunoと言うホストと罵詈雑言を浴びせ合っていたアカウントがあったの覚えてる?」
「あったかな?覚えてない。」
「そうだよね。結構前だしね。実は、あのやりとりには裏メッセージがある気がしていて。私もそんなことあるはずないと思うんだけど、どうしても気になるところもあって。一人で行くのは怖いというか。でも確かめてみたくて。一緒に行って欲しいの。お願い。」
「全然分からない。」
「じゃ、明日、Kyoko_Mizunoと鈴木恵一のやり取りを見てみて。たまたまかもしれないけど、見方教えるから。」
西田は、この人何言ってんだ?と言わんばかりの顔をしていた。苦笑いに哀れみが入っていた。夏子もどう説明すれば良かったのかと、その苦笑いを眺めながら、苦いコーヒーを飲み込んだ。
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