小説 空気 3 助言
息を切らしながら、鍵のかかっていない玄関の戸をそっと開けた。家の中は真っ暗に近かった。居間を覗くと、2学年下の小学1年の妹が2枚並んだ座布団の上で昼寝をしていた。まだよく眠っている。
隣の台所も暗かったが、ガスコンロの真上の小さな明かりだけつけて、お母さんが何か炒め物を作っていた。私は水を飲もうと台所に入った。
「お母さん、ただいま。」
そう言いながら、コップに水を汲み、飲みながらお母さんを見た。
「おかえり。」
お母さんはチラッと一瞬私を見て、すぐに炒め物に視線を戻した。お母さんは今日も物憂げだ。おばあちゃんに今日もいじめられたようだ。
以前に、おばあちゃんへお母さんをいじめるのをやめてほしいとお願いしたことがあった。相撲中継の時に言ったのも良くなかったのか、逆に叱られてしまった。どんな言葉で叱られたのかは今よく思い出せないけど、水戸黄門に出てくる悪役のような顔に見えたような気がしたことだけ覚えている。
その日から、おばあちゃんは、お土産は妹だけに買うようになった。私の目の前で、あえて妹だけに、買ってきたお菓子やお人形を渡した。その度に黄門様に会いたくなった。
そんな話でも、お兄ちゃんはいつも真剣に聞いてくれた。おばあちゃんには絶対近付かない、おばあちゃんがいたらその部屋には行かない方が良いと助言してくれた。実際にそうしてみると、いくらか気が楽になった。
それからお兄ちゃんは、お母さんの機嫌を見て、悪そうな時は離れた方がいいとも言っていた。
「お母さんとおばあちゃんの問題は、リョウちゃんのお父さんやおじいちゃんが解決することだから、リョウちゃんは関わらなくていいよ。」
お兄ちゃんの言う通りだと思った。でも、お父さんはたまにしか家帰ってこないし、おじいちゃんは無口すぎる。
「あー黄門様いないかな。ウチに来てくれないかな。そしておばあちゃんを叱ってくれないかな。」
草むらに寝転がり、雲を眺めながら私が言うと、
「見つかったら連れてきてあげるよ。」
とお兄ちゃんが言った。私は可笑しくなって急に大声で笑った。すると近くにいた小鳥がどこかへ一斉に飛び立ち、辺りが静まり返った。
「でもリョウちゃん、黄門様を見つけるより、リョウちゃんがどこか、もっと平和な居心地の良いところへ行ったほうがいいかもしれないね。」
お兄ちゃんも雲を眺めながら言った。
「そんな所あるのかな?どこだろう?」
私は起き上がってお兄ちゃんを見た。
「見つけといてあげる。」
と言って微笑んだ。私も少し嬉しくなって
「うん。ありがとう。」
と言ってはみたものの、家族が誰もいない世界を想像して、すぐにとても怖くなった。
「でもさ、学校あるし、やはり大丈夫。」
学校なんか行きたくなかったが、咄嗟にそう言っていた。
「そう。」
お兄ちゃんは空を見ながら無表情になって言った。そして続けた。
「そうだね。そうだよね。」
そう言うと、チラリとこちらを見てまたすぐに空を眺めた。
廊下を挟んだ台所の向かいのドアから、テレビのニュース番組が聞こえてきた。私はドアに背を向けて、仏壇のある座敷を通り、ランドセルを仕舞いに机のある部屋へ向かった。