小説 空気 16 像
昼過ぎからの日照りのせいで、帰りの挨拶をする頃には、校庭の水溜りも小さくなっていた。
横断歩道の信号を待つのも暑くて嫌になった。
森に入ると、幾らかは涼しくなるが、最近は蝉の大合唱が頭を劈(つんざ)いてくるようになった。夏は耳を塞ぐイメージを毎日何度も使うことになる。夏は大変だ。
下を向いて歩いていると、新しい轍を見つけた。目の前で急に折れ曲がっている。この場所は、前に見た、急に折れ曲がったタイヤ痕を見つけたと同じ場所だった。身をかがめて木の枝の下から草原の奥の野原の方を覗き込んだ。やはり萎れた蓮華草のあったあたりに、白い車があった。あの日、一瞬だけ見えたまさにその車だった。
今日はこの森を抜けると、きっとお兄ちゃんがいる。
お兄ちゃんは、いつもここまで歩いて来ている、と私に嘘をついていた。この車は、気付かれたくないようだ。もし気付いてていると知ったらどうなるだろう。
もし私が逃げ出したら、どうなるだろう。どう思うだろう。
何度も描いてきた、お兄ちゃんに見せたい像を、確認するようにまた頭に思い浮かべた。
今私の近くにはおじいちゃんがいる。そのおじいちゃんはいつも長い竹割の鉈を背中に背負っている。そんな私のおじいちゃんは、お兄ちゃん、あなたに会いたがっている。
さあ、進もう。お兄ちゃんに会いに行こう。
森を抜けるまで、あと100m。
まだ誰も見えない。
あと50m。
まだ誰も見えない。
あと30m。
向いから車が来た。近所のおばあちゃんだ。
森を出た辺りで、そのおばあさんは右をチラリと見た。
やはり誰かいるみたいだ。
私は道の端に立ち、おばあさんが車で通り過ぎるのを待った。
通り過ぎる瞬間に、
「こんにちは。昨日はありがとうございました。」
無駄に大声で挨拶をして手を振った。
暑いからか、おばあさんは窓を開けなかった。
特に昨日、このおばあさんと会ったわけでもない。もちろん、話してもいなかった。
また歩き始めた。
あと10m。
紺色のシャツの端が見えた。
森を抜けた。草影に汗ばんだシャツの背中が見えた。
いつもの草原のあたりで立ち止まると、お兄ちゃんは振り返った。
「やあ、りょうちゃん。」
お兄ちゃんはいつもより少し元気がなかった。
「こんにちは。今日も歩いて来たの?バス停も駅もすごく遠いのに、歩くのが好きなんだね。」
私は思い切りの笑顔で少し戯けて答えた。
「まあね。」
お兄ちゃんは安心したようだ。いつものようにランドセルを置いて草原に座って言った。
「暑いね。」
「うん。毎日辛いよ。」
「そうなの?」
暑くて毎日大変な仕事って、どんな仕事なのだろう。暫く考えてていると、お兄ちゃんが、
「まあ、いいよ。」
と、急に私の想像を遮った。
お兄ちゃんの隣を聞いてみたくなった。
「あ、そういえば、お兄ちゃんのお家遠いの?」
「住んでいるところはそう遠くないけど、実家は遠いよ。」
お兄ちゃんは少し不安そうな目をしながら渋々答えた。
「遠いのか。暑いところ?寒いところ?」
私はお兄ちゃんの不安そうな顔に気づかないふりをして、呑気に質問をした。
「とても寒いところだよ。冬は大変なんだ。」
お兄ちゃんの警戒心が少し和らいだような気がした。
「じゃ、帰りたくなってもあまり帰れなくて寂しくなる時もあるのかな。」
私はお兄ちゃんの顔を覗き込んだ。すると、
「特にないよ。」
と地面を見つめたまま、急に冷たく淡々と言い放った。
「そう。」
お兄ちゃんはお母さんやお父さんや家族と喧嘩でもしているのだろうか。
さらに聞いてみた。
「お友達がいるから大丈夫?」
「友達か。同僚とかはたくさんいるからなぁ。寂しいとは思わないな。それにリョウちゃんもいるから。」
「そうなの。」
私はお兄ちゃんにとって、隣なのか?
「リョウちゃん、暑いからか喉渇かない?」
来た。平常心だ。笑おう。絶対にまだ悟られてはいけない。
「うん。」
また思い切りの笑顔をした。
「じゃあ、これ。」
お兄ちゃんは、予想通り、お茶のボトルをカバンから取り出した。
私は思い切りの笑顔で嘘をつき始めた。
「あの、これまでずっと何回もお兄ちゃとお茶飲んだりお菓子を食べたりアイスを食べたり、たくさんご馳走になってしまったでしょう?いつも私の悩みを聞いてくれて、とてもありがとうなの。この前私のおじいちゃんに話をしたら、今度会った時はお家に連れて来てねと言っていたの。美味しいお菓子とお茶を用意しておくって。」
わざと有難いと言わなかった。私は子供です。あなたが騙し切れる、頭の悪い子供ですから。
「リョウちゃん、話したの?」
お兄ちゃんの顔が一気に曇った。
「うん。だってご馳走になったら報告する決まりなんだもの。」
いかにも当たり前だよと言うように答えた。すると急にお兄ちゃんは目を見開いて、真剣な表情で言った。
「リョウちゃん、今日は一緒に行きたいところがあるんだ。」
私は怖くなった。しかしまだ悟られてはいけなかった。一瞬も表情に出さないようにした。笑おう。笑ってしまうくらいお気楽に嘘をつこう。こう決めた。
「ううん、すぐそこの竹林に今日はいるの。おじいちゃん。今日は竹刈りと竹割りしてるの。ここから叫べば聞こえるの。だからすぐに用意してもらえるよ。心配しないで。すぐお茶になるから。うちに来て。」
お兄ちゃんは一瞬だけ何かを考えながら空を仰いだ。そしてまた私を見据えて言った。
「いや、僕はリョウちゃんのお家には行かなくていいよ。前言っていたでしょう?見つけたんだ。リョウちゃんが悩まないで過ごせる良いところ。一緒に行こう。」
いい終わった時には、私の右腕の手首は強く掴まれていた。振り解きたかったが、まただと思った。必死で振り解きたい気持ちを抑えて、お兄ちゃんに抱きついた。
「ありがとう。でも、ここでは悩むこともあるし、辛くなる時もあるけど、嬉しいこともあるの。妹が生まれたの。とても可愛いの。それに、つい先程車で通ったおばあさんも優しいの。よくおやつを作ってくれるの。」
おばあちゃんと言った瞬間、お兄ちゃんの表情が凍りついた。お兄ちゃんは私の腕を離した。
「だから、一緒に行けないの。お兄ちゃん、ごめん。」
私は少し頭を下げた。お兄ちゃんの顔を想像しながら。
「あ、そう。」
お兄ちゃんは少し泣きそうな顔で、冷たく無感情な声で答えた。私が眠っていた時に聞こえたような声だった。私も辛くなった。これが真実。これが現実。突きつけられた。
「リョウちゃん、僕はもう会えなくなると思う。」
お兄ちゃんはここから早く立ち去りたいようだ。何か落としたものがないか、あたりを確認し始めた。
「どうして?」
そうだよね。分かってる。でも、さようならするまでちゃんと悟られないようにしよう。まだ死にたくない。
「僕は仕事で遠くに行くことになったから。」
「そうなの。寂しくなるね。」
ちゃんと答えた。まだ悟れてないようだ。そしてもうすぐ終わる。さようならだ。
「大丈夫。僕また友達を作るから。」
「うん。」
友達?また友達作る?
ここで言ったら、車に連れていかれる。まだ悟られるな。笑顔。笑って私。
「じゃあね。」
お兄ちゃんは少し微笑んだ。
「元気でね。」
私は元気に手を振った。
私はすぐに家の方向に走り、15mくらい離れてから振り返った。
お兄ちゃんは驚いた顔でこちらを見ていた。
振り返った私の顔を見て、お兄ちゃんの顔が歪んだ。
私は力いっぱい叫んだ。もし人がいたら人に聞こえるように。もし竹林におじいちゃんがいたとしたら、ちゃんと聞こえるように。
「次のお友達のことは。」
いつの間にか涙が流れていた。
「リョウちゃん!」
お兄ちゃんの顔が鬼のように見えた。あんな冷ややかな顔を見た事がなかった。
「私は、、、。」
「僕はお兄ちゃんと釣りがしたかった。弟みたいになりたかった。でも、さようなら。」
私はそう叫ぶと、全速力で家へ走った。
玄関の戸を開けると、玄関に敷かれた座布団の上で生まれたばかりの妹が泣いていた。お腹が空いたらしい。抱っこしても泣き止まなかった。少し困っていると、たくさんの洗濯物を抱えたお母さんが来た。
「あらおかえり。」
そう言うと、近くに洗濯物を置いた。
「ただいま。」
私は抱いていた妹をお母さんに渡した。すると急にお母さんが驚いたように、
「どうしたの赤い顔して。首まで赤いじゃないの。」
と言うと、私を上から下まで調べるように見た。確かに、私は日頃そこまであまり息が上がったりしない。不自然か?
「えーと、暑かったから。」
どうしようか。お母さんに、今日の出来事を言うべきか。
「そう。おやつのゼリーがあるから、食べていいわよ。」
気のせいなようだ。お母さんは、何も不自然さを感じていないようだ。
「ありがとう。」
私は少し安堵して答えた。
お母さんが妹に授乳を始めると、嘘のように家が静まり返った。
手を洗って冷蔵庫を開けると、大きな器に黄色いゼリーが冷やされていた。
大きなお皿に取り出して、包丁で切り分けた。
「お母さんも食べる?」
「うん。ありがとう。洗濯畳んだらね。」
ゼリーを2人分用意して居間のテーブルに置いた。
ゼリーを食べながら、玄関近くで授乳をしているお母さんの後ろ姿は、逆光で御光が差しているように見えた。洗濯物の山が、ピラミッドのように見えて、お母さんが不思議とエジプトの神様の像のように見えた。
「最近すごい量になったね、洗濯。」
「赤ちゃんがねお着替えするからね。何度も。それに、布のおむつだから、1日に30枚くらい使うから、すごいでしょう。この山。」
逆光でよく見えないが、お母さんは微笑んでいるようだ。声でわかった。沢山の洗濯でも、意外と嫌ではないようだ。
「私もこうだったの?」
「そうよ。」
「大変だった?」
「今も大変だよ。何でこんなに怒ってばかりいなくちゃならないんだ!」
嫌じゃないよ、と言ってもらえるんじゃないかと期待していたが、思いとはずれた方向に球を打たれてしまったような気がしてきた。
「いい子にしてるつもりなんだけどな。この頃は特に頑張ってるんだよ。
学校でも、もう教室の外を授業中にうろついてなどしていないよ。」
「そうなの?」
お母さんは微笑んだ。
「うん。」
私は笑えなかった。
私はお母さんに相談できなくなった。
いい子宣言をしてしまったからだ。
撤回したくなったが、幸せそうに妹を見ているお母さんを眺めながら、やはり今話さなくてもという気持ちが大きくなった。
ゼリーはほろ苦いグレープフルーツ味だった。
食べ終わる頃には、やっと落ち着いてきた。
お兄ちゃんは、もう来ないだろう。
でも、次のお友達を眠らせたりしないかな。
どう言えばよかっただろう。
今日も頭の中で一人反省会が始まった。
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