Vol.4-「令和2年7月豪雨での球磨川氾濫の水害被害」インタビュー “被災後とボランティア支援”
前回は発災当時”道の駅さかもと”での避難と救出の様子をお話ししました。今回は被災後の状況とボランティア支援についてです
被災と連絡手段の確保
「自分自身は被災当日の夕方になって避難所へ避難しました。ところがその翌日からも職場であるこの”道の駅坂本”にも自宅にも行けない状態でした。というのは道路が崩落しまして、この坂本地区は橋が4本流されたためこの地区に入ることができなかったですね。1906年に開通して一度もそんなことがなかった肥薩線の第一球磨川橋梁も流されてしまいました」
「道路も通れないので停電、断水は1ヶ月以上続きました。ちょうど7月4日豪雨の後は梅雨が明けてからも1週間ほどは雨が降ってたんですけど、それ以降はものすごく暑くて、急に”真夏”の被災生活が始まりました。」
「くるまも被災してしまっていてレンタカーも中古車も、広範囲の被災地にはなかなかくるまは来ない。免許証の再発行とか本当にもろもろ同時進行でやらなくちゃいけないんですが、くるまがないので手続きひとつとってもスムーズに進まない。その上自宅も職場も被災したのでただただ大変だったことを覚えています」
「特に職場が道の駅ですので被害がすごい広範囲で、職員との連絡調整をしながら復旧を進めながらで、今思うと本当にごちゃごちゃでした。なかでも一番大変だったのはスマホとか連絡手段が使えなかったことです。道が通りくるまが入れるようになって、携帯電話メーカー各社がアンテナを積んだくるまを地域に配置してくれるようになってようやくスマホが使えるようになりましたが、”あそこまで行くとスマホの電波が1個つながるよ”とかそういうことをお互い情報共有しながら生活していました。」
ボランティア支援の受け入れと情報発信
「当時はコロナ禍で、県を跨ぐ災害ボランティアの受け入れはできない状況でした。それでも広島などからもボランティアに来ていただいたりしたんですが、”県外のボランティア団体に要請するのは不謹慎じゃないか”、などやはりいろんな声もあり物事がスムーズには進まなかったのを覚えています」
「ここは高齢者地域でもあり、避難所に避難できず在宅で避難されている方も多かったですね。県内の数少ないボランティアの方々に支援に来ていただきその避難状況を伝えるためには”情報発信”がとても重要だったんですけど、くるまもなくスマホもつながらないという状況でした。そこで少しでも動けるわたしたちが避難状況など写真を撮って、”今どこの道路が通れる”とか、”どこだったら電波つながる”とか、”今ここはこういう状況です”、とかを電波と充電場所を探しまわって少しずつ情報発信をして、それをキャッチしてくれた方々に支援活動してもらうような地道なやりとりから始めました。一方で自衛隊との情報共有も平行しておこない、自衛隊に安全な道路を作ってもらって民間ボランティアに入っていただく流れがようやくできてきました」
インタビュー#5につづく