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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#012
#012 ボスの機嫌のいい時に
その店は坂道のちょうど底にあった。クロサワは「茶店」と言ったけれど正しくは珈琲屋だ。もっと正確に言えば、一九七〇年代の後半辺りから東京を中心に流行始めた「珈琲専門店」である。単なるコーヒーではなくキリマンジャロやモカなどいわゆる「ストレート珈琲」が提供された。一般的な珈琲は「ブレンド」と呼ばれ、アイスコーヒーは真鍮のカップに入れて出された。
店を出るとクロサワは「じゃあな」とこちらを見ずに背中で手を振り、JACK出版のある代々木プリンスマンションへと続く坂道を上っていった。ポロシャツにコットンパンツを穿き、足元はサンダルだった。版元である出版社に出向くときスーツにネクタイを締めることもあったが、それが彼の普段のスタイルだった。
鷹野龍之介と僕はその反対側、新宿駅方面へと向かうもうひとつの上り坂を並んで歩いた。僕は降武宏政に言われていた『ビリー』の原稿取りがあった。そろそろ営業が始まるので、歌舞伎町の風俗店へ取材へ向かうと一緒に歩を進めていた鷹野が、突然「俺は、実は歌手なんだ」と言い始めたのでびっくりした。
「──歌手、ですか?」僕は思わず聞き返していた。
「そうだ。俺は北海道の北見ってとこの出身でな、十六の頃から唄ってた。いわゆるシンガーソングライターってヤツだな」
ジェームス・テイラーの三枚目のアルバム『マッド・スライド・スリム』が発売されたのは一九七一年。その頃からアメリカを中心にシンガーソングライター、つまり自作自演、自分で曲を作って歌うシンガーが注目されるようになった。このアルバムの中で全米一位のヒットになった「君の友だち(You've Got a Friend)」は実はジェイムスではなくキャロル・キングの作品だったが、そのキャロルが同じ七一年にリリースしたアルバム『つづれおり』も大ヒットする。そこからいわゆる「シンガーソングライター」ブームが生まれたのだ。僕は中学一年生だった。翌七二年には日本でも吉田拓郎(当時は「よしだたくろう」名義)の「結婚しようよ」が大ヒットする。それ以前に岡林信康や高田渡など自作自演のシンガーはいたのだが、拓郎の登場で若者たちの間では自分もギターを弾いて唄えば自己表現ができるという風潮が生まれた。岡林や拓郎はフォークシンガーと呼ばれたので、日本ではフォークソングブームとも言われた。僕より四歳年上の鷹野龍之介は、そんな中で十六歳を迎えていたわけだ。
「当時はフォークが大人気だったからな」鷹野は続けた。「東京から拓郎や泉谷しげるなんかがコンサートに来ると、俺が前座で唄ったりしてさ。俺は高校生のくせに地元のローカルFM局で番組まで持ってたんだぜ」
この頃のフォークシンガー仲間には、同じ北海道帯広で活動していた中島みゆきがいた。僕は後に鷹野から「みゆきは俺に惚れてたんだ」と聞かされたが、正直なところ信じてない。鷹野龍之介は決して自分をよく見せるために嘘をつくような男ではないのだが、極端な楽天家で思い込みが激しい。だから中島みゆきに好かれていると勝手に誤解したのではないかと、僕は睨んでいる。ともあれ、そんな地元では有名人だった鷹野は「こんな田舎にいられるか」とばかりに十七歳で家出して東京にやってきた。
「親が捜索願を出しやがったから東京にいる親戚に見つかって一度は連れ戻されるんだけどさ、次の年、一応高校だけは卒業して、改めて上京したんだ。映画の学校に行くっていう名目でな」
十七歳で家出したとき、鷹野が身を寄せたのは「フィルム前線」と名乗る映像集団だった。彼らは数人でアパートで共同生活をしていた。だから高校を卒業して再び東京に来たときも居候していたのだが、「バカヤロー、映画が学校で学べるかよ」と言われて考え直した。北見にいた高校生の頃、田舎の映画館でピンク映画だと思って入って、偶然観た実相地昭雄の『無常』(一九七〇年・ATG)にショックを受けていた。七〇年安保が終わり「シラケの時代」と言われていたけれど、街はまだまだ熱かった。鷹野は「フィルム前線」をねぐらにして、唄わせてもらえる場があればどこへでも出向く一方、新宿文化でATGを始めとする当時のアート・フィルムを観まくり、その階下の蠍座で山谷初男、浅川マキのライブを聴いた。まるで熱に浮かされるように街を歩くうちに、すっかり学校からは足が遠のいてた。
「そんな中でレコードデビューが決まったんだ。二二歳になる直前だったかな。エレックレコードというところだ」鷹野は言った。
「エレックレコードですか!」僕はまたさらに驚いて聞き返した。
「おっ、知ってるのか、ユーリ君、詳しいな」鷹野は嬉しそうに驚いてみせたけれど、当時フォークに夢中だった中高生なら誰でも知っていた。元々「広島フォーク村」という広島のアマチュアフォークソングサークルにいた吉田拓郎をスカウトしたことから始まったレコード会社だ。現在のインディーズレーベルの先駆けと言っていいかもしれない。拓郎は二枚目のアルバム『人間なんて』(一九七一年)をリリース後CBS・ソニーに移籍しメジャーになるが、泉谷しげる、古井戸、武田鉄矢がいた海援隊、ケメ(佐藤公彦)、ピピ&コットなどがそれに続き次々とデビューした。
僕の住んでいた川崎市ではテレビ神奈川の『ヤング・インパルス』という音楽番組が放映されていた。マイナーなローカル番組なので、吉田拓郎のようなビックネームは呼べなかったのだろう、その代わりまだ無名だった泉谷しげるや海援隊、古井戸などが出演していた。そして何より、まだ三人組のアコースティック編成だった頃のRCサクセションがレギュラー出演していたのだ。一九七二年、中学二年生、まさに「中二病」真っ盛りの僕は清志郎とRCにノックアウトされた。
RCは東芝音工所属でエレックではなかったが、古井戸や泉谷と共に渋谷の「青い森」というライヴハウスに出演していた関係で仲が良かったと伝えられていた。後に古井戸にいたチャボこと仲井戸麗市がRCに参加、ブレイクするのはご存じの通り。ところが──、
「いざ、レコーディングってことになったとき、エレックは倒産しちゃうんだ」鷹野は並んで歩く僕の顔を覗き込んで笑った。
確かに、エレックレコードは一九七六年に不当たりを出して倒産した。一枚のLPレコードをたった一日で雑に録音してしまったり、ミュージシャンの意向を無視してダサいアルバムジャケットで発売したりするので、吉田拓郎を追うように泉谷、海援隊、ケメが他のレコード会社へと移籍。加えて会社の放漫経営があったと言われている。何よりその頃から日本のポップスには荒井由実(現:松任谷由実)に代表される洗練されたアーティストが現れた。彼女たちの音楽は「ニューミュージック」と呼ばれ、フォークソングは完全に衰退したからだろう。つまり、鷹野龍之介は遅れてきたフォークシンガーだった。
前章で書いたように鷹野はそれ以前、十八歳のときから「東活」というピンク映画の会社で助監督をしたり、その後は大映テレビ制作・日本テレビ系列の人気番組『夜明けの刑事』(主演:石橋正次、坂上二郎)の助監督も務めていたらしい。
「でもな、俺はまだ音楽をあきらめたわけじゃないからな。今はこうして風俗取材をしたりクロサワ君に頼まれてエロビデオも撮るけどさ、三〇歳までまだ二年ある。曲もいいのが出来てるからな、来年か再来年にはデビューだ」
鷹野は並んで歩きながら実に自信ありげにそう語ったけれど、僕にはどうにも理解できなかった。だってフォークシンガーやピンク映画・テレビドラマの助監督が、いったいどうやって性風俗の取材記者に繋がるんだろう? それを尋ねると鷹野はますます饒舌になった。
「そこだよ、ユーリ。『夜明けの刑事』をやってたとき、やっぱり俺はシンガーなんだって思ったんだ。映画も好きだけど助監督じゃない。だからもう一度唄いたいと思ってさ、辞めて、全国のライヴハウスを廻ったんだよ。自分で電話して、唄わせてくれると言われたらどんな地方にも行ったぜ。でもな、それじゃとても食ってなんていけない。それはオマエにもわかるよな」
「ユーリ君」がいつの間にか「ユーリ」になり瞬時に「オマエ」に格下げされたが、少しも偉そうでも嫌な感じもなく、むしろ親しみを込めて呼んでもらってた気さえした。この不思議な人間性こそ、鷹野龍之介という男の個性だった。ただし、「わかるよな」と言われたものの、
「──ハア、まあ」と、僕は正直あまりよくわからないまま答えていた。
「それでちょいと唄は休みにしてさ、前からちょっとだけ知ってた、芸能音楽プロダクションに入ったんだ。当時一緒に暮らし始めた女もいたしな、毎月決まった給料が必要だったわけだ。肩書きとしてはマネージャー兼プロデューサーだな。それで、港雄一さんって知ってるか?」
知っていた。ピンク映画の人気男優だ。僕は大学の四年間、上野のあるにっかつの封切館でバイトをしていた。「にっかつロマンポルノ」は新作二作に「買取り」と呼ばれる独立プロ制作のピンク映画を加え、三本立てで上映されるのが常だった。港雄一は当時四〇代後半、堂々した体躯に強面な風貌でレイプシーンに定評があり、「犯し屋」という異名で呼ばれていた。
「そうそう。オマエ、映画にもけっこう詳しいんだな」鷹野は嬉しそうに続ける。「その頃港さんが『犯し屋ブルース』っていうエッセイ本を出してさ、ちょっと話題になってたんだ。俺は港さんとピンク時代に面識があったから、これはネタになりそうだと会いに行ったんだ。『港さん、唄を出しませんか』とお願いしたら『面白れえな』って言ってくれてさ」
鷹野と港はデモテープを作った。といっても知り合いのカラオケスナックを借り、鷹野がギターで伴奏するというお手軽なものだったが。しかしそのテープを聴いたとある大手レコード会社の演歌担当ディレクターが「これは売れるかもしれない!」と踏んだ。
「そこで本格的にレコーディングすることになった。作曲は岡千秋、編曲は馬飼野康一だぜ、スゲエだろ? でもさ、本があって曲があって、俺はもうひとつ足りない。唄を売るためにはもうひとつ何かが必要だと考えた。そこで写真集というのはどうだろうかと思いついたんだよ」
鷹野のレコードデビューが御破算になった頃、一九七〇年代半ばからビニール本がブームになる。そして八〇年代に入ると男女がセックスしているシーンを無修正でそのものズバリ撮影する裏本という過激で非合法な写真集も現れた。ならばと彼はやはり助監督時代に仲のよかった人気ピンク映画女優・沢木ミミに声をかけ、港雄一が沢木を犯すというエロティックであり、映画のようにストーリー性もある写真集を作ろうと計画したのだ。
そこで思い付いたのが、先ほど僕を面接した大橋だ。二人は映画学校時代の同級生で、その頃大橋はまだ麹町の出版社にいた。そのツテで企画を持ち込んでみたものの、会社の上層部からは「そんなリスクが大きく、売り上げも望めない本は出せない」と断られる。ただし、その代わりにと、ある編集プロダクションを紹介された。これが、クロサワが立ち上げたばかりのJACK出版だったというわけだ。
しかし、そう言われると益々わからなくなった。確かに、沢木ミミはピンク映画では人気女優だったが、にっかつロマンポルノの美保純、寺島まゆみ、岡本かおりといったアイドル系の女優に比べれば徹底的にマイナーだ。しかもメインはあくまで男優の港雄一である。企画にOKが出なかったのは納得できる。けれど本当にわからないのはそこだ。僕もバイトしていたあの麹町の出版社は当時業界最大手、最も売上げのある版元と言われてた。そんな会社が蹴った企画を、なぜマンションの一室で営業する小さな編プロが請け負えたのだろう?
その辺りのことを訊こうとすると鷹野は「まあまあ、出版には色んな力関係があるんだよ」と笑って言葉を濁し、「それより俺が『スーパー・ジャック』に書いたラッシャー木村のインタビュー読んだか。面白かっただろう」と言った。
「──ええ、そうですね」今度は僕が言葉を濁す番だった。
『スーパー・ジャック』は大橋が編集長を務める雑誌で先月に創刊号が出たばかり。版元は和新出版という九段下にある会社で、老舗の出版社だが現在社員編集者は三人くらいしかいなくて、すべて外注の編プロに発注しているという。それでも十数冊のアダルト雑誌や成人向け劇画誌を発行しているので、降武の言葉を借りれば「ありゃ出版社というよりブローカーだな」とのことだった。しかしだから逆にJACK出版ならではの雑誌作りができるということで、大橋やクロサワは力が入っているような感じがした。
判型は大判のA4で、確かに表紙やカラーのヌード写真の載る四色オフセット印刷の紙は、一般的なエロ本より高級なものを使っていた。加えてカラーが六四ページに二色刷りが三二ページ、一色がグラビア、オフセットがそれぞれ三二ページずつ。表紙を加えると全一六四ページもある。これは小学館の『GORO』など、メジャーなグラビア誌に迫るヴォリュームだ。ただ、降武の作る「スーパー変態マガジン」と銘打つ『ビリー』に比べると、圧倒的に的が絞れていない感じがあった。「総合的なアダルト誌」というものを目指しているのかもしれないが、果たしてそれをマイナーなエロ本でやる必要があるんだろうか?
鷹野龍之介の書いた記事にしても、確かにラッシャー木村は魅力的な人物だろうが、エロ本でやる意味がどうにもわからなかった。プロレス専門誌ならもっと深く追求できるだろうし、その人の生き様にスポットを当てるなら、かつて髙平哲郎が数々の伝説的なインタビュー記事を残した『宝島』(JICC出版局)や、アンディ・ウォーホルの『Interview』誌と提携している『STUDIO VOICE(スタジオボイス)』(流行通信)にとても勝ち目はない。
何より僕が『スーパー・ジャック』を初めて見たときに感じたのは表紙だ。エアブラシを使ったいわゆる「スーパーリアルイラストレーション」で女性のヌードを描かれていた。暗夜書房の『ビリー』『ビート』もそうだが、当時のエロ本の表紙はヌードモデルやB級アイドルの、着衣のポートレートが定番だった。読者が書店で買うのが恥ずかしくないようにという配慮だったが、おそらく『スーパー・ジャック』には、そんな常識を覆そうという野心的な意識があったのだろう。しかしそれにしては、と僕は思った。いや、誰しも思わずにいられなかったに違いない。エアブラシのイラストというのはあまりにも古い。それも見事なほどに中途半端な古臭さだった。
何しろ山口はるみがエアブラシを使ったファッショナブルなイラストで革命的な旋風を巻き起こしたのは七〇年代の前半だ。渋谷「PARCO(パルコ)」の壁に彼女の描いた巨大な美人画が描かれ話題になったのは、僕が高校生の頃である。流行はその波が大きかったときほど数年で加速度的に色褪せる。しかも『スーパー・ジャック』の表紙イラストは山口はるみのパクリにすらならない、劣化した模造品に過ぎなかった。
「これを表紙に使うというダサいセンスはいったい何なのだ──」と、僕は密かに思っていた。
もちろんそんなことは気持ちの中にあるだけで口には出さなかったのだが、そのときだった。僕と鷹野の前を一台の巨大な車が通り過ぎたのだ。純白のキャデラックだった。場所はさっきの喫茶店からだらだらと続いた細い路地を上り切ったところ、左へ曲がるとすぐ甲州街道に出る少し広い道だった。キャデラックは代々木方面からやってきて、僕らの目の前で右折。五〇メートルほど先で止まった。
「おっと、噂をすれば、だぜ」
鷹野は僕にそうなぜか嬉しそうに言って駆け出した。その辺りは新宿南口まで二〇〇メートルほどという好立地だったが、古くて怪しげな雑居ビルが建ち並ぶ地域だ。その白くてバカでかい派手なアメ車は、「そちら方面の方々の公用車」という雰囲気を如実に醸し出していたが、鷹野はかまわず近づいていった。そして、後部座席から一人の人物が降りてきたのだ。
キャデラックと同じく上下真っ白なスーツに身を包み、身長は一八〇センチ近く。いや、実際はそこまで長身ではないかもしれないが、とにかく大きく見えた。というのも胸板の厚い堂々したした体躯、それよりも男の放っている内面からの強烈な迫力が、彼をとてつもなく強靱に見せていたのだ。年齢は三〇代半ばくらいか。スーツの後ろ襟近くまである長めの髪を横分けにしている。そのヘアスタイルは毛量の多さと相まってどこかの演歌歌手か、ムードコーラスグループのリーダーといった風情だった。
「会長、ごぶさたしております。鷹野でござますー」と鷹野が大きな声で呼びかけると、会長と呼ばれた相手はその風体からはおよそ想像できない柔らかくカン高い声で、
「おやおや、これは鷹野くんではありませんか。相変わらずエネルギッシュにご活躍のようで、ナイスですねえ」と唄うように言った。
鷹野は「どんでもない、恐縮です」と頭を下げつつ近づき、キャデラックの停められたビルの上の方を指差して「今日は飯干さんのところですか?」と訊いた。
「そうそう。ちょっとヤボ用でしてね」会長はさらにオクターブの上がった高音で答える。
「会長、このたびはウチと飯干さんとの仕事で色々とお骨折り頂きまして、ありがとうございました。おかげさまで例の件、上手く進んでおります」鷹野がそう言うと会長は「いやいやいや、それはねえ」と胸の前で大げさに両手を振ってみせた。
「もう、持ちつ持たれつでございますよ。いや、何よりもですね、鷹野くん、我々はまず業界全体の発展を考えなければならない。目先の金ばかりではダメなのですよ。愛と希望、コレですよ。これがあって初めて未来が掴めます。ですからね、ココは鷹野くんやクロサワくんのような若い方に頑張って頂かないと、ねえ。それでは後は、飯干さんとよしなに。私はこれで失礼しますよ」
会長はそう言って、その「飯干」という人物の会社があるのだろうか、怪しげな雑居ビルの中へと大股で歩いていった。
僕はそんな二人のやりとりを、離れたところから少し呆然として眺めていた。というのも「会長」と呼ばれていた人物には何ともうさんくさく芝居かがったところがあったけれど、それ以上に、彼には何か得体の知れないパワーがあった。普通の人間には決して感じられないオーラのようなものだ。
鷹野がそんな僕に笑って手を振ったので、近づいていって訊いた。
「誰です、今の人」
「だから噂をすれば、だよ」と鷹野は笑う。「さっき言ってた港雄一さんの写真集、それを出してくれた俊英出版という版元の会長だ」
「──ああ、なるほど」
鷹野はまだぼんやりとしている僕の腕を肘でつつき、「つまりサ、会長も言ってただろう、ユーリ」と続けた。
「出版社にも色々あるんだよ。金のことしか考えない会社もあれば、理想を追求してるところもある。俺たちみたいな編プロはさ、金しかアタマにない連中からは金を取ればいいし、面白いものを作りたければ、その気持ちを意気に感じてくれる版元と手を組む、それだよ」
立場的にはフリーの取材記者である鷹野が「俺たちみたいな」と言ったのには少し違和感を感じたけれど、実はこのとき既に、彼とクロサワとの間では幾つかの計画が進んでいたのを僕は後から知ることになる。
会長はその後幾つかの紆余曲折はあったものの、わずか三年後にはアダルトビデオ監督として一世を風靡し、テレビにも出演して一躍日本中で知らぬ者はいない有名人になる。鷹野龍之介もまた会長ほどではないにせよ、花形女優をあまた育てて世に出す人気AV監督になるのだが、それはまた別の話。ただしひとつ確かなことがある。それはこのときエロ本、ビニール本という過激なグラビア文化が、ビデオという新しい媒体にメタモルフォーゼしようとしていたということだ。