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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#011

#011 ひびわれたコンクリート、暑い夏。

 鷹野龍之介に初めて会ったのも、やはりJACK出版だった。あれは降武と初めて会い、一〇〇円ラーメンを食って別れてから一週間後くらい、『ボッキー』の仕事を手伝い始めて三日ほどだったと思う。僕はその代々木にあるマンションで、大橋から正式に面接を受けた。
 JACK出版は社長のクロサワと降武、それにデザイナーの飛鳥修平が出資して作られた会社だったが、クロサワと並んで大橋が最年長だということで、そういった事務的な仕事を引き受けていたのだと思う。大橋もクロサワ同様、元々は僕がアルバイトをしていた麹町の出版社にいた。そこからクロサワが独立してJACK出版を作り、雑誌が増えたところで大橋が誘われたというストーリーであったらしい。そして、大橋の学生時代の友人だったという関係で、取材記者として出入りしていたのが鷹野だった。
 南側の最も広い八畳の洋室、その窓際にある大橋のデスクでひと通りの質問を受けた後、
「社長のクロサワを紹介するからしばらく待っていてくれ」と言われ、四LDKのマンションの一番奥にある四畳半の和室に通された。そこは撮影用の衣裳小道具部屋兼ビデオの画面撮りをする場所で、鷹野龍之介はそこにいたのだ。
 大橋や中神E児ら、編集者が原稿を作るのを待っていたのだろうか、飛鳥修平と恭坂凉祐もいた。飛鳥がお洒落なカーペンターパンツを穿きサスペンダーをして、膝を抱えて座っていたのをよく覚えてる。恭坂は見たこともないような細いジーンズを穿いて、あぐらをかいて座っていた。
 テレビモニターには裏ビデオが流れていた。仕事上必要なダビングをしていたのだと思う。十四歳だと噂される少女が腰まで届きそうなソバージュのウイッグを被り、中年男とセックスするという当時話題のビデオだった。三人はそれを見るでもなく世間話をしていた。僕は三人とも初対面だったが、特に紹介もされなかった。そんな中で「待っていてくれ」と言われ気後れしていた僕に、ひとなつっこい笑顔で話しかけてきたのが鷹野だった。
「裏ビデオなんて、観ます?」と鷹野は言った。そして僕が曖昧にうなずいていると、
「笑っちゃうよね。こんなのアリなんだもんね今は」と笑った。気を使ってくれたのだと思う。優しい男だった。
 飛鳥は茶色ががったウェーブのある髪を肩まで伸ばし、恭坂は細身で、クラーク・ゲーブル風の細い口髭をたくわえていた。E児がエルヴィス・コステロ風の眼鏡をかけていたり、降武が真夏でもコーデュロイのジーンズにブーツというスタイルを貫いていたように、この編集プロダクションの人間は皆独自のクールな洗練さ見せていたが、鷹野龍之介はひとり異質だった。誰とでもすぐに打ち解ける社交性をがあり、その場を和ませる明るさを持っていた。
 そして少々泥臭くて一本気なくせに、すべてにおいて器用な一面もあった。それは彼の経歴にもよるものなのだが、そのときの僕にはまだ知るよしもない。大橋やクロサワのひとつ年下、二八歳にして額がかなり薄くなっていて、けれどその髪をかまわず肩まで伸び放題にしているザンバラ頭は落ち武者のようだったが、そんな風貌もどこか格好よかった。
 画面の中の少女は、男の膝の上に乗る格好で下から突き上げられていた。男が大柄なのか少女が小柄なのかあるいはその両方なのか、そのせいでいかにもまだ小さな子どもが犯されている様に見え、映像はかなりむごい感じがした。しかしその反面少女は言わば「感じまくって」いた。あられもない声を出し喘いでいて、カメラはその愛液でヌルヌルした局部に太いペニスが堂々と出入りする様をアップで写していた。ソバージュの付け毛は彼女の素性を隠すためだろうということが安易に想像できて、それが何とも怪しく犯罪的な雰囲気を醸し出していた。

 その前年一九八二年の秋、突如『洗濯屋ケンちゃん』という無修正のセックスポルノが出廻って話題になった。誰が命名したのかそれは「裏ビデオ」と呼ばれ、週刊誌誌上に画面撮りが載せられると、「すわっ、日本もいよいよポルノ解禁か!」と異様な熱気を帯び社会現象にすらなった。バカバカしく覚えやすいタイトルも効いたのだろう、「ケンちゃん、観た?」はサラリーマンたちが居酒屋で交わす合言葉になった。
『ケンちゃん』は巷でダビングにダビングを重ね、最終的に出回ったのは一〇万本とも五〇万本とも言われているが、その時期一般人で観た人は極めて少なかったと思われる。何しろビデオデッキ自体がまだとても高価で、家庭にほとんど普及していなかったのだ。
 そして明けて八三年、裏ビデオの女王と呼ばれた田口ゆかりの『雪国』『ザ・キモノ』、ピンク映画の美人女優として知られた杉本未央主演の『遊女』などが出廻る。以上は海外向けハードコアポルノとして制作されたと言われたが、本当に国外市場に流通したかどうかはわからない。「日本では売らないから大丈夫」と、女優を納得させる方便だったかもしれない。
 そして八四年になると「ヨシコちゃん」と呼ばれる女の子が主演した『ホテトルあらし』、さらには雑誌『GORO』篠山紀信「激写」のモデルが出演と噂された『トライアングルPART.2』と、後年まで名作と呼ばれる裏ビデオがぞくぞくと出廻るようになる。
 それはまさに「裏ビデオの年」だった。そして、あの頃誰よりも裏ビデオを観ていたのが、僕たちマイナーなアダルト誌に関っている連中だったはずだ。一般家庭においてはまだまだ高価だったビデオデッキだが、エロ本出版社には必需品だった。なぜなら裏ビデオの記事を載せればそれだけで雑誌は売れた。非合法映像に著作権なんてない。したがって画面撮りはやり放題、金もかからないとくれば言うことはなかった。
「こんなのアリなんだもんね」と鷹野は笑ったけれど、あの年、日本人は初めて「他人が見せるリアルなセックス」というものを目の当たりにしたのではないだろうか? ロマンポルノやピンク映画に馴れている目で考えると、多くの男たちが漠然と「女性は少なくともカメラの前では本気で感じたりしないものだ」という、実に一人よがりで保守的な思いを描いていた。
 あれはポルノ女優というごく特殊な職業の女性が、あくまで演技でそれらしく見せているだのだ。「普通の女は違う」と。そんな観念を一気に、そしていとも簡単に粉砕してしまったのが裏ビデオだった。
 愛液でヌラつく女性器にペニスが出入りするのをアップで捉える画には、それまであった八ミリのブルーフィルムには決して表現できないリアルさがあったし、女性が本気で感じて来ると白濁色の愛液を滴らせるというような事実は、裏ビデオが初めて知らしめたようなものだろう。
 裏ビデオが日本人のセックス感を変えた──、と言い過ぎかもしれない。けれどビデオというメディアを大きく変えたのは事実だ。元々テレビ受像機の普及台数は昭和三四年の皇太子・美智子妃御成婚で倍増し、カラーテレビは東京オリンピックで爆発的に需要を増やしたと言われているが、その言い方をなぞらえれば、ビデオデッキというものを決定的に普及させたのは裏ビデオだ。これは間違いない。
 僕はそれから約一年半後、大阪で国内最大手と言われる裏ビデオ販売業者に取材をしたが、そのとき「裏ビデオのブームはいつまで続くと思いますか」という僕の問いに、業者は笑ってこう答えた。「そらアンタ、日本中の各家庭にビデオデッキが一台ずつ揃うまで続きますがな」と。そして実際、彼の予言通りになった。

「おまたせ」とクロサワが和室の襖を開けて顔を覗かせた。
「下の茶店でも行くか」とクロサワは静かに言い、鷹野に「龍之介、お前も行くか?」と告げた。鷹野は「おっ、行く行く」と嬉しそうに立ち上がり、僕らは編集部を出ることになった。
 この時点で鷹野龍之介が何者なのかは知らなかったが、JACK出版の社員でなさそうなことだけは何となくわかった。そんな人間がなぜ新人の面接についてくるのかはどうにも理解できなかったが、社交性があってひとなつっこく見えた鷹野がいてくれるのにはホッとした。
 クロサワは「天才的な編集者」と呼ばれていた。確かに今の僕とほぼ同じ、二〇代半ばの若さで小さな編プロとは言え会社を起こし、『ビリー』『ビート』という革新的なグラフ雑誌を立て続けに成功させたのだから、そう噂されるのも当然だったろう。クロサワも元は僕が首になった麹町の出版社にいた。そこで藤田健吾というカメラマンと『美少女』というタイトルの写真集シリーズを編集していたが、あまりに革新的なショットや実験的な写真を使うので、社長の逆鱗に触れ会社を去ったと伝えられていた。
 僕は麹町の会社にいたとき、クロサワと藤田が作った写真集を見たことがあった。それは正直言って、一度見たら脳裏から離れない強烈な代物だった。藤田の写真には、カラーフィルムを使いながらも「色」というものがなかった。もちろん厳密な意味で色が付いていないわけではない。言い替えれば藤田の作品には、それまで僕が知っていた写真という概念の中にある、「色」というものが使われていなかったのだ。
 その写真集の扉には、ひっそりとしたバスケットコートにセーラー服の少女がひとり佇んでいる写真が使われていた。季節は梅雨だろう、霧雨が降り彼女の顔は透明のビニール傘で隠れ見えにくい。バックには濡れたフェンスがあり、その向こうには紫陽花の花が咲き乱れている。
「まるで水彩画のような写真だ──」そう思ったのをハッキリと覚えている。広角レンズで撮っているにも関らず、被写界深度が極端に狭い。そのせいか色という色が、切ないぼどに淡く霞んでいるのだ。色らしい「色」があるのは、唯一少女のセーラー服の胸元に巻かれたリボンだけだ。その「赤」だけがまるで着色されたように浮き出ていた。目に染みる「赤」とはまさにそのことだった。
 藤田は「九鬼」で長らくビニール本の写真を撮っていた。まだ大学生だった降武が編集し、飛鳥がデザインしていたそうだ。しかし「将来は篠山紀信以上の写真家になる可能性がある」という噂を聞きつけ、ビニ本を撮らせておくのは勿体ないと麹町の会社に引き抜かれた。「伝説の編集者」と呼ばれた社長はすぐさま藤田の才能に惚れ込み、メインのカメラマンになった。
 藤田の写真はどれも素晴らしいものだったが、クロサワと組むとき、その才能が狂気の域にまで達する感じがあった。そんな狂気を象徴する写真が、僕が見た写真集のちょうど中程にあった。セーラー服の少女の左手がA4判見開きに、ほぼ実物大のアップで撮られている。しかしその手首には、思わず目を背けてしまうほどの深い切り傷が無数に刻み込まれているのだ。自殺未遂癖のあるモデルだったそうだ。それを「撮れ」という編集者も編集者だが、アップで撮るカメラマンもカメラマンである。
 藤田の写真、あるいは裏ビデオというもの、どちらにせよヴィジュアルというモノが七〇年代とは大きく違った物になっていくだろうという予感が息苦しいほどにあった。それが、一九八三年という時代だった。

 JACK出版のマンションから坂道を下ったところにある小さな珈琲屋に入ると、クロサワは僕に何の前置きもなく、「君はウチの会社で何がやりたい?」と訊いた。
 クロサワは痩身で長身、濃い眉が印象的な、ひと言で言って端正な顔立ちの美男子だった。しかし同時に果てしなく暗くミステリアスな部分も持ち合わせていて、その圧倒的なオーラのようなものに押され、僕は「まだ何ができるというほどの経験もないので」としどろもどろに答えるのがやっとだった。隣に座った鷹野が、
「好きなことをサ、好きなようにやるのがいちばんだよ」と言い、先月大橋の編集する『スーパー・ジャック』という雑誌でプロレスラーのラッシャー木村を取材したと嬉しそうに言ったが、クロサワは鷹野を無視するように僕を真っ直ぐに見つめ、
「やりたいことがあれば極端にやれ。ウチにありきたりなエロ本を作るヤツはいらない」と言った。そして「今俺が作っているのはコレだ」と封筒から雑誌の校正刷りを出した。A5判の小さなサイズの雑誌の表紙と目次で、『ビデオ・ジャック』というタイトルだった。杉浦康平や鈴木一誌を意識したであろう飛鳥修平による繊細なデザインで、あえて緑と黒の二色しか使っていない表紙が斬新だった。アンダーグラウンドな匂いがした。そして「日本初の裏ビデオ専門誌!」というキャッチコピーがひときわ目を引いた。
 目次には日本で誰よりも裏ビデオを見ている男として、奥田晴彦と高田次郎の「裏ビデオ評論家対談」、『洗濯屋ケンちゃん』の監督・藤井知憲インタビューなど魅力的な記事が溢れていた。しかしそれ以上に驚いたのが、目次の下欄に「本誌で紹介したビデオの入手先」として、裏ビデオ業者の電話番号が堂々と記されていたことだ。
 鷹野は「大丈夫、クロサワくん?」と少し心配そうに聞き、クロサワは、
「バカだな。コレが売りじゃないか」とニヤリと笑った。
 裏ビデオは確かに多くの男たちが「観たい」と欲したが、実際のところどこで買えるのか一般の人はほとんど知らなかった。何しろ大っぴらに売ったら手が後ろに廻る商売なのだ。だからこそ誰かが運良く入手したものがダビングにダビングを繰り返されたのだ。また裏ビデオ記事を載せるアダルト誌の方も、犯罪幇助になるのではと恐れ、入手先を記すことはなかった。「極端にやれ」と言うのはこういう意味なのだ、僕はそう受け取った。
「そんなことより龍之介、ビデオ機材はいつ来るんだ?」クロサワは言った。
「大丈夫だ。来週来る」鷹野は答えた。
 校正刷りの表4には《ビデオ版『ビデオ・ジャック』当社より発売予定、予約受付中!》とあった。やっとのことで僕は鷹野がそこにいた意味を理解した。クロサワにとって新人の面接などどうでもよかったのだ。彼はそのビデオ版『ビデオ・ジャック』の打合わせをするつもりで鷹野を呼び出したのだ。その後わかったのだが、鷹野は十八歳のときから「東活」というピンク映画の会社で助監督をしたり、テレビ映画の経験もあった。クロサワは鷹野にオリジナルのビデオを作らせようとしていたのだ。
 代々木のJACK出版から甲州街道を一本隔てた場所では、吉村彰一という男が「シネマジック」というビデオメーカーを立ち上げていた。そこからさらに先、青梅街道には峰一也の「アートビデオ」があった。どちらもSMビデオの会社だ。
 吉村はやはり麹町の出版社の『SMコレクター』という雑誌の元編集者であり、峰もそこに出入りするフリーのカメラマンだった。両社の作品とも「通販ビデオ」と呼ばれ、SM雑誌に広告を載せることで販売をしていた。レンタルビデオ店などない時代だから、ビデオを売る方法はそれ以外になかったのだが、クロサワは雑誌の側からその戦略を選び取ったのだ。
 編プロであるJACK出版には、雑誌の数だけは多くある。ビデオ撮影の現場でスチール写真を撮り、パプリシティ記事を各誌に載せれば無料の宣伝になるという方法論である。もちろん同時に誌面は埋まり、しかも「ビデオという新しいメディア」を紹介するページとして華やかになる。クロサワと鷹野は後にビデオとビニール本をこの方法で売り、巨額な売り上げを手にすることになるのだがそれはもう少し先の話だ。二四歳だった僕は、呆然としながらクロサワと鷹野の会話を聞いていた。
 珈琲屋の中はクーラーが効いていたが、広いガラス窓の向こうでは灼熱の太陽がコンクリートがひび割れるほどに照りつけ、蝉が盛大に鳴いていた。一九八三年、夏の盛りのことだった

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