【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#013
#013 空を飛べ、海へ突っ込め。
実家のある新百合ヶ丘駅から電車に乗り込むのが午前八時。朝の通勤ラッシュ時の小田急線は急行列車でも下北沢を過ぎた辺りからノロノロ運転になってしまうから、代々木上原で各駅停車に乗り替えて、JACK出版のある南新宿に着く頃にには八時四五分頃になっている。南新宿駅の細い階段を降りても、僕の頭はまだ半分以上眠ったままだ。帰るのは毎晩南新宿十二時二〇分の最終電車。家に辿り着くのは午前一時半だから、睡眠時間は平均で三時間半ほどだ。暑い夏が終り、九月も半ばを過ぎてからはずっとそんな生活だった。
マンションの鍵を開け、まだ誰もいない編集部に入るのが九時五分前。インスタントコーヒーを入れ、「暗夜書房」のロゴが印刷された二〇〇字詰めの原稿用紙に、まずはノンブルだけを書き込んで行く。二〇〇字詰め原稿用紙のことを、出版業界では「ペラ」呼んだ。「ノンブル」とはページ数のことだ。
「あと一時間だ──」と思う。
降武が来るのは毎朝一〇時過ぎ、それまでの間に『ビリー』の原稿、ペラで短いものは十五枚、長くて三〇枚弱を一日一本書いた。降武が来たら、彼に指示される他の雑用をこなさねばならない。だから僕に与えられた時間は、そんな朝のまだ誰も出勤して来ない一時間だけなのだ。
何を書くのかは問題ではない。『ビリー』の誌面で紹介されるのは、海外のハードコアマガジンに写るスカトロ、レズ、ラバーフェチといった極端な性的嗜好、そして胎児奇形にフリークス、さらには夥しい死体写真の数々だ。僕にできるのは、それらの写真の語りかけてくる言葉に耳を澄ますことだった。説明や解説は一切要らない。なぜなら音楽もそうだが、ヴィジュアルとは言葉を内包したうえにさらにそれを越えている存在だからだ。
『ビリー』にはきらびやかな才能を持つ書き手が執筆していた。『ザ・コレクター 性に憑れた男たち』(秀英書房)や、『死体の文化史』(青弓社)で知られる風俗史家の下川耿史、後に漫画評論家になる永山薫、「人獣裁判」という残酷小説を執筆していた友成純一、文芸評論家の富岡幸一郎、等々。すべてが降武の人脈だった。
永山薫は多才な人で、秀逸なイラストや漫画も描き、海外のアブノーマルな雑誌文化にも詳しく、五つほどのペンネームを使い分けまさに書きまくっていた。永山と富岡は、降武が学生時代に作っていた文芸同人誌の仲間だという。中央大学在学中に評論「意識の暗室 埴谷雄高と三島由紀夫」で群像新人優秀賞を受賞した富岡幸一郎は既に名の知れた作家だったが、『ビリー』に集まってくる極端な性的嗜好の持ち主やそれを取り巻く裏文化に惹かれたのだろう、インタビューのアンカーを務めていた。
友成純一と降武は新宿の酒場で知り合った。二人は新宿ゴールデン街の「殿山」「血を吸う薔薇」、二丁目の「カーミラ」「BURA」などを夜な夜な徘徊していた。「殿山」は近年はNHK朝ドラ『あまちゃん』や『ひよっこ』などにも出演しているバイブレイヤー、俳優の北見敏之が経営する店だが、元はその名の通り、名優・殿山泰司の所有するバーを引き継いだものだ。
「カーミラ」は『青春の蹉跌』等で知られる映画監督・神代辰巳の妻がママを務める店であり、「血を吸う薔薇」はその後コメディアンで書評家の内藤陳が引き継ぎ店名を「深夜+1(プラス・ワン)」と変える。どの店も映画関係者、作家、評論家、メディア関係者が集う場だった。『ボッキー』を手伝うようになった夏から、僕もそれらの店を連れ廻されるようになっていた。どの酒場でも、降武はあの過激な雑誌『ビリー』を作っている男として、年長の文化人たちからも一目置かれていた。
友成純一は早稲田大学にて大藪春彦、鏡明、栗本薫(中島梓)らを輩出したサークル「ワセダ・ミステリ・クラブ」に所属。在学中に今では伝説になってしまった探偵小説雑誌『幻影城』の評論部門の新人賞を受賞した。なので当時は海外のポルノ小説の翻訳などをしながら、発表のあてもない評論を書いたりしていたらしい。「人獣裁判」はそんな彼が初めて手がけた小説だった。
近年出版された友成の自伝的エッセイ『猟奇作家の誕生 友成純一エッセイ叢書(2)』(扶桑社BOOKS)によれば、降武の依頼は酔っ払った勢いで「友成さん、小説なんてそもそも嘘なんだからさ、内容なんてどうでもいいんだよ。死体の写真とかえげつないイラストをメインにして、拷問とか猟奇殺人とか、そういう気持ちの悪いお話をデッチ上げて書いてよ」という乱暴で投げやりなものだったそうだが、友成が九〇年代には売れっ子のスプラッター作家になりベストセラーを連発したことを考えると、先見の明があったと言うべきだろう。
ともあれ、当時の僕の意識も降武のそれとほぼ同じだった。僕も麹町の出版社にバイトで働き始めた頃から、ヴィジュアルをなぞる文章は最低だと考えるようになっていた。特に『ビリー』が扱うのはすべてにおけるタブーだったから、それを現在我々が持ち得る常識で解説するのはそもそもナンセンスなのだ。「変態」という「性」に対するタブー、「死体」という「生」に対するタブー、「奇形」や「フリークス」といった「健常者・イコール・正常」という嘘っばち。僕がすべきこと、文章が成し得ることは、そこから目をそらさず、その「グロテスクさ」や「不快さ」と対峙することだった。
そのとき初めて、自分の中で新しい言葉が生まれる。それは頭の中ではなく、まるで胃袋の裏側からザワザワと湧き出て来るような熱いものだ。あとはそれを右手に感じて、原稿用紙に書き取っていけばいい。そうすればまるで自動書記のように、一〇時前には十五枚から三〇枚の原稿の束が机の上に置かれていた。たぶん──、僕が文章を書く意味を知ったのはこのときだ。
午前一〇時ちょうどに、まず大橋がやって来る。この慌ただしい編プロで唯一家庭を持ち、小学生になったばかりの息子のいる彼だけは、朝は定時にやってきて夜もそこそこ早い時間に切り上げて帰っていった。少し遅れて、例によって降武がブーツをガチャガチャ鳴らしてやってくる。大橋とは対照的にどんなに仕事が遅くなってもゴールデン街や新宿二丁目で夜中まで飲んだくれるのをやめない降武は、中落合のマンションでギリギリまで寝ていて、ほとんど着の身着のままのような格好でタクシーに飛び乗り出社してくるのだ。そして玄関を入るなり「ユーリ、原稿書いたか、飛鳥さんのレイアウト上がったか、恭坂のぶんはどうだ?」とひとしきりワメキ散らしてから「あー、チクショー、気持ワリィ」などと力なく呟き、途中で買ってきたらしい缶コーヒーなんかを飲んでいた。そしていつもマイペースな中神E児が十一時を過ぎる頃にやって来て、昼過ぎになって編集部から目と鼻の先に住んでいる鷹野龍之介が顔を見せる。こうして、いつも生活が始まった。
そんな平凡な一日だった。僕が玄関の奥に置いてあるトレススコープの中でいつものように写真のアタリを取っていると、玄関のドアがバーンと音を立てて開き、
「ウッヒャッヒャッヒャッ!」というバカでかい笑い声が聞こえた。何ごとかとトレスコを飛び出して見ると、カーリーヘアーのようなモジャモジャの頭にトンボ型の眼鏡、真っ黒に日焼けした大柄の男が仁王立ちで立っていた。
「ドモッ、サワナカでっす! ドモッ、ドモドモッ!」
男は勝手に玄関でスニーカーを脱ぐと文字通りドスドスと音を立てて大股で編集部に入って行き、降武に、
「タケ、決まったよ所ジョージ。インタビュー来週の火曜日。どうよ、どうよ、ついに『ビリー』に所ジョージ出ちゃうよ」と言い、またウッヒャッヒャッと笑った。
『ビリー』には文化人やタレントなどを招き、「変態談義」をするというインタビューコーナーがあった。聞き手は当時「美人ライター」と評判だった友納尚子さん。評判通り明るい髪色のショートカットで美しい人だったが、加えて大柄でグラマーで酒豪、陽気で面白い女性だった。その後元祖・写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(新潮社)のアダルト版とも言える『セクシーフォーカス』(東京三世社)の編集長を経て、現在は皇室評論家になっている。どうやらカーリーヘアーの男はそのページのことを言っているようだった。
そうか、このヒトが『ビリー』の編集長であり発行人、暗夜書房のサワナカさんなのか。僕はレイアウト用紙を持ったまま少し呆然としながらその男を見ていた。サワナカは傍らにいたE児に、「どーよE児、最近イイ女いた?」と聞き、E児が「サワナカさん、そうそう売れるモデルなんていませんよぉ」と泣きを入れると、ショルダーバッグから宣材写真を出し「この女イイよ。ウチで撮った。カラミもできる。イイよー、『スーパー・ジャック』で撮れよ、カカカカ」と笑った。
この時代は今と違って、ハダカになってグラビアに写ってくれる女の子はそうそういなかった。だから業界では知らぬ者はいない有名人で、各出版社やカメラマンに多彩な人脈を持つ中神E児であっても、モデル探しには毎月苦労しているようだった。またカメラマンたちは大抵、自分の見つけた容姿のいい売れそうなモデルは囲い込み、他の人間には気軽に教えたりもしなかったものだが、しかし──、
E児が「イイんスか、サワナカさん」と嬉しそうに言うとサワナカは、
「助け合い助け合い。人類皆兄弟、ピースピース!」と笑ってE児の背中をドスドスドスッと叩き、今度は大橋に向かって「先月号の『ビート』、売れなかったねーっ!」と大声で言った。日頃から社長のクロサワは「ウチはただの下請け編プロじゃない。誇りを持って版元とは同等に付き合え」と言っていたが、それでも下請けは下請けである。さすがに「売れなかったねー」と元請けの編集長に言われてしまった大橋は「はあ、すみません。力不足で」と小声で言ったが、サワナカは次の瞬間「ニカッ」と笑い、
「次の号、頑張って売ればイイじゃん!」
と大声で言い、またもやウッヒャッヒャッと笑った。そしてゆっくりと振り返り、レイアウト用紙を持ったままつっ立っている僕の存在に初めて気づいたようだった。トンボ型眼鏡の中のまん丸な眼が「?」というカタチになり、
「キミ、ユーリくん?」と言った。
僕が曖昧にうなづくと、サワナカは「ユーリくん、ユーリくん、ユーリくん」とバカでかい声で言いながら背中をドスドスドスッとものすごい力で叩き、
「ユーリくん、キミの原稿オモシロイねー」と言った。そして「オモシロイよー、実にイイよー」と何度も言い、「どんどん書いて、どんどん。オモシロイ原稿大歓迎、どんどん載せるよー、オマケにキミの場合JACKの社員だから原稿料タダだしさー」
とカン高い声でわめいたかと思うと、「ウッヒャッヒャッヒャッー」と笑いながら玄関でスニーカーを履き、「じぁあねーッ」と出ていってしまった。
今のはいったい何だったのだ──?
僕はサワナカが去った玄関をぼんやりと眺めていた。麹町の出版社にいた頃、小学館の写真雑誌『写楽』に作家の村上龍が「コックサッカーブルース」というビニール本業界の内部ルポを連載していて、僕は毎月楽しみに、そして貪るように読んでいた。暗夜書房は「グリーン企画」という別会社を持っていて、そこでビニール本の制作もしていた。その責任者がサワナカだった。
「コックサッカーブルース」は当初、「ハラさん」と呼ばれる人物を案内人として村上龍がビニール本の世界を旅していく物語だった。「ハラさん」とはヌードカメラマンの原拓己という男だ。しかしある朝、エロ本業界の編集者やカメラマンたちがモデルと待ち合わせをする名所、新宿東口の「しみず」という喫茶店でひとりの男と出会い、村上は衝撃を受ける。その場面はこう描かれている。
<この前ハラさんとこのコーヒーショップに来たとき、強い印象を受けた男がいた。サワナカという若い編集者である。サワナカ氏は、強い顔つきをしていた。役者として映画に使いたいくらい存在感があった。自信に満ちている顔、それも他人から与えられた自信ではなく、俺は最前線で一歩も引かずやっているんだという自負に支えられた、実にいい顔だった。>
全然違うじゃん──と、僕は思った。さっき嵐のように突然現れ去っていった男は、「役者として映画に使いたいくらい存在感がある」過激な『ビリー』誌の名編集者というよりも、色黒で声のデカイ関東版の笑福亭鶴瓶みたいだった。
けれど降武から二丁目の酒場で聞かされた話によれば、サワナカはかつて劇画雑誌の編集もしていて、石井隆に画期的な仕事をさせた編集者でもあるのだという。
七〇年代後半、『ヤングコミック』(少年画報社)に連載された『天使のはらわた』は、僕らの世代にとってはバイブルのような劇画だった。また石井隆本人も後に劇画家から映画監督に転身するわけだが、自身の脚本によってにっかつロマンポルノで映画化された『天使のはらわた 赤い教室』(一九七八年)や『天使のはらわた 赤い淫画』(一九八一年)は、僕が映画館のアルバイト時代に観た忘れられない名作だった。
どうにもよくわからない。それが僕の印象であり、沢中慎二との初めての出会いだった。
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