危険と煙草を呑みながら part4
14時5分にテンバサール国際空港に足を着けた。窮屈な座席に二時間も乗っており、肩こりと腰痛に悩まされていた。ジャカルタの空港でタクシーにぼったくられた私は、拙い日本語で観光客をだまそうとしているキャッチをしている人たちを無視し、事前に予約してあったタクシーに乗って、レギャンにあるホテルに向かった。雨季が迫っているバリ島の湿度は高く、じめじめとした暑さだった。日差しが強いわけではないが、一時間も歩けば、汗によって、シャツが背中に張り付いていた。ホテルに到着すると、フロントでチェックインを済ませ、ホテル内の施設を探索して、部屋に向かった。
部屋に入り、荷物を床に投げ落とすと、ベランダの椅子に腰かけ、ガラムスーペリアをふかした。口の中がほんのり甘くなり、ニコチンによって脳の血管が収縮していく感覚に身をゆだねた。煙が風に揺られるように、私もくらくらしながら、空を眺めた。バリの空は青かった。ときどき、どっちが空でどっちが海なのか分からくなるくらいの綺麗な青だった。雲は一つもなく、地球の青さを感じられるような天気だった。一服し終えると、バリの海で泳ごうと思って、ホテルを出ようとした。虫よけスプレーを体に振りかけ、財布やスマホなどの必要なものを持って部屋を出た。しかし、ここでトラブルが起こる。なんと、ドアの鍵が壊れていて、鍵を閉めることができなかったのである。私は、すぐさまフロントに連絡した。
「鍵が壊れていて、ドアを閉められない。どうにかしてくれないか」
「分かりました。すぐに行くから待っていてください。」
フロントの従業員が直ぐに来ると思っていたため、廊下で待っていた。だが、待てど暮せど従業員がくる様子はなかった。10分、20分と時間が経過し、汗がだらだらと流れてきた。しびれをきらし、ホテルのフロントに直接行き、いつまで待たせるんだ?と直接言っても、すぐに行くと言われただけで相手にされなかった。
どうしよう。
海に行く気持ちが高まっていたものの、外に出ることができない状況に、じれったい気持ちになった。私は気持ちを落ち着かせるために、もう一度、ベランダで煙草を燻らせた。すると、ドアをノックする音が聴こえた。ついに、鍵を直してもらえるのか、と興奮気味にドアを開けたのだが、そこに立っていたのは清掃員だった。
「清掃サービスです。タオルの交換は必要ですか?」
「いいえ、大丈夫です。」
「そうですか、それではまた。」
清掃員は愛想が良く、南国らしいアロハシャツを着た、褐色の男性だった。私は、フロントの対応に諦めの感情を抱いていたため、ダメ元で清掃員に鍵の直し方を聞いた。
「あの、部屋の鍵を閉められないんですよ。」
鍵穴に鍵をさし、右にも左にも回らない鍵を見せた。すると、清掃員の男は慣れたような手つきでこういった。
「任せてください、これはまず、鍵をさすでしょう?そして、ドアを閉める前に一旦、鍵を閉めるんだ。そうして…」
男は、鍵を左に回し、ラッチボルトが出たまま、思いっきりドアを閉めた。ドンっ!という激しい音が廊下に響いた。
「ほらみろ、これで鍵が閉まっただろ?」
私は、パワープレイで鍵を閉める清掃員に微笑した。海外では、力の強いやつが正義というのを聞いてはいたが、まさか、こんな日常生活にまで「力こそ正義」のマインドが蔓延っているとは思っていなかった。
「でも、これ鍵を開けるときはどうするんだ?」
「何をいっているんだ?そのときは、ふつうに開ければいいだろ?」
私は鍵を左に回した。すると、何事もなかったかのように鍵は開いた。私は、一風変わったドアの使い方に笑いながら、清掃員の男に感謝すると、ホテルから一番近かった、レギャンビーチへと歩いた。
ビーチに着くころには、日没が始まっていた。水平線の彼方に、真っ赤に染まった太陽がゆっくりと、小さな重力に引っ張られるようにして落ちていた。ビーチには沢山の観光客がいた。ブロンドの西欧人に、キスをするアメリカ系のカップル、波打ち際で写真を撮っている家族などがいた。私のように、一人で旅をしている人は全くいなかった。日が完全に落ちるまでの間、ビーチに座って、呆然と空を眺めていた。橙色から紺色へと変わっていく黄昏時の空模様がとても美しかった。
綺麗だ。
ただ、それしか言葉が出なかった。語彙力が無かったというわけではなかった。目の前の景色に感動して、思考をする隙がなかった。私は、この景色を誰かと共有したかったが、あいにく隣には誰もいなかった。そのため、鞄からスマホを取り出して、露光をしないまま、写真を撮った。写真がうまく撮れたのを確認すると、もうしばらくの間、黄昏ようと思って、ビーチに座った。
日が完全に落ちて、夜が訪れると、ビーチの端から端まで歩いた。何キロあったのかは分からなかったが、とにかく長い時間歩いた。レストランやバーが並んでいる、海沿いの道を北西から北東まで折り返して戻っていると、聞いたことのある歌声が聴こえてきた。
「So, Sally can wait she knows it’s too late as we’re walking by.」
イギリスのロックバンド、Oasisの代表曲であるDon’t look back in angerである。私は、Oasisの曲が好きであったため、立ち止まり、曲が聴こえる方向へと歩いていった。すると、複数人の西欧人の前で二人のインドネシア人が、それぞれアコギとドラムを演奏ながら歌っていた。私は、彼らと一緒になって歌っていた。すると、近くのテーブルに座っていた金髪の女性が手をこまねいて、一緒に飲まないかと言ってきた。断る理由も無かったので、私は彼女の横に座った。
「いい曲だ。俺は、オアシスが好きでね。君も好きなのかい?」
「そうだよ。」
「それはいいね。」
女性は、ビール瓶を片手に話していた。一見したところ、40代くらいであった。体格はかなり大きく、お腹周りの脂肪が浮き輪のようについていた。彼女と同じテーブルに座っていた、四人の女性も似たような体格と顔立ちをしており、聞くところによると、どうやら四人は友達同士であり、オーストラリア出身とのことであった。
「あなたは、一人で旅をしているの?」
「そうだよ。はじめての海外旅行だけど、一人で旅をしているんだ。」
「おお、それはいいね。バリでは、どこか観に行ったの?」
「まだ、どこにも行ってないよ。今日の昼頃にここに着いたんだ。でも、ここからちょっと離れたところにある、イジェン火山っていう場所には行くよ。」
「イジェン火山?それはどんなところなのかしら。」
「文字通り、火山ではあるんだけど、炎が青いんだよね。ほら、こんな感じで」
私は、スマホでイジェン火山の画像を調べて、彼女たちに見せた。気づくと、同じテーブルに座っていた他の女性たちも私の話に耳を傾けていた。みんな、日本語訛りの強い、片言英語を一生懸命に理解しようとして、身を乗り出しながら話を聞いていた。
「おお~。この火山はとても綺麗だね。」
「バリにこんな場所があったなんて、知らなかった。」
「すごいね、これ。本当に火山なの?」
全員が驚いていた。私は、自分の目的地が称賛されていて、少しだけ誇らしい気持ちなった。それから、しばらくの間、五人で話していると、Oasisを演奏していた、二人組のうち、肌が黒く、パーマをかけた方の男が私の方にやってきた。
「君、いつ来たの?どこの人?」
「日本人だよ。今日の昼に、バリに到着したんだ。」
「日本人なのか?中国人に見えたよ。俺は、日本に行ったことあるよ。トーキョー、オオサカ…。」
彼は、自らの旅行の話をし始め、日本の有名な都市を適当に言った。最初は、本当に日本に行ったことがあるのか怪しく、観光客をだますための簡易的な嘘なのかと思っていたが、実際はそうではなかった。日本で旅行をしたときの写真を見せ、日本はいいところだったと彼は言った。また、神奈川や埼玉のことなど、予想以上に日本のことを知っており、どういうわけか東京のどこに風俗やキャバクラがあるのかということも知っていた。私と彼が二人で話していると、女性たちが後ろで日本について話していた。数分程、経った時に彼女たちの内の一人がこういった。
「日本のことなら知っているわよ。津波が有名だよね!津波!」
「ああー、ツナミね。あのでかい波のことよね。」
「ツナミ!ツナミ!」
最初は、津波のことが海外にまで認知されているのかと私は驚いた。しかし、次第にそれは間違いであることに気づかされた。彼女たちは、津波という名前を知っているだけで、どうして日本で津波が有名なのか、津波が日本に何をもたらしたのかということをあまり理解していないようだった。そのため、私は片言英語で一生懸命、東日本大震災の概要を彼女たちに伝えた。
「…、つまり、日本ではあの日、津波によって、多くの人が死んで、おまけに原子力発電所が爆発事故を起こしたんだ。チェルノブイリと同じものとは言えないかもしれないけど、津波のせいで似たようなことが日本でも起こったんだ。」
私が話し終えるころには、空気が重くなっていた。お互い、せっかくの旅行中に暗い話になって申し訳ないと思っていた。しかし、「ツナミ」という単語を冗談交じりに言っている様子に私は耐えられず、こうなることを覚悟したうえで話したのである。
「安易にツナミなんて言ってすまなかった。私たちにこの話をしてくれてありがとう。」最初に私と話した女性がそういった。すると、彼女に続いて、他の人たちも、話してくれてありがとうと言った。私も、旅行なのに空気を重くしてすまないと伝えた。
ほんの少しの間、重い空気が流れると、二人の男がまたしても、演奏を始めた。彼らのギターから鳴る、軽快なGコードが、夜明けが訪れるときのように、雰囲気を明るくしていった。
「When the night has come and land is dark」
演奏している曲は、ベン・E・キングの「stand by me」だった。私たちは、イントロから一緒に口ずさんだ。次第に、手拍子までするようになった。曲が終わるまでの間、ずっと一緒に歌っていた。まるで、さっきまでの空気で嘘であったかのように、殷賑とした空気が辺り一帯を覆っていた。歌っているときに、ふと周りを見てみると、さっきまでいなかった数人の観光客も一緒になって歌っていた。実は、このとき、stand by meを演奏したのは、男たちの粋な計らいであった。ストリートで音楽を演奏し、多くの人を楽しませている、いちミュージシャンなりの気遣いであった。そして、その計らいは見事に私たちの空気と気持ちを心地よいものへとしていった。演奏が終わると、私たちは乾杯をした。酒を持っていなかった私に、四人は一杯のビールをご馳走してくれた。
Cheers!
さざ波と共に、瓶のぶつかる音が浜辺に響き、それは刹那的なオーケストラのようであった。
「今日は楽しいよ。」と、私は言った。
「そうだね。いい夜だよ。」と、彼女らが返した。
「明日はどこに行くの?」
「さあね、わからない。でも、テンバサールの向こうにある山奥にでも行ってみるよ。」
「いいね。もし、良かったら、良い運転手を紹介しようか?」
「ほんと!? ありがとう!」
女性は、バッグから一枚の名刺を取り出した。みてみると、旅行代理店で働いている男の名刺であった。
「この人はいい人だよ。ぼったくられることもないし、いろんなとこに連れて行ってくれる。そんなに値段も高くないよ。」
「ありがとう。」
私は、そう言って彼女と握手をした。
「それじゃあ、僕はもうホテルに帰るよ。」
「分かったわ。気を付けてね。」
「うん、今日は本当にありがとう。楽しかったよ。」
「こちらこそよ。」
私は、四人の女性たちと順番に握手をして別れの言葉を交わした。下に置いていた鞄を方からかけて、道路へと出て、歩いた。ビーチの光が明るかったのか、暗さを感じない夜だった。一人でホテルに帰っている道中も寂しくはなかった。たった一人で、帰っているはずなのに、なぜか楽しく、横に誰かがいて、一緒に歩いているかのような気分だった。途中から「Stand by me」を口ずさみながら。レギャン通りを歩いてホテルに戻った。