鍋島直正公の軌跡② 教育
オヤジブログ怪気炎 vol.137
幕末こら明治にかけての改革者は、下級武士出身者が多い。薩摩の郷中、長州の松下村塾、幕府側では会津の日新館など・・佐賀藩には弘道館があり、十五歳以上の男子はみな藩校で寄宿舎(内生寮)生活を送るシステムになっていた。佐賀の教えと言えば「武士道というは死ぬことと見つけたり」の葉隠が有名だが、直正の時代にそれまでの朱子学から水戸学へと路線変更があり、尊王思想が語られるようになった。
弘道館で学んだ人々を挙げてみよう。いわゆる佐賀七賢人の皆様です。
総理大臣を経験し、話は大学の設立者である大隈重信。
初代司法卿で民法の成立に力を尽くした江藤新平。ただし佐賀の乱(佐賀戦争)で亡くなってしまう。
初代文部卿で日本に学校制度を作った大木喬任。東京遷都にあたっても彼の二都案が影響している。
外交手腕を発揮した副島種臣。とりわけ清国との関係について重要な役割を果たした。
北海道開拓に大きな力を発揮した島義勇。現在の札幌市があるのは彼の功績でしょう。江藤新平と共に佐賀の乱(佐賀戦争)で亡くなってしまう。
佐野常民。日本赤十字社の生みの親。ご承知の通り、戦争で傷ついた兵士を敵味方なく治療するのが赤十字の始まりでして、すでに博愛社として西南戦争から活動をはじめていました。
一人ひとりについて語れば、それぞれが伝記として一冊にできそうなほどの活動履歴の持ち主なのですが、彼らが教育を受けたのが佐賀弘道館。弘道館には高校生程度の年齢になると会読という授業があり、ゼミのようにテキストを元に生徒たちが自由に議論を交わしていた。そのような中で育った人々が活躍したのですね。
生徒たちの討論だけではなく、何と藩主直正とディベート(唐鑑会)もあり、不甲斐ない返答をすると藩主から叱責されたという。
殿様の前であってもビビらない胆力が必要そうです。
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