無一文裸一貫 アッシジのフランチェスコ
オヤジブログ怪気炎 vol.223
世界史気になるシリーズ 37
誰もが願う平和。世界中の兵士が武器を捨てれば平和は実現できるだろうか。フランチェスコの青年時代にこんな逸話があります。
1205年、フランチェスコはイタリア半島南部のプーリア地方の戦争に出征する騎士に同行を申し出た。これは、戦功を立てて騎士に取り立てられることを目論んだもので、装備を整えた上で出立するが、アッシジ近郊のスポレートで彼は突然に引き返す。聖人伝は、このとき彼が幻視したか神の声を聞いたのだとしている。当時のイタリアはvol218のダンテが生きていた時代と被り、教皇派と皇帝派が激しく争っていた時代でした。彼は争いの虚しさに気づいたのでしょうか。
私たちにまとわりついている偏見、衣服を始めとする生活に欠かせない物資、それらを全て捨て去った時に私たちには何が残るのだろうか。
アッシジのフランチェスコは金銭に触れることさえ、忌み嫌ったという。そこで彼らを托鉢修道会という。当時の聖職者や修道士は托鉢を禁止されていたし、司祭職の権限を持たない俗人が、説教を行うことも問題視されていた。修道院の中に閉じこもって祈りと瞑想に身と心を捧げる従来の修道会と、フランチェスコの小さき兄弟団はまったく性格を異にする集団であった。
やせ細って、汚れたぼろを纏った兄弟団を最初に見たとき、教皇は不快に感じたとも伝えられている。しかし何度かの謁見の後、口頭によるものではあったにせよ、小さき兄弟団の活動に認可を与えた。聖人伝の伝えるところでは、教皇は夢の中で傾いたラテラノ聖堂をたった一人で支えた男の姿を見ており、その男こそがフランチェスコであると悟ったからだという。いわば活動の仮認可という対応ですね。
まず偏見からの解放。あるとき、それまでは近づくことを恐れていたハンセン氏病患者に思い切って近づき、抱擁して接吻した。すると、それまでの恐れが喜びに変わり、それ以後のフランチェスコは病人への奉仕を行うようになった。
また、ローマに巡礼に出かけて、乞食たちに金銭をばらまき、乞食の一人と衣服を取り換えて、そのまま乞食の群れの中で何日かを過ごしたという伝記もある。
彼の父親は裕福な毛織物商だったが、家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとする息子との間に確執を生むことになる。最後には、アッシジ司教の前で父子は対決するのだが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」として衣服を父に差し出し、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切った。裸一貫になっての出発です。
フランチェスコは、ウサギ、セミ、キジ、ハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれる。魚に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名である。何だか童話のドリトル先生のようです。
フランチェスコは貧しさを礼賛することにかけては徹底しており、物質的な豊かさのみならず、精神的ないし知的な豊かささえも認めなかった。ここは、同じ托鉢修道会ではあったが学問や理論の重要性を認めたドミニコ会とも異なる点であり、フランチェスコは「心貧しいことこそ神の御心にかなう」と主張し、修道士に学問や書籍は不要と喝破している。物欲が信仰心の障害となる発想は、資本主義がどん詰まり状態の今、考えさせられるものがあります。また学問や書籍の否定は、当時の書物が極めて高額だったことと関係している気がします。
人間にとって本当に必要なものは愛と平和だけであり、それ以外のものはすべて不要だと主張し、いさかいや対立は所有することに端を発すると説いたように、その清貧の思想は彼の平和主義と分かちがたく結びついていた。キリスト教とイスラームの宗教対立の時代、そしてまたキリスト教世界が十字軍の熱狂のただなかにあった時代に、他宗教との対話のため、対立する陣営にみずから赴いている点も注目される。
供を一人連れただけでイスラーム陣営に乗り込んでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見しキリスト教への改宗を迫った。スルタンは改宗には応じなかったものの、フランチェスコは丁重にもてなされたという。この席でフランチェスコはイスラーム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかけたとされている。すなわち、燃え盛る炎の中に飛び込んでどちらに神の庇護があるかを競おうというのである。まさかそこまでと思わせる話だが、このエピソードを裏付ける資料が出てきているらしい。
前回vol222のテンプル騎士団修道会が財務に長けていたことと、フランチェスコの生き方は対照的です。ただこのままでは資源が枯渇してしまう地球、核兵器を使えば文明が滅んでしまう人類。
無一文裸一貫のベースに戻るとわかる何かをフランチェスコは教えてくれるかもしれません。