鄭和の大航海
オヤジブログ怪気炎 vol.228
世界史気になるシリーズ 40
明王朝に永楽帝という皇帝がいた。かなり攻撃的な人物で、皇帝の座に就いた経緯も靖難の変による反乱で、燕王として甥であった建文帝の座を奪ったのだ。皇帝の座に就いてからも自らモンゴルを攻めるなど、外征で名高い。
さて鄭和。この人は宦官でありまして、ボクは宦官に対して露骨な偏見をもっていて「宦官は覇気がないが小賢しい。宮中の奥で権力闘争に明け暮れて、多くの場合王朝が滅亡する原因をつくっている」と感じていました。
しかし、鄭和はその偏見を一掃する。
圧倒的な巨大船による大船団を率いて、東南アジアはもとより、インド、アラビア、果てはアフリカ(現在のケニア)まで航海しているのです。
梁王国(現在の雲南あたり、モンゴル帝国の分国の一つ)が明に滅ぼされた時に、父が殺され10歳であった鄭和は宦官となって、仕えることになる。靖難の変で功績を挙げた鄭和は永楽帝に認められ昇進するが、帝の企てた大航海を任されたのは、彼がムスリム(イスラム教徒)で漢人のいう色目人であったことも関係するのだろう。
少しわかりづらいが、明王朝は、洪武帝の海禁つまり鎖国政策を引き継いでいて、民間人による貿易を禁じていた。その隙を突くかのように皇帝公認の大船団が航海に出たのでした。
鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれた。『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、8,000t、マスト9本であり、小さく見積もっても長さは約61.2m、1,170t、マスト6本という巨艦とも言われる。
艦隊の参加人員はどの航海においてもほぼ2万7000人前後となっており、正使、副使などの使節団を中心として、航海士や操舵手、水夫などの乗組員、指揮官を筆頭とした兵員、事務官や通訳などの実務官僚、医官など様々な職種からなっていた。
彼の航海は、合計7回に及ぶ。内乱に巻き込まれて武力を用いることはあったが、基本的には平和外交で明との関係をつくり、朝貢を求める外交使節であった。戻ってくる時には現地の使節も乗船して明国へやってくるのですが、キリンを始めとする未だ中国人にとって見たことがない珍獣たちもやってきたらしい。
現在、中国は一帯一路政策に熱心ですが、鄭和の大航海の精神が受け継がれているような気がします。