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班超と36人の部下

オヤジブログ怪気炎 vol.214
世界史気になるシリーズ 29

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」この言葉は「危険を冒さなければ大きな成果は得られない」という意味で使われていますが、この言葉を最初に発したのが、本日の主役班超でした。
班超は後漢時代の人で、楼蘭国に部下36人を連れ立って来訪し、王から厚いもてなしを受けていました。ところがある日から待遇の様子が一段下がるのです。それは楼蘭に匈奴からも使いがやって来ていて、そちらは150人。怒った班超は、匈奴側に夜襲をかけて全滅させてしまいます。4倍も人数がいる匈奴側を攻めるのは、さぞかし勇気が必要だったでしょう。その時の言葉が「虎穴に入らずんば虎子を得ず」なのです。
班超は36人の部下と共に、次々と西域の国々を従えていき、西域都護に任ぜられます。その後本国の漢では皇帝が変わりましたが、西域で常にさまざまな反乱や政権交代が起きていることに厭気がさしたのか、新皇帝は西域を破棄してしまいます。
班超は故国に戻ろうとしたのですが、西域の王や貴族たちに引き止められます。班超がいなくなると、また匈奴が攻めてくるとおそれていたのです。カシュガルにいた班超は、王たちのねがいを聞き入れてとどまることを決めますが、漢からは絶縁されてしまいます。この時も部下は三十数人のままでした。
それから5年後、本国から1000人の兵がやって来ると班超は攻撃に転じる。攻撃した国の中にクシャーナ朝があり、班超の功績によって漢に貢献するようになる。
クシャーナ朝と聞いて、インドの歴史を思い出す方はいないでしょうか。ガンダーラ地方を跨いで北インドを支配していたクシャーナ朝は、西域に拡大していた漢とカシュガルの付近で接していたのですね。
当時の地理事情は、中国側からペルシアやヨーロッパのことはよくわかっておりませんでした。
班超は部下の甘英を派遣して、更に西のパルティア国に向かわせました。しかし甘英は地中海航海の危険性を誇張して脅かされ、ローマ帝国に到達することはなかったのです。
当時のローマ帝国は、五賢帝マルクス=アウレリウスの時代であり、アルメニアまでに進出していました。アルメニアを巡ってローマはパルティアとも交戦状態にあったため甘英が結局ローマに行くことは困難だったのでしょうが、漢とローマの2つの大帝国は接点をもつ一歩手前まで進んでいたのです。
シルクロード前史は、211の張騫や班超によって、切り拓かれたのです。

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