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タクラマカン砂漠の徒歩横断!

オヤジブログ怪気炎 vol.225
世界史気になるシリーズ 38

タクラマカン砂漠という広大な砂漠がある。現在でもこの地を旅行することは極めて困難で危険な地域だ。その砂漠を750年前に徒歩横断した人がいる。バール・サウマとその弟子マルコスである。

バール・サウマは、元朝の首都である大都で生まれた。
サウマは聖職者より景教の教義を学び、出家僧となる。剃髪式を受けた後、7年の間独房に籠り、さらにその後に房山県の洞窟に移り住んだ。サウマは洞窟を訪れたオングトの青年マルコスを弟子にとり、マルコスと共に禁欲的な宗教生活を送った。

弟子になったマルコスは聖地エルサレムへの巡礼を熱望するようになる。
1275年から1277年ごろの間に2人はマルコスの故郷である東城(現在のフフホト市)に着き、オングト王家のクン・ブカとアイ・ブカの歓待を受けた。2人はクン・ブカとアイ・ブカから乗馬と路銀を受け取り、東城の景教徒に見送られながら西方に旅立った。

サウマとマルコスが旅立った当時、中央アジアでは元軍とオゴデイ家のカイドゥの抗争が起きていた。抗争地を避け、2人は13世紀初頭に滅亡した西夏の故地・夏州を経由して沙州(現在の敦煌市)に到着し、沙州の景教徒のもとで準備を整えて、タクラマカン砂漠の横断に乗り出す。
彼らは水の補給に苦しみながらも、崑崙山脈北麓のチャルクリクのオアシスを経由して、2か月かけてロトン(ホータン)に到着した。ところがホータンはグユクの長子ホク略奪を受けて荒廃しており、ホータンの次に到着したカシュガルも元軍とカイドゥの戦闘で荒廃していた。カシュガルの景教徒から援助とサマルカンドの府大主教への紹介状を受け取り、カイドゥから通行許可証を受け取って道中の安全を確保するために、カイドゥがオルドを置いていたタラスに向かう。タラスでカイドゥからもてなしを受ける。2人がカイドゥから特許状を与えられたかどうかは定かではなく(あるいは、特許状が実効を持っていなかったためか)ホラーサーン地方に入った後に数度の盗賊の襲撃に遭う。
2人は所持金と荷物を盗賊たちに奪われながらもホラーサーンの都市トゥースに着き、トゥース郊外のマール・シーオン修道院で現地の僧侶から歓迎を受けた。彼らはネストリウス派の総主教(en:Church of the East)マール・デンハ(中国語版、英語版)から祝福を受けるため、ネストリウス派の総主教庁が置かれていたバグダードを目指して出発した。バグダードへの道中、アゼルバイジャンの中心都市マラーガに到着したとき、彼らはたまたまマラーガを訪れていたマール・デンハと面会することができた。マール・デンハはバグダードへ向かう彼らのために、東方の主教たちへの紹介状を書き、案内役を随行させた。・・

vol217のジョバンニ・ダ・モンテコルヴィーノがイタリアから北京まで海路を使ったことと比べると、極めて困難なルート選択でありました。元の時代は、東洋と西洋が実質一つの帝国の勢力範囲に入ったことで、多くの旅行者がまだ見ぬ土地の情報を伝えています。マルコ・ポーロやイブン・バットゥータなど有名ですが、危険な土地の横断旅行という点では、バール・サウマに軍配が上がりそうです。

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