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王重陽と丘長春②

オヤジブログ怪気炎 vol.236
世界史気になるシリーズ 46

七真人と呼ばれる王重陽の弟子のうち、丘長春の足跡を追いかけてみたいと思います。「長春真人西遊記」というチンギス・カンに拝謁した時の記録が有名です。チンギス・ハンの行動範囲が、とても広いため丘長春の旅も3年に及ぶ長い旅になりました。

1218年夏に勅使の劉仲禄から西アジア遠征中のチンギス・カンの招請を受けるや、その高齢を省みることなく弟子たちを引きつれて遠く西域まで赴いた。まず1221年4月に留守居役としてモンゴル本土のケルレン河畔に駐営していたテムゲ・オッチギンのオルドに至り、歓待されてオッチギンから牛馬百余頭と車十台を贈られてチンギス・カンの行宮がある西へ向けて出発した。勅使の劉仲禄に伴われモンゴル高原からアルタイ山脈に向かい、さらに8月半ばにウリヤスタイ西南の阿不罕山でチンカイの出迎えを受け、9月中旬には天山山脈麓のビシュバリクに至った。9月末から10月初めにかけてアルマリクからタラス川に至り、12月3日にはサマルカンドに到着し、太師の耶律阿海らの歓待を受けた。当時チンギス・カンはアフガニスタン方面を転戦していたため、劉仲禄らの進言によって丘長春一行は春になるまでサマルカンドに留まることになった。翌1222年4月中旬にチンギス・カンから面謁するよう指示が来たため、劉仲禄の伴われ門人5・6人とともにサマルカンドから南下し、ケシュ(シャフリサブス)でボオルチュ率いる甲士千人の護衛を受けて、5月16日にチンギス・カンのオルドに到着。翌日の1222年5月17日、現在のアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈の北部らしい喝剌播得(カラ・ホト)という場所でチンギス・カンに拝謁した。そこで不老長生の秘訣を問うたチンギスに、「衛生の道はあるも、長生の薬はありません」と答え、全真教の教えを説いたことでも広く知られている。

チンギス・ハンにより全真教はモンゴル帝国内で保護されて特許を得る。やがて彼は長い旅から北京に戻る。住んだ場所は現在白雲觀として全真教の総本山になっている。

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