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壮絶な人生 水野勝成1

オヤジブログ怪気炎 vol.264

「倫魁不羈(りんかいふき)」(余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない)と称された水野勝成について、少し調べてみました。

信長の元で武田方の高天神城を攻めた時が16歳の初陣。早くも敵の首をあげて、信長から感状を送られる。しかし、こんなことしていて大丈夫なのかという危なっかしい行動の片鱗はすでに見られる。城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。いくら勝ち戦と言え、神様を奪っていいのか、私は大いに疑問であります。
やがて父・水野忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した。その後しばらく家康(従兄弟なんです)によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。父親とはその後十数年間会えない。
放浪の旅へ。美濃・尾張の縁者の下を転々とし、遂には京都にいく。京都では従者も連れず闊歩し、南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、清水では大いなる喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こした。相変わらず素行がよくない。こんな暴れん坊が後年名君と称えられる人物になると誰が予想できただろう。
少し飛ばしますが、秀吉の元で四国攻めに参加している。9月1日勝成は豊臣秀吉から摂津国豊島郡神田728石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から刺客を放たれたという。その後もあちこちで出奔を繰り返しています。
肥後では佐々成政のもとで活躍。豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう孝高の嫡男・黒田長政に随伴したが備後国鞆の浦で下船し出奔した。長政に操船の手伝いを命じられ憤慨したためとも、過去に秀吉の怒りを買っており大阪行きを嫌ったためともいわれる。ただこの時備後国で下船したのは、のちの人生の伏線となります。
また放浪生活。最終的に備中国成羽の国人・三村親成の食客となった。文禄3年(1594年)9月、月見会の席上で作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬って出奔するが、翌年正月、再び成羽に帰り三村家の食客になった。このとき勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうける。これが室となる於登久(おとく)であり、この子供が後に福山藩第2代藩主となる勝俊である。

ちょっとした無礼が原因ですぐにキレてしまい、しかも本当に斬ってしまう。勘当されるのもむべなるかなですね。このままではただの無頼漢ですが、後半生での活躍が彼の名を歴史に刻むわけです。
後半に続く。

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