王重陽と丘長春①
オヤジブログ怪気炎 vol.235
世界史気になるシリーズ 45
世界には様々な宗教があるが、信者数の割に、日本では紹介する図書があまり出回っていないのが全真教。それまでの道教を改革した教えと位置付けられているようです。
開祖は王重陽で、生涯を辿ると武挙を受けて武官となるが、任じられた酒税徴収の監督官という地位に嫌気がさして、辞職し酒浸りの日々を過ごす。この頃は王害風と呼ばれる。
人生の転機は、正隆4年(1159年)6月16日、48歳のとき。「甘河の偶仙」と呼ばれる神仙との神秘的邂逅によって道士となった。
正隆5年(1160年)にも醴泉で再度遭遇したことで、王重陽は、回心の決意をかため、妻子を捨てるに至る。そして酒をぴたりと止め、厳しい修行の生活に入った。
大定元年(1161年)には、南時村に「活死人」の墓と名付けた深さ4mもの穴を掘り、そこで修行を続けること二年半に及んだ。そしてついに本来の真性を得て道を悟り、金丹が成った。この金丹とは一般には不老不死の薬とされているが、何らしか彼自身が身体の中に変化を感じたのでしょう。
この手の修行者には、家族を顧みない行動が共通しています。王重陽然り。活死人の墓を埋めて、教えを説き始めますが酒浸りの日々を知る人々には受け入れられません。王害風ですからね。
大定7年(1167年)4月26日、王重陽は突如として自分で劉蔣村の庵を焼いた。のちの弟子たちはこの庵を全真教発祥の場所と考え「祖庭」と呼ぶ。翌日、王重陽は不退転の決意でひとり山東地方を目指して旅立った。ここで初めて、諱を嚞と改め、字を智明、道号を重陽子とした。その年の秋には、山東地方に現れる。閏7月18日、馬丹陽(馬鈺)に出会い、入門させる。この時、馬丹陽が提供した庵の名が「全真」であった所から、全真教の名が起こったという。馬丹陽を弟子としたことが契機となり、入門を願う人々が「雲集」したが、のちに高弟となる丘長春(丘処機)・譚長真(譚処端)・郝広寧(郝璘)・王玉陽(王処一)の四人しか弟子を取らなかったという。
大定8年(1168年)2月、王重陽は弟子を連れて寧海州の煙霞洞にこもり厳しく弟子を教導した。6カ月に亘る修行ののち、8月に文登県で活動を始めて「三教七宝会」という一般に向けた組織をつくることに成功した。教えの評判の高さにより大定9年(1169年)には牟平県で「三教金蓮会」を組織し、その前後に馬丹陽の妻の孫不二が弟子となった。その後「三教三光会・三教玉華会・三教平等会」をつくり、三教七宝会からわずか14カ月で山東地方に五つの会を組織して一般に受け入れられた。この頃に掖県で劉長生(劉処玄)が弟子に加わり、馬丹陽以下の七人の高弟が揃い、のちに「七真人(全真七子)」と呼ばれた。
いよいよ教えが広まり始めますが、王重陽自身は1170年に亡くなっています。全真教の特徴は、それまでの道教の教えに、儒教や仏教の要素を融合させたものだということです。いいところどりのようにも感じますが、王朝の変遷に伴い、潜伏したり発展したりを繰り返しながら、21世紀の現代に至っています。