パーフェクトをやめる
狂人日記の作者は、ギャンブルでは自分は一番に成れるんじゃないかと思った
何もかもに自分はふさわしくなく家庭環境からもみすてられちゃってふさわしい人間だと証明する唯一の手段がギャンブルだった
おちこぼれが謙虚に模索して最初のほうに出会う存在がギャンブルかも知れない
そういう関係でもう自分って居るし、それを肯定してくれないからには凄い事が出来ないと愛してもらう価値ない
そんな厳しめの内省が、凡庸も厭う時ホームレスもギャンブルに手を出す
まんがとたいして変わらない心理だとおもっていい
かいじとかうしじまくんとかライアーゲームとか亜人も普通との戦いをくりひろげて行く
凡庸に悩んで凡庸にはなひらく
一番下に居る意味がない
そういう心理
苦労してるんだから、せめて派手に燃えつきちゃいたい
人の本能の一種だろう
才能がなくて努力で才能の壁にやっと辿り着いて、ちからつきて、する努力は、はためには苦労でしかない
そうだとしても、人は自分を諦められない
普通にがんばるほうにそれを使ったら
とは言えない
そんなこんなで川端康成さんも、同様の事情で高リスクの世界を最初から諦めなかった訳で、直線的にこの人は文学を目ざした
失うものがないひとの心情でもあるだろう
全て失っている
あとは自分を失うだけ
それならその自分は、華やかでありたい
しかし常識からそういうありかたを否定する
なのだとしたらメンタルブロックがその時かかっている
レールの範囲で終わる人生かは、そこで決まる
どんな酷い惨状かは分からない
でもその人も悪いわけじゃない
普通をパーフェクトにやりとげられなくても全然違うものを受けいれて見る
違う人生はそうやって始める
おちぶれた人も話してみれば「普通の」人だから
互いを大事にした時ふつうっていうのは簡単に帰ってくる
新しい道は絶対、選択する価値が、ある