ぬいぐるみをどう愛するべきか?
ぬいぐるみは良い。
まるで命かのような姿が愛おしいし、無責任な愛情を余すことなく受け止めてくれる。
私の狭い部屋には抱えきれないほどのぬいぐるみ達がいるが、みんな運命の出会いをした子たちだ。
そんな尊いぬいぐるみ達の中に、一体だけ愛し方に窮した子がいる。
それがこの、パンダのシャンシャンを模したぬいぐるみである。
この子と向き合っていく中で、
「ぬいぐるみとは何なのか?」
「ぬいぐるみをどう愛していくか?」
という問いに自分の中で区切りがついたように思う。
ぬいぐるみについて整理・分析したことを順を追って話していくので、少し長くなるが見ていってほしい。
◇
ぬいぐるみの定義
シャンシャンのぬいぐるみの話をする前に、まずぬいぐるみへの理解を深めておこう。
手元の国語辞典を引いてみると、以下の記述があった。
これを見る限り、何を模しているかはあまり関係がなさそうだ。
着ぐるみについてのは言及はいったん避けるが、要は布に綿が詰まっていればぬいぐるみの要件は満たすということだろう。
余談だが、三省堂国語辞典第七版には「ぬ」のページが約 4 ページしかなかった。
辞典部分が 1698 ページで頭文字が 48 文字あることを考えると、各文字の平均ページ数は約 35 ページである。
それに比べると「ぬ」の 4 ページがどれだけ少ないかわかるだろう。
「次にしりとりをするときは『ぬ』責めがいいかもな……」
と思いながら「る」を見てみると、なんと 3 ページ。
驚きの単語の少なさだった。
みんなが揃いもそろって「る」責めをするのも納得だ。
優秀な戦略にはきちんと根拠があるのだ。
さて話を戻そう。
辞書の記述を踏まえて、当記事ではぬいぐるみを
「布に綿を詰め、何かの形を模したもの」
と定義する。
クッションとの違いなどを議論しようとすると更に丁寧な定義が必要になるが、ここでは上記の定義で十分である。
この定義を踏まえると、ぬいぐるみの模倣対象(ぬいぐるみが模しているもの)には無限の可能性があることになる。
つまり、どんなものもぬいぐるみにできるということだ。
実際に世の中には、キャラクター、動物、食べ物、乗り物、焚火など、多岐にわたるぬいぐるみが存在している。
◇
模倣対象の分類
愛し方が分からなくなってしまったぬいぐるみは、模倣対象に特徴がある。
そのため少し模倣対象についての話をさせてほしい。
私が思うに、ぬいぐるみの模倣対象は以下の二軸で分類できる。
実在/非実在
具体/抽象
まず実在/非実在は、模倣対象の本質が現実世界に実体として存在するか否かを示す軸である。
犬は実体があるし、エビフライも実体があるので、これらは実在する模倣対象である。
一方ポケモンやたまごっちは創作物のキャラクターであり、実体が存在するわけではない。そのため非実在の模倣対象である。
ドラゴンなどの架空の生物も同様である。
ただしキャラクターだからと言って、必ずしも非実在とは限らない。
例えばふなっしーはキャラクターだが、彼(?)は現実世界に実体がないとは言い切れないと思う。
ふなっしーと聞いて多くの人が認識するのは、バラエティ番組などに出演している実体そのものであり、彼(?)を空想世界のキャラクターを模倣した着ぐるみだとは思わないだろう。
ゆるキャラ、VTuberなど、本質が実体なのかどうか判断に困るものもあるかもしれない。
この分類軸は二元的なものではないので、
「実在寄りの非実在」
のような模倣対象があってもよいと思っている。逆もまた然りだ。
そもそもこの話は「ぬいぐるみの愛し方について考えたい」というところから始まっているので、対象の本質がどこにあるかは各々の価値観に従ってほしい。
次に具体/抽象は、模倣対象が具体的な個体か、抽象的な概念かを示す軸である。
今回の主人公であるパンダのシャンシャンは、パンダの特定の一個体を示す。そのため具体的な個体である。
リロ&スティッチに登場するスティッチも、試作品626号という特定個体なので同様の扱いになる。
逆に「ピカチュウ」は種族名なので、個体を特定しない。
そのためポケモンセンターに並んでいるピカチュウぬいぐるみの模倣対象は、抽象的なピカチュウの概念である。
ただしサトシの帽子をかぶったピカチュウのぬいぐるみは、恐らくサトシの手持ちのピカチュウである。
そのためこれは、具体的な個体を模したぬいぐるみである可能性が高い。
(違ったらごめんなさい)
具体/抽象の軸も先ほど同様に二元的なものではないため、具体と中小の中間的な模倣対象があってもよいと思っている。
二つの分類軸を直角に組むと4 つの象限が現れ、模倣対象を以下のように分類することができる。
これ以降、模倣対象が実在し、かつ具体的であるぬいぐるみのことを「実在∧(かつ)具体 ぬいぐるみ」と呼ぶ
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愛の惑い
前置きが長くなってしまったが、ここから本題に入っていく。
シャンシャンぬいぐるみの愛し方がわからなかったのは、実在∧具体 ぬいぐるみであり、その中でも模倣対象が特にピンポイントだったからだ。
実在∧具体 ぬいぐるみ は模倣対象の輪郭が 4 象限で最もはっきりしており、ぬいぐるみを前にすると模倣対象が強く想起されてしまう。
更にシャンシャンは日齢まで決められているので、パンダの赤ちゃんの姿がありありと脳に浮かぶのだ。
それ自体は素晴らしいことだが、なんだか布と綿を媒介して遠くのパンダを撫でているような気分になってくる。
これでは目の前のぬいぐるみに対して不誠実ではないだろうか。
更に言うと、実在∧具体 ぬいぐるみは「再現」というテーマがあるので、ぬいぐるみの個性を評価しづらい。
抽象的な概念のぬいぐるみであれば、デザインのブレやパーツのずれも個体差ということになる。
またスティッチやふなっしーのぬいぐるみは具体的な個体の再現と言えるが、もともとのキャラクターデザインがイラストであるために、ぬいぐるみとの差分はある程度許容しやすい。
シャンシャンの場合は模倣対象がピンポイントなので、ぬいぐるみ特有の部分に愛情を感じると、シャンシャン本人(パンダ)に対して無礼であるような気がしてしまう。
もちろんシャンシャンがそんなこと気にするはずがないのは重々承知している。
しかしぬいぐるみを愛でるというのは極めて内向的な営みであるが故に、こういった心の動きに敏感になってしまうのだ。
このように「生後10日のシャンシャン」というあまりにもピンポイントな模倣対象によって、私はこのぬいぐるみへの向き合い方に困っていた。
◇
ぬいぐるみの愛し方
私がシャンシャンのぬいぐるみをまっすぐ愛せるようになったのは、数年ぶりに上野動物園でシャンシャンを見たときだった。
生後10日から大きく成長した姿を見て、シャンシャンとぬいぐるみはそれぞれに全く異なるものであると気が付いたのだ。
よく考えてみれば当たり前である。
エビフライのぬいぐるみを抱きながらエビフライに舌鼓を打っても、ぬいぐるみに対して罪悪感は湧かない。
犬のぬいぐるみに愛情を向けているからといって、世界中の犬に対して無礼を働いていることにはならない。
ぬいぐるみはこの世に生まれたその瞬間から、模倣対象とは完全に切り離された存在だからだ。
模倣対象というのは人間たちの脳内にのみ存在しているもので、ぬいぐるみはただの布と綿でできたフワフワだ。それ以上でもそれ以下でもない。
それでも冒頭で述べた通り、まるで命かのような姿で愛情を受け止めてくれるぬいぐるみが好きだ。
ぬいぐるみを購入する際には、棚の中から目が合った子や顔が好みだった子を連れて帰る。
シャンシャンの時だってそうだった。
そうやって選び抜くことで「この子はうちの子だ」という特別な愛着を持つのだ。
他の買い物ではこんなことはしない。
せいぜい傷の有無を確認するくらいだ。
また自分で買っていなくても、ぬいぐるみに愛着を感じる瞬間はたくさんある。
そしてぬいぐるみとは、愛着を起点として精神的なつながりを持つことができる。
ぬいぐるみを通して自分とのコミュニケーションを行い、その中で自分自身を変化させていく。
変化の内容は気分転換やリラックスなど様々だろうが、自分一人では起こらない変化でも、ぬいぐるみといれば起こすことができるのだ。
物言わぬ塊がこういったコミュニケーションの一端を担えるのは、特別な愛着があるからだろう。
このようにして、ぬいぐるみは人々にとって特別なものになっていくのだと思う。
これまでの話を受けて、
「ぬいぐるみそのものと丁寧に向き合い、自分自身を見つめる事が私の愛し方」
という結論に落ち着いた。
言うまでもないが、ぬいぐるみに対する考え方は人によって全く違う。
至る結論も私とは違うだろう。
結論が出ないかもしれないし、今後変わる可能性もある。
皆さんもぬいぐるみの愛し方について考えたことがあればぜひ教えてほしい。
私は今日も、愛しのぬいぐるみ達とともに眠りにつく。
それでは、また。
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参考
https://www.jstage.jst.go.jp/article/semioticstudies/1/1/1_2/_pdf/-char/ja
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/274961/1/gkyok00267.pdf
(要旨のみ参考にした)