伊豆諸島の海難法師
島の忌の日
伊豆諸島では、正月二十四日または二十五日を「忌の日」とする習慣が広く行われている。この習俗は島々によって多少異なり、名称や伝説、しきたりにも違いが見られる。
伊豆大島
大島では泉津(せんず)がこの習俗の本場とされている。ここでは「日忌様(ひいみさま)」と呼び、毎年一月二十四日を忌の日とする。この日、飼い牛は山間部の海が見えない場所に連れて行き、牛小屋は覆い隠される。家々では夕方になると堅く戸を閉ざし、節穴や隙間を布や紙で塞ぐ。さらに外には網を張り、鉈や鎌を置き、入口にはにんにく、ヒイラギ、トベラの枝を挿し、菰(こも)をかぶせる。
神棚には二十五個の餅を供え、家族は静かに過ごす。この夜、誰も外に出ず、物音を立てることすら禁じられる。言葉も交わさず、夜明けを待つ。もし外を覗いたり音を立てたりすると、不幸な出来事が起こると信じられている。
翌朝二十五日には戸を開け、普段通りの生活に戻るが、この日は村外の人を一切村内に入れない。仮によそ者が入った場合、家に招き入れることは許されず、袋をかぶせて頭を叩き、追い返される。その際、帰路も来た道を通らずに帰らなければならない。これを破れば「海難坊」または「カンナンボー」という災いが訪れるとされている。
この風習には以下のような伝説がある。
昔、泉津村に暴虐な代官がいたため、村民二十五人が計画し、夜陰に乗じてこれを殺害。丸木舟に乗って利島へ逃れたが、上陸を許されず、さらに神津島を目指したが上陸を許されなかったとされる。各々の島の人々が、25人の上陸を許さなかった理由としては、幕府から処罰を受けることを恐れたためと、殺された代官の亡霊が追って来たので祟りを恐れて明かりを消して戸を閉ざしたためとも伝えられている。
また別の伝説では、若者二十五人が暴風雨の夜に代官を討ち、丸木舟で海上へ逃げたが、風波に呑まれて全員溺死。その亡霊が毎年二十四日の夜、五色の旗を掲げた舟に乗って現れるという。この25人の若者の霊が「日忌様(ひいみさま)」で、25個の餅を作り追悼する儀式がこの風習とされる。
利島
利島でも大島と同様の理由で、一月二十四日を忌む習慣があり、これを「カンナンボウシ(海難法師)」と呼ぶ。家々ではトベラとノビルの枝を家の入口に飾って、外出や海を見るのを忌む。
新島
新島では「海難法師(カンナンボウシ)」と呼ばれるこの忌の日がある。一月二十四日の朝、村人はトベラの枝葉を山から取ってくる。そして夕方には雨戸を閉め、隙間にその枝葉を挿し込む。この日、夜の十二時以降は絶対に外出を禁じ、用便も家の中で済ませる。
新島には「海難法師」の神体を祀る家が二軒ある。これらの家では、油揚げを作り、二十四日の夜に親族が集まり、物音を立てず一晩を過ごす。翌朝、村人は米を重箱に入れてこれらの家に供え、返礼として油揚げ二枚が渡される。
伝説によれば、昔、大島の悪代官が新島を視察しようとした際、大島の泉津村から舟を出した。村の若者十数人は、代官が各島を巡ることで後々の苦難が増えることを憂い、船に水夫として乗り込み、海上で舟を浸水させて共に犠牲となった。この事件を悼み、新島では静粛に忌の日を過ごすようになったとされる。また、若者たちが神津島を目指して沖を流れゆく、叫び声を聞き流した祟りだとも言われている。
神津島
神津島ではこれを「二十五日様」と呼び、忌み祭として旧暦の正月二十四日の夕方から二十六日の朝にかけて厳かに執り行われる。
祭りの準備は正月二十日頃から始まる。この時期、村人は遠方への出稼ぎを控え、二十二日までに餅を搗き終える。二十三日には金属製品や音の出るものを片付ける。そして二十四日は「海山どめ」と呼ばれ、日中でも海や田畑に行くと凶事が起こるとして村民は仕事を休む。
この日、神前に餅を供え、特別な竹製の飾り「イボジリ」を用意する。竹に松の根の煙で燻した薬を結び、これを神棚や畑に立てる。また、門口にも長い竹を立て、目笊を置く。夕方には家々の門戸を閉ざし、隙間を塞ぎ、会話を禁じ、早々に就寝する。
神官の家では、祝部(ほうりべ)衆が集まり、イボジリを50本作成する。そして各神社にこれを納めた後、浜辺に行き「浜作り」を行う。渚の石を整え、竹と榊を三段に立て、注連縄を張る。これは夜七時に神々の船を迎えるための準備である。
次に「辻固め」という儀式が行われる。村内の道祖神や猿田彦を祀る24か所を巡り、洗米を供える。この間、一切言葉を発せず、灯火も使わない。もし発言した場合は最初からやり直しとなる。家々では物音を立てないよう注意が払われる。物音を立てた場合、不幸が訪れると信じられている。
二十五日は終日静かに過ごし、午後になると門口に吊り物を設置し、「ヤッコガシ」という揚げ餅を作る。これを神棚に供え、再び日没前に戸締まりを行う。
二十六日に忌明けとなるが、「向こう黙り」と称して、引き続き静かに過ごし、早く寝るのが習わしである。この日、子供たちはイボジリを集めて遊び、小竹を打ち飛ばして勝負を楽しむ。
二十五日様の神罰
この日を軽視した者が神罰を受けた話は多い。ある男が酒を飲んで騒ごうとしたところ、誤って揮発油の瓶を囲炉裏に置き、火事で焼死した。また、物忌みを怠った人々は皆、不幸に見舞われたという。
二十四日の夜、襖を開ける音が聞こえれば家内に死者が出るという。しかし、閉める音が聞こえれば無事であるともいわれる。また、雨音が聞こえた年は雨が多く、鰹漁が豊漁になるという信仰もある。
神津島には次のような伝説が伝わる。昔、高貴な家柄の子孫で乱暴者の某が新島に配流された。しかし新島でもその乱行が問題となり、神津島に移されることになった。渡海の船中でも暴れ続けたため、大釜を頭にかぶせて運ばれたという。だが船が神津島北端のカヤス岬付近に達した際、船が転覆して男は溺死した。その男を祀ったのが「二十五日様」であるともいわれる。
また別の説では、京都の公卿が蝦夷に送られる途中、この島の海上で遭難したことが由来であるともされる。いずれにしても、海難や溺死者を祀る風習が起源であるようだ。
神々が伊豆諸島を巡って神津島に上陸し、その後三宅島へ渡るという伝承もある。このため、二十四日の夜には神々に姿を見られることを避け、早く戸を閉じて眠る習わしが生まれた。神々の姿を見てしまうと命を失うと信じられている。猿田彦命は顔を見られるのを極度に嫌うとされるため、祭りは夜に執り行われているという。
三宅島の伝承
三宅島でも正月二十四日から二十五日にかけての行事や忌みの日が伝えられている。壬生家の年中行事には「正月二十五日には神々が島々を飛び回り、油揚げの餅などの供物を捧げる」と記されている。また、神着村では二十四日の夜を忌みの日とし、外出を避ける。雄山の八丁平では、神々が羽根突き毬を蹴って遊ぶと伝えられており、その日は雄山を見てはならないとされる。
坪田村では二十四日の夜に神々が東山に集まり、二十五日と二十六日には下山で鞠遊びをすると伝えられている。伊ケ谷村では、二十五日は沖を見ることを戒められている。
また、壬生家のある神着村では二十四日夜、首山の「首(コウロベ)様」が来ると恐れられている。首様は壬生家の妻女を狙う、角を生やした馬であったと伝えられる。この馬が妻女を殺害し、神として祀られることになったという。
首様の伝説では昔々、ある家に飼われていた馬が、その家の娘に恋をする。主人は、「七日七夜の間に角を生やしてくることができたら、娘をお前にやろう」と言い渡す。すると、七日目に馬は立派な角を生やして帰ってきた。
主人は約束通り、馬に娘を渡したが、馬はその角で娘を突き殺した。主人は馬を殺し、その頭をコウロベ山に埋めたと言う。
御蔵島の忌みの日
御蔵島では正月二十日から二十五日までを忌みの日とし、その神を「忌みの日の明神様」と呼ぶ。明神は鉄下駄を履き、赤い衣をまとい鉄の棒を持つ姿とされ、産鉄との関係もうかがえる。
明神様は二十日に島の南西にある赤井川に上陸し、毎日少しずつ村に近づくとされる。その行程は以下の通りである。
・二十日:大井川ギリ
・二十一日:大船戸ギリ
・二十二日:オバンノラギリ
・二十三日:トリノラギリ
・二十四日:ウタツッガワギリ
・十五日:村を巡り、朝に帰る
二十四日の夜から二十五日の朝にかけて外出すると明神様にさらわれると信じられている。二十五日の朝には、明神様が赤い帆を上げて海を渡り去る。そのため、それまでは海を見てはならないとされる。ツバキ油で揚げた餅を供える作法は他の島々と同じである。
参考文献
・島民俗誌 伊豆諸島篇 本山桂川 著 昭和9
・島しょ医療研究会誌 第 14 巻 (2022)