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春日大社の神鹿殺しー石子詰の死刑は俗説と思われる(奈良)
「昔は奈良・春日大社の神鹿(しんろく)を殺すと、興福寺の一画で石子詰(いしこづめ)という生き埋めの刑に処された」という伝説が広く伝わっています。奈良の観光ガイドさんが修学旅行生によくする話なので、聞いたことがある人も多いかと思います。
この石子詰の話はおそらくは事実ではないだろうと思われます。
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三作の鹿殺し(十三鐘と石子詰)の話
昔、十三歳になる三作という稚児が手習いをしていたところ、春日の鹿がやってきて手本の紙を食べてしまった。三作が怒って卦算(けさん:文鎮のような長い木)を投げつけたところ、運悪く鹿の鼻に当たり、鹿は死んでしまった。この神鹿を殺した罪は重く、三作は石子詰めの刑に処されることとなった。興福寺の菩提院大御堂の東側に一丈三尺(3m程度)の穴が掘られ、死んだ鹿と抱き合わせにされて生き埋めにされた。
この刑が執行されたのは、夕方の七つ時から六つ時の間であったため、菩提院大御堂は「十三鐘」という名がついたとされる。
三作の母は息子を探しに来て、嘆きながら墓に花を供え、紅葉の木を塚に植えた。このことから「鹿と紅葉の取り合わせ」が始まったと言われている。紫野の人々はこの話を実しやかに語り継いでいる。
お堂の前には、三作の石子詰めの跡とされる土塚のようなものが残っており、母が植えたとされる紅葉の枯れた株が横たわっている。
(大和伊勢南紀旅の栞 大軌参急旅行会著・昭和11 )
鹿殺しによる石子詰の刑ー多くの資料では懐疑的
■菩提院
大御堂という。本尊無量寿仏・稚児観音を安置す。この寺に十三鐘というありしが、現はこの鐘を南円堂の傍らに移す。
むかしこの所に十三の童子を石子詰にせしというは妄説なり信ずべからず
■本尊無量寿仏
俗伝十三の児童鹿を殺しこの境内にて石子詰にせしと云は妄説なり信ずべからず
■(若提院)は俗に十三鐘といふ。大湯屋の西南にあるり。堂は天平年間の建築にして
(中略)
俗に小兒鹿を殺して石子詰にあひしといふ古跡はこの處なれどもその事は妄誕(言説に根拠のないこと)なり。
ここを十三鑑といふそ興福寺の僧侶の春日神社へ動行にゆきときを報せん爲、朝の七ッ時と六ッ時との間に此所の鍾をつきしによれり。その鐘今は南円堂の傍らに移されたり。
■石子詰処刑
当院と云ふなれども事実にはあらず
【十三鐘(興福寺の菩提院大御堂)の由来】
興福寺の菩提院大御堂が通称:十三鐘と呼ばれるのは、朝の七つ時(午前4時)と夕方の六つ時(午後6時)に鐘を鳴らして勤行の合図としていたためである。「13歳の児童が、夕方の七つ時から六つ時の間(に石子詰刑に処されたため」という話は俗説である。
大湯屋の南、三条通を隔てた北側に、土塀の低地にあるお堂(興福寺・菩提院大御堂)がある。このお堂は、俗に「十三鐘」と呼ばれ、三作の石子詰伝説で名高い大御堂(菩提院)である。
寺は玄昉僧正が創立したもので、現在の堂は室町時代の建築である。本尊である阿弥陀如来坐像(国宝)は木彫りで平安時代の作であり、側には稚児観音が安置されている。
かつてこの寺では、朝の七つ時(午前4時)と夕方の六つ時(午後6時)に鐘を鳴らして勤行の合図としていた。この習わしが「十三鐘」の名の由来であり、寺の呼び名ともなった。鐘は現在、南円堂に移されており、余韻ある美しい音色を伝えている。
石子詰刑の真相は興福寺の犯僧拷問か?
江戸時代、徳川幕府は「治めざるをもって治める」という方針を政策の根本とし、特定の団体には自治権を認めた。その結果、殺人・盗賊・放火の三罪以外については、それぞれの団体が独自に処断することが可能であった。
拷問については、仏教各宗派内や山伏や修験者の間で行われたものがある。
「紀伊続風土記」によれば、高野山の地獄谷は悪僧を拷問し、処分するための場所であったという。「因幡志」には、山伏たちが集まり、自身の罪を認めた山伏を宗法に基づいて石子詰めにしたことが記されている。これらの例を挙げると、他にも多くの類似した事例が存在することが分かる。
奈良の春日神社において、鹿を殺した者が石子詰めの刑に処されたという話があるが、これは興福寺で行われた犯僧への拷問が誤って伝わったものであろう。
石子詰刑の詳細
石子詰めの刑罰が、作り話や空談ではなかったことは確かであり、いくつもの根拠が存在するものであろう。ただし、その方法や実際に適用された範囲などについては、古書の記述が一様でなく、かなり不明瞭な点が多いように思われる。
たとえば、「越後温故之葉」には、身分を超えて関係を持った男女が石子詰めの刑に処されるという掟が記されている。一方、「越後風俗志」第二輯によると、石子詰めの刑とは、往来の多い道のそばに穴を掘り、犯人をその穴の中に立たせて杭に縛り付け、肩から上を外に出した状態で、体の残りを石で埋めるものであったとある。
さらに、朝夕の食事については番人がこれを賄い、おおよそ三昼夜ほどで犯人を解放したとされている。この処罰によって生涯身体が不自由になるとあるが、一般に伝わるような極刑ではなかったとも見受けられる。
極刑としての石子詰刑
高野山で伝わっている石子詰めの刑は、正真正銘、生命を絶つものであったとされている。
「紀伊続風土記」高野山之部(第五十八)によれば、当山における重い罪への処罰は、奥院の蛇柳の下にて永遠に追放するのが例であり、俗にこれを「生埋め」または「生往生」「石子詰め」と呼んだとされている。処罰の方法としては、まず蛇柳の下を数尺掘り、罪人を縛り付けてその穴に立たせ、薦(こも)一枚を頭上にかぶせた上で泥土で埋めたという。この刑罰は深夜に執行されるのが常であり、その夜には蛇柳の下に一灯を掲げて罪人の冥福を祈ったとされている。この刑に処された僧侶の名前も一部記録に残っている。
また、「因幡志」によれば、鳥取市の柳会という地は、天正年間に起きた事件に由来するとされる。当時、宮部善祥坊が領主を務めていた時期に、城下のある山伏が同職の山伏の妻と密通し、さらに本夫である山伏を毒殺した。その犯行が露見すると、彼らの師である鹿奴三光院の願いにより、犯人二人は山伏の作法に則り「石子詰め」の刑に処されたと記されている。
この刑罰では、国中の山伏を召集し、郊外に穴を二つ掘り、犯人二人を縛り付けてその中に入れた。山伏たちは手に手に適当な石を持ち寄り、それを投げ入れて顔や手足を打ち砕いたという。見物人たちはあまりの光景に思わず目を覆ったと伝えられている。その後、二人の遺体の上に土をかぶせ、柳の枝を挿して印とした。この二本の柳は後に根付き、年を経て大木となり、現在の柳倉という地名はこの柳に由来するとされている。
さらに、福岡の高信喜代松氏によれば、筑前国糟屋郡の焼山峠には、大者が修行不足のために石子詰めの刑に処されたという遺跡が現存しているという。これらの話のうち、どこまでが史実に基づいているのかは定かでない。また、公的な刑罰が後に山伏団体による私刑となったのか否かについても、断定は難しいとされている(「郷土研究」第四巻第六号所載)。
参考文献
日本民俗学 〔第1-4〕 風俗篇および随筆篇 中山太郎 著 昭和6