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ケリーの記憶

仕事をはじめて何年かした頃、
南麻布の仕事先で
その女性に会った。

若い時分に会う少し年上のおねえさんは、
わたしの
その後の人生にうつろう記憶となった。

フランスで料理の勉強をしてきたという彼女は
人とは違うオーラをもち、
そしていつもどこか疲れていた。

美しい顔立ちに、
ヨレたファンデーションと
濃いめの口紅が、
大人の女の色気を、たたえていた。

彼女は一瞥もわたしを見ることなく、
ただ淡々と作業を進め
ただ淡々とまわりの「大人たち」を相手に
仕事をしていた。

社会人、数年目で
ようやく自信のような手応えを感じていたわたしにとって、
それは切ない仕打ちでもあった。



深夜まで続いた仕事明けの朝、
少しくぐもった声で
勧めてくれた彼女の作ったスイーツ。
スプーンを渡しながら
微笑んだ顔が
朝の光の中で艶めく。

今まで味わったことのない
摩訶不思議で
どこか懐かしいような甘み。

かたわらには
彼女と同じくらいくたびれて、
欲張って生きてきた
黒のケリーバッグがあった。

まだ日本にエルメスが
溢れていなかった時代に、
はじめて見たケリーの記憶が
甘いジェラートの記憶とともに、
彼女の薄ぼんやりとした姿とともにある。

時々、今彼女はどんなふうになったのか、
思うことがある。
だが思うだけにとどめて、記憶の片鱗だけを集めて小箱に納めようと思っている。

ケリーも、
ジェラートも、
うつろう大人になる前の
甘く切ない郷愁にすぎないと。

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