強さと器について考える

強さと言っても色々な強さがあります。
格闘が強い、心が強い、芯が強い、情報に強い、勉強に強い、それぞれに深めていくと、例えば格闘の強さでも喧嘩に強いのか、格闘技が強いのか、武術が強いのか、考えていくとさらに細かく本当にたくさんの強さがあることに気付きます。

全て強くなる必要は無いと思っていますし、私自身も全てにおいて強さを得たいと思っていません。
私は生きていく上で、何事にも動じない強さが欲しいと思っています。
それだったら全ての強さを求めているんじゃん、と思われてしまいますが、
「仕事」において何事にも動じない強さが欲しいと思っています。

例えば、トラブルや危機があった時に後ろに引っ込むのではなく、真正面から受け止めて対処・善処が出来るの逃げない強さはもちろん、来客があった際に気遣いが出来るとか、コミュニケーションが取れるとか、これも一種の強さだと思うのです。
それらを手に入れるために必要なものは、学びと知識を持つことは大前提であるけれども、それだけでは得られるものではないと思っています。後者は人に関心を持つこと、ストーリを汲み取れる感受性、平等で差別のない意識であったりが自分の中で成長していかないと得られるものではないと思うのです。

強さはその人の「器」として語られることが多いような気がします。
大きいか小さいかは人からの見え方なので、自分にはコントロール出来ません。しかし、自身が成長していかないとその器が大きいか小さいかも人に映し出すことが出来ないとも思っています。
かと言って、人に自分がどう映るかばかりに意識が行くと、その場では取り繕うばかりで行動が伴わない薄っぺらいものになってしまいます。

仕事で強さを得られる、器を映し出す場面はどこなのか。
それは人への依頼、説得、調整といった場面をいかに積めるかではないでしょうか。ビジョンがあってもこの場面を自分がやるべき時に避けてしまう、人に投げるばかりでは強さは得られないばかりか、最悪の場合、人からの信用を失います。役職がある場合は尚更です。時にはかなりの心労を伴う事があるので、見ないふりをしてやり過ごしたいと思うこともあるのではないでしょうか。

私は最初の頃は、自分の知識の無さや自信の無さからよくこの場面を避けていました。業者の人からはこいつと話しても埒が明かないなあといった雰囲気やイライラを電話越しにすら気付くくらいだったので、今思うと酷いものでした。
この状態でも、人によってはそういう人だからと結論付けられ、定年まで乗り切ってしまうことも珍しくないのではないでしょうか。

しかし、私はそのままでは居たくないと思った。と言うより、居たくないと気付かされた。いや、思わされた、と言った方が近いかもしれません。

幸運な事に私は、自分の態度へ喝を入れてくれる人、学びを与えてくれる人に恵まれていました。最初は鬱陶しさを感じましたし、もっと楽に仕事して平々凡々と適当に生きていきたいのだから放っておけと思っていました。

しかし、言われ続けると不思議なもので、嫌でもその人達の働く姿が目に入ってきて、ある時その人たちの仕事に取り組む姿勢に感銘を受け、改心したのです。年齢や立場に関係無く、いつも学び全力で行動する姿にこれではいかん、この人たちの頑張った仕事を自分のせいで無にしてはいけないと思ったのです。自分の幼さと人としての弱さで足を引っ張っていたんだなと。私もこの人達と苦楽を分かち合いたい、何かを成し遂げる手伝いがしたいと思わされました。

人や物事への関心、感受性の高まり、敬意が生まれる事で人によって対応を差別しなくなりました。
強さを手に入れたいと思う前に、そのきっかけを与えてくれるのは人でした。器を与えてくれるのも人でした。
感謝と共に、与えられたものを今度は自分で成長させ、育てていかなくてはいけないなと気を引き締めています。







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