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「楽園の庭」第六話

親方の家のリビングのソファで、オレと笛子は、奥さんが出してくれた紅茶を前に緊張気味に座っていた。和室では親方とオイさんが話している。内容は無論、オレたちには判らない。手持ち無沙汰なオレたちに、奥さんがしみじみ話しかけた。

「ホントによく帰って来てくれたわ。笛子ちゃんに辞められたら、わたし、ショックで眠れなくなりそうだった」

 奥さんは今日、これで三回、同じことを言っている。

深夜バスで笛子と二人、高山を出て早朝の新宿に戻った。それからそれぞれの部屋でわずかな仮眠を取ってから朝礼に出た。

そこで、オレは、親方に話しがあります、と切り出した。すると、オイさんが「オレの話を先に聞いて貰えませんか」と申し出たのだった。

 襖の向こうから、急に朗らかな笑い声が聞こえてきた。不仲と聞いてた親方とオイさんだ。ひょっとしたら揉めるんじゃないかと、オレは身構えていたのに。変だ。

じきに襖が開いた。

「とにかくこの腰がよくなりゃ、全てうまく行くんだ。先週はお前、川崎大師で護摩焚いてもらったんだぞ」

と、親方が機嫌よく話している。オイさんも「すぐに治りますよ」などとごく普通に相槌を打っていた。この二人の関係、本当のところはどうなんだ?

「これから現場行くってのも、もう面倒だろ。袴田、うちで飲んでけ」

 親方は陽気に誘った。

「馬鹿言わないで。まだ、十時前よ」

 奥さんがすかさず、駄目出しした。

翠堂さんの話は、一体どうなったのか、オイさんの顔を見たが、こちらもいつも通り、ひょうひょうとしてる。

「で、お前らの話ってのは何だ?」

 親方がついでのようにオレに聞いた。オレは背筋を伸ばして返事をした。

「笛子の今後についてです」

 親方はソファにドカンと座って、テレビのリモコンでザッピングした。オレはさりげなく、笛子を促した。

「道具の手入れを怠ったのは、完全にわたしの落ち度です。でも、やっぱり、営業じゃなくて、現場に出たいんです」

 オレがそこから先を引き取った。

「笛子は二月に入社してから、この九か月間、本当に頑張ってきました。ハサミの使い方もだいぶ、様になってきてます。そこで親方、相談なんですが」

「何だ」

「笛子の試験をしてやって貰えませんか?」

「試験?」

「親方、よく言ってるじゃないですか。先代の仕事をそばで見ていて覚えたって。オレは十六ん時には、生垣を刈ってたぞって」

「ああ、一人前の現場仕事をこなしてたぞ」

「笛子にも生垣、刈らせてみてやって下さい。その仕上がりを見て、十六ん時の親方に全然届いてなかったら、文句を言わず営業をやる。もし、万一、それなりの出来だったら、現場仕事に戻す」

「………」

「どうでしょう」

「待って。祐二。どうせ生け垣にするんなら、わたし、誰かと勝負がしたい」

「勝負?」

「相手は祐二でも浅尾でもいい。負けてもともとで、力一杯、胸借りるつもりでやってみたい。その方が燃える」

「勝負か。笛子、てめぇ、いいこと言うな」

 親方が急に口を挟んできた。 

「けど、生垣なんかじゃつまらねぇ」

 親方は妙にテンションが上がってた。

「もっと楽しもうぜ」

 細い眼がキラキラ不穏に光っている。

「どうせやるなら、ドーンとでっかく、ケヤキ並木の剪定で勝負だ」

 オレは焦った。

「親方、けど、笛子はまだ、並木の剪定の経験はないです」

「練習させりゃあいいだろう」

おかしな方向に話が進んでる。ちょっとまずいぞ。

「基本はタイムレースだ。もちろん、仕上がりの出来も採点する」

 オレと笛子とオイさんと奥さんが、顔を見合わせた。

「親方、わたし、誰と勝負するんですか」

「オレだよ」

 親方が平然と言ってのけた。

「ケヤキ三本、先に剪定を終えた方が勝ちだ」

「何言ってるのっ」

 まず、素っ頓狂に答えたのが奥さんだった。

「腰、治ってないのに、そんなケヤキの剪定なんて」

 オレも思わず続けた。

「親方相手じゃ敵いませんよ。笛子は」

「もちろん、ハンデはやるさ」

「けど」

「駄目よ。あなた。無茶なことして怪我でもしたらどうするの」

「黙れ。これはうちを束ねるオレが決めたことだ。口出しは許さねぇ」

 笛子はただ、ただ、呆れていた。よりにもよって、親方となんて、と。

「笛子、お前はオンナが差別されるのに腹が立つんだろ。けどな。オレだってもう差別される側なんだよ。老いぼれはひっんでろ、とか、そろそろ後継者を考えておけ、とか。ふざけるんじゃねぇ。年食ってたって、まだまだ十分、こっちは現役よ。それをお前らに見せてやる」

「やめて。やめてっ」

 奥さんが悲鳴のように叫んだが親方は知らん顔でカレンダーを覗き見た。

「さて、日にちは何日にする? 」

 唇の端を持ち上げて、親方はニヤリと笑った。



 その翌日から、朝四時起きになった。親方との勝負の場に決まったのは、今年の二月に笛子と一緒に、オイさんや浅尾が作業したケヤキ並木だ。オレと浅尾は、現場へ行く前の一時間、その並木に笛子を連れて来て、剪定の特訓をしている。

二月にここに来た頃は、笛子は、オレたちが落とした枝をハサミで切るのですら、バツン…バツン……バツン、と時間がかかっていた。それに、二連式のアルミ製のハシゴに上がっての枝の剪定は、落下防止のために「安全帯」をつけなくてはならず、新米には相当難しい作業だ。それをオレと浅尾で、笛子に教えこもうと言うのだ。

十一月の午前四時はまだ暗い。「竹井造園」から借りて来たトラックの中で、コンビニのお握りを食べ、陽が昇ったら、ハシゴを立てかけて特訓開始だ。

最初笛子は、このハシゴに上がるのだけで震えていた。確かに高さは相当ある。

「祐二さん、これも結局、親方のいじめの一種なんじゃありませんか」

 浅尾はぶつぶつ文句を言っている。その気持も分る。あまりにも突拍子もない提案だから。けど、現場に戻りたいなら、やるしかないんだ。

「いいから上れ。初めは怖くてもそのうち慣れる」

 けしかけると、笛子はあの勝ち気な顔になって、剪定バサミを手に上って行った。その位置で「安全帯」つまり、問題は落下防止のために体を支えるロープをつけて作業を行う。樹上でバランスを取りながらハサミを使うのには、それ相当の技術が必要だ。親方が提案したのはタイムレースだから、ちんたらやってはいられない。

 脚立の上で、ぎこちなくハサミを動かす笛子にオレは下から檄を飛ばす。

「こらあ、もっとスピードあげろっ。一本仕上げるのにどんだけ時間かかってんだっ」

 見かねた浅尾が、同じ木にもう一脚、アルミ製のハシゴを立てて、それに上って、笛子の横で手の動かし方をアドバイスした。

「あああ、ダメだ。笛子さん、もう刃がこぼれちゃってますよ」

 オレはオレの剪定バサミを、一旦、ハシゴを降りて来た浅尾に渡した。

「笛子、又、刃こぼれしたてっていいからな。ガシガシ落としてけ」

 しかし、この特訓の時間も限られている。朝礼の時間までには、「竹井造園」へ出社しないといけない。

 浅尾がハンドルを握るトラックで、冬の朝日を浴びて走っていると、笛子が吐息を洩らした。

「わたし、こんなんで勝てるかな」

「………」

「………」

 少しためらってから、浅尾が口を開いた。

「笛子さん、こんなの何の力にもならないかもしれないけど………オレ、オトコ、出来ました」

 驚いた。

「オイ、浅尾、本当かよ」

「はい。笛子さんがいなくなった夜、祐二さんと言い合いみたいになったじゃないですか。オレ、このまんまじゃ本当にどうしようもないなと思って、新宿へ行ったんです。あの後」

「それでどうしたの? 」

 笛子が乗り出している。

「ふらふら歩いてたら、クラブみたいな店から出て来た人がいて、何か、目が合って。一杯飲むかって言われて………飲んでみたら、話があって、結構、意気投合して」

「関係したの?したの?したの?」

「馬鹿、笛子、焦るな。ゆっくり浅尾に喋らせろ」

「その夜は飲んだだけで………その後に」

「わあ、わあ。わあお。やるじゃん!」

 笛子は顔一杯に笑って、ペタペタ、浅尾の体を叩いた。

「アパレル関係の仕事してて、中年ですけど、いい人です。はい」

「そっかぁ。浅尾の片思いは終りかぁ」

「はい。だから、笛子さんも頑張って下さい」

 笛子が頷き、瞳の奥にキラキラとした光が宿った。やる気になったな。ますます。

笛子、お前は捨て犬じゃない。怯えた野犬でもない。闘犬だ。


 その頃、事務所では、笛子と親方の対決を小耳に挟んだ三治さんが、早速、動いていた。どっちが勝つか、職人みんなで賭けようと言うのだ。博打好きの三治さんらしい発想だ。   作業終りに事務所のホワイトボードの前で聞いてみたら、掛け率は何と、五分五分だとか。みんな、そんなに笛子の腕を買っているのか。それとも大穴狙いのつもりで賭けてるのか。

 奥さんはため息ばかりついて、久美子さんに「うちの人、本当にモノ好きだから」と嘆いている。そんな風に、色んな人の色んな思惑がある中で、勝負の日は近づいた。


 その日が来た。

 朝はぐんと冷え込んでいた。あつい雲が垂れ込んでいて、あまり幸先よいスタートとは言えなかった。

が、驚いたことに、ケヤキ並木には、竹井造園の職人全員が、それぞれ、軽トラや自家用車やバイクで乗りつけていた。賭けの結果にそんなに興味があるのか?

遅れて来たオイさんが、「みんな、考えることは同じだな」と苦笑した。

「みんな、親方の体調のホントのところを知りたいんだよ」

 ストレッチをしてた笛子も、動きを止めて聞いていた。

「ここんとこ、親方はずっと休んでたからな」

 そうなのか。オレは笛子のことで頭が一杯だったが、職人らは親方の今後について、少なからず、不安を抱いていたのだ。一体、何時まで仕事を続けられるのか、このまま、現場仕事をやめるのか。それとも。

 時間が迫ってきた。

 オレたちは既にスタンバイしていた。ハシゴや安全帯を軽トラの荷台から下ろし、カラーコーンを置き、ブルーシートも敷き終えていた。

 陽が昇りかけた時に、吉野さんの運転する乗用車で親方が到着した。作業着姿の親方を見るのは久し振りだった。

 吉野さんが小声で親方に囁くのが聞こえた。

「腰の調子が悪くなったら、すぐ、降りて下さい。無理は禁物です」

「うるせぇ。体調管理くらい、てめぇの裁量でやらせろ」

 ケヤキ並木を前にした親方は、オレたちが選んだケヤキ六本を下からじっくり眺めた。それからおもむろに、

「笛子、剪定出来る自信のあるケヤキを三本選べ」

 と言った。大きさと枝数にもよるが、ここに並んだケヤキを独りで剪定するとなると、一本、一時間はかかるだろう。

「ハンデはな。一本につき、十五分だ」

 三本で四十五分のハンデだ。

「親方、甘くないですか」

 笛子がふんと顎を突き出した。やぶ睨みで、完全に戦闘モードになっている。見ている職人たちは薄笑いだ。

「おう、お前、オレに勝つ気か。いいだろう。だったら、一本につき二十分のハンデだ」

 三本で一時間のハンデだ。笛子は露骨に嫌な顔をした。

「親方、格好つけて、大口叩いていると、あとで恥かきますよ」

「でかいだけしか能のねぇオンナに誰が負ける」

「もうじき、老人ホーム行きの人に言われたくないですね」

笛子は力んで親方に食いつかんばかりだ。

親方は軽く聞き流して、すぐに屈伸運動に入った。笛子に対する競争心なんて、全然感じられない。すぐにオレは、自分が考え違いしていたのを悟った。新米でオンナの職人の笛子と剪定のスピード競争をするなんて、親方も随分子供っぽいじゃないか、と正直思ってた。けど、さっきのオイさんの言葉じゃないが、親方が本当に意識しているのは、笛子やオレなんかじゃなくて、ここに集まった職人たちなんだ。

ボスに力がなくなれば、権力闘争が起きるのは猿山だけじゃない。うちだって親方の体力、胆力が衰えかけているのなら、職人を束ねる求心力も落ちる。下手をしたら、他の造園会社への転職を考える者も出て来るだろう。親方がわざわざこんなイベントを計画したのは、自分に力があることを皆に見せつけるためなんだ。改めて「竹井造園」をひとつにまとめるためだ。だとしたら、親方こそ、負ける訳にはいかない。

「祐二、始めるぞ」

 親方が低く発した。親方と笛子がそれぞれのハシゴの前に立った。安全帯を手に態勢を整える。ギャラリーの職人らにも自然と緊張感が走った。

吉野さんが頷いた。

「用意、スタート!」

 オレの掛け声で二人は同時にハシゴに足をかけた。

そこからはもう、ワンマンショーだった。親方はまさに野生の小動物のように機敏にハシゴを駆けのぼり、迷うことなく、無駄な枝を落とし始めた。ハサミの動きは滑らかで、不要な枝はあっというまに剪定されて行く。安全帯で支えた体の動きは、すばしこく、かつ、力強い。笛子が枝三本落す間に、親方は一本目のケヤキの枝をあらかた落としていた。すかさず、二連式のハシゴをするすると降りると、軽々とハシゴを肩に担いで、二本目のケヤキに向かう。ハシゴをかける位置を確認したら、駆けのぼる。余裕でハサミを使い始めた。ストップウォッチを見たら、親方は一本を三十分弱でやっつけていた。早い。それに落とす枝も、きちんと歩道の上に落としてあって、下で後片付けをする者への気配りも怠りない。笛子はまだ一本目のケヤキで苦労していた。顔を歪ませ、必死だ。だが、肩に余計な力が入っていて、ハサミの動きがぎこちない。親方はハシゴの上で、そんな笛子をせせら笑うように、作業ズボンのポケットから取り出した煙草を吸い始めた。職人らが笑い声を上げた。そんな親方の姿が目の端に見えたのだろう。「ゔー、ゔー、ゔ―」と笛子が唸り始めた。多分、悔しくて情けなくて歯がゆくて、どうにもしょうもないのだ。その笛子が一本目のケヤキの最後の枝を落とした。ハシゴを駆け下り、二本目に飛びつく。職人たちから「行け。笛子っ」と、声が飛んだ。親方はおもむろに煙草を片づけると、アッという間に二本目の剪定を終え、三本目のケヤキのハシゴを昇った。「うぐー、うぐー、うぐーっ」笛子は倍の呻き声で、枝を切る。だが、動きは相変わらずのろい。それでも一息もつくことなく、渾身の力で枝に向かっていっている。親方は呆れるほどの早業で、三本目をやっつけてハシゴから降りた。あっけない勝負だった。一本、二十分のハンデなど、親方にとっては屁でもなかったことが証明された。親方はやはり、凄い。

一同の関心は、ケヤキの枝の上の笛子一人だ。

顔中からポタポタ汗が落ち、肩は息するたびに大きく上下する。親方がハシゴから降りたことなど、どうでもいい、と言わんばかりに安全帯で体を支え、ケヤキにしがみついている。何とか二本目が終った。下に降りた笛子は、足がもつれ、ふらふらだ。

「大丈夫かい、笛子ちゃんっ」

おおかた、三治さんあたりが飛ばしたヤジが笛子の耳に届いたのだろう。

「うるさい!」

 一言、怒鳴って、笛子は三本目に飛びついた。足が錘をつけたように重たくなっているのが判る。這うように脚立を上がり、てっぺんでノコを構えるが、もう体力が残ってないのはみえみえだ。腕を上げるだけで、苦しいのだ。それでも「うぐーっ、うぐーっ、うぐーっ」と唸って、ハサミを動かす。職人らは完全にその不器用極まりない姿に見入っていた。「がんばれ、笛子っ」誰かが叫んだ。続いて「その調子だ。いいぞっ」と励ましの声が飛んだ。それに導かれるように浅尾が怒鳴った。

「笛子さん、もう少しです。負けるなっ」

「いけ、いけぇ」

「もうちょいだぞ」

「落ちるなよっ」

 そんなギャラリーの姿を親方はじっと見ていた。

 最後の枝を落とした。笛子が全力を使い果たし、精も根も尽き果てた様子で、ハシゴを下りて来た。バラバラと拍手が起きた。その場にへたりこんだ笛子に浅尾がタオルと飲み物を差し出した。笛子は俯き、懸命に涙を堪えていた。職人らの間にため息が広がった。親方は何事もなかったように、道具を片づけ、吉野さんに預けた。そして、一言二言囁くと、乗って来た乗用車の運転席に乗り込み、自ら運転して、その場から立ち去った。

 笛子は負けた。明日から、いや、今日からスーツを着て営業だ。

「よくやったよ。笛子」

「ホントです。笛子さん」

 浅尾もそう言ったが、笛子は答えなかった。肩が小さく震えていた。

「オイ、みんな」

 吉野さんが、事務所へ向かおうとしていた職人たちに声をかけた。

「それから、笛子」

 笛子も鼻水をぬぐいながら、顔を上げた。

「親方からの伝言だ。笛子は頑張った。みんなが賛成するなら、今日から現場に戻してやろうと思うがどうだろうとな」

「!?」

 笛子もオレも浅尾も耳を疑った。親方は認めてくれたのか。笛子は現場へ戻れるのか。職人らの顔も途端に晴れやかに輝いた。

「いいぞ。現場仕事をやれ」

「オレたちとハサミ使え」

「もちっとうまくバランス取れ」

「ついでに色気ももちっと出せ」

 みんながドッと笑った。

「いいぞ。いいぞ。ねぇちゃん、やったな」

 三治さんが駆け寄り、笛子の頭を撫でた。

 今度は皆揃って、大きく拍手した。笛子が両手で顔を押さえた。「ゔ―、ゔ―、ゔ―」と手放しで泣き出した。泣いても泣いても涙が止まらず、しまいには呼吸困難になりそうだった。

 浅尾もちょっと涙ぐんでた。オレもこんな種類の気持ちは生まれてから一度も経験したことがなかった。腹の底に熱めの湯たんぽを当ててるみたいで、顔がくしゃくしゃになってしまった。

「さあ、今日の作業が待ってるぞ」

 吉野さんの一言で、みんな、軽トラや乗用車にバイクに乗り込んで、出発した。

 

それから数日後、仕事が早めに終った日、オレは笛子を誘った。

「どこへ行くの」

「黙ってついて来い」

 飛騨で、黙ったまんま、オレを祖母の花畑に連れていった笛子に対する復讐だ。オレは勿体つけて、行く先を告げなかった。

T駅に近い住宅街を走って、完成したばかりの新築一戸建ての前にトラックを停めた。トラックから降りた笛子は、ジロジロ怪訝な目でその家を見ていた。

「あっ、ここ、祐二が坪庭作るって言った家だよねっ」

 ようやく気付いたようだった。

「ああ、これから作業する。お前も手伝え」

 そうなのだ。オレは笛子に、オレの初仕事を見て欲しくて、ここまで連れて来たんだ。

 オレは軽トラの荷台から、二メーター少しの高さの黒竹、五株をおろした。それを建屋の中央の坪庭の部分に運ぶ。坪庭に接しているのは風呂場の小窓だ。黒竹なら目隠しにも丁度いいだろう。

「他には何も植えないの?」

「春になったら、根本に芝を貼る」

「これからこの庭を祐二が育てていくんだね。いいね。そう言う場所を持てるって」

「ごちゃごちゃ言ってないで、手を動かせ」

 なんて、文句を言ってるが、オレは正直、感激してた。目尻は相当下がっていたに違いない。土を掘り、慎重に黒竹を植えた。黒竹は名前の通り、育つと稈の部分が黒い色になる竹だ。今はまだ、緑色だが、これが黒色に変わったらこの庭は独特の風情を醸し出すはずだ。二人して植え終った坪庭を、少し下がって眺めてみた。

「渋いね」

「まあな」

 オレはつい、子どものように無防備に笑ってしまっていた。

「おかしいな。他人事なのに、何でこんなに嬉しいんだろ」

 笛子がそんな事を言った。オレは、まだ、言いたいことがあった。ひどいことを言ってしまったことは謝った。けど、オイさんに嫉妬したとは言ってない。オレの気持ちはまだ笛子に伝わってないのだ。

今なら言える。

あんたなんか、好きでもなんでもない、そう返答されたら、その時はその時だ。

勇気を奮って、オレが口を開きかけた途端、笛子が急に口を開いた。

「偉いよね。祐二も浅尾も」

何だ? 今、大事なとこなんだぞ。

「浅尾は彼氏をちゃんと見つけたし、祐二は庭を造った。ちゃんと前へ進んでるよね」

「ああ、まあな」

オレは適当に相槌を打った。いいからオレに喋らせろ。

「ねぇ、祐二、わたしも行きたいとこがある。着いて来てくれない?」

 は? 何だ、それ。

笛子はスタスタ軽トラの方に歩き出した。

 クソ、又、言いそびれた。


 世田谷の高級住宅街と言われる一角で、オレは笛子が戻ってくるのを待っていた。ここに来るには、相当の覚悟が必要だったと思う。

「穏便に話してくる」

と笛子が言ったが、オレは多少、相手を攻撃してもいいと言ってやった。ああ、笛子は、あの市川華怜に会いに来たんだ。ここからその華怜の住む瀟洒な一軒家が見えている。笛子は家庭訪問で来たことがあるのだそうだ。あそこで今、笛子は市川華怜と向き合ってるはずだ。

 煙草を吸いたかったが、不審者に思われたくなかったので、我慢した。

かれこれ一時間近く経過した頃、玄関の門扉が開いて、笛子が出て来た。こちらへ向かって歩いて来た笛子は、さっぱりした顔つきをしていた。

「どうだった?」

「歩きながら話すよ」

 笛子は駅の方に足を向け、口を開いた。

 

 市川華怜はね。三和土に立ったわたしをおそるおそる見てた。何か、猛獣でも見るみたいに警戒感丸出しで。

「変なことしたら、警察呼ぶわよ」

 そう言って凄んだりしたのよ。それ見てたら、わたし、ちょっと力が抜けちゃった。

「少し話をしたいだけ。そしたらすぐに帰るから」

華怜はためらったけど、客用のスリッパを差し出してくれた。通された客間から、手入れの行き届いた庭が見えてた。さるすべり、ツツジ、椿とか。花の咲く木が目立っていたな。東側にはつるバラを這わせたアーチもあった。

「植木屋さんがきちんと仕事してる庭ね。春になったら、綺麗でしょうね」

「父がうるさいから、来てもらってる。他の家族は庭なんて興味ないんだけど」

 華怜はとてもつっけんどんに言った。そしてね。こう続けた。

「てか、先生、本当に植木屋になったの?」

「そうだけど」

 余計、怯えた目になったから、言いたいことだけ言って、さっさと帰ろうと思ってね。台詞は決めてたし。

「ずっとあなたがわたしを陥れた理由を知りたいと思ってた。わたしの何が気に食わなかったのか。そうしないと、この先一生、人を信じられなくなりそうだったから」

「………」

「でも、今は違う。人って本当に色いろで、信じられる、信じられないの二つになんて分けられない。だって、人は、いい人の時もあれば、みみっちいことをしちゃう弱さがモロ出る時もある。時と場合によってホントに色いろだから」

「………」

「いい人でいられるのは、その時のその人がラッキィだったってことなのよね」

「………」

「だから、あなたのした事ももう責めない。わたしは自分のいる世界で、地に足をつけて生きて行くだけだから」

「………」

「話はそれだけ」

 でもね。きっばり言い切っても爽快感がなくてさ。何でかって言うと、市川華怜が凄くか弱く見えたから。普段、がたいのいい職人を見ているから余計かもしんないけど、どう見ても力のない子どもなのよ。それに可哀そうな位、怯えている。わたしが何を言い出すか戦々恐々としててね。何だか、痛々しくなっちゃってさ。

「虎ノ門のビルのオーナーと知り合いなの?」

「………あのおじぃちゃんがわたしの名づけ親なの。昔からうちとは親戚付き合いしてる」

「そう……」

「わたし………」

 華怜は必死で言葉を探してる感じだった。

「わたしがそんなに怖い?」

 冗談ぽく言ってみたんだ。でも、全然、笑わなかった。

「わたし……」

 言いたいことが大きすぎて、喉につかえている、そんな風に見えた。

「あなたは話したいのね。わたしにあんなことをした理由を。話した方があなたは救われるのね」

 華怜のまつ毛が震えてた。

「先生が辞めさせられるなんて思わなかったの」

「………」

「ヨコヤマが好きだったの」

「ヨコヤマ?」わたしは心の中でオウム返しした。だって、記憶にない名前だったから。少なくともわたしが担任だったクラスの生徒じゃない。

「サッカー部のストライカーの」

 要約するとね。華怜はその「ヨコヤマ」と付き合ってたんだって。でも、両方子どもだったのね。よく口喧嘩したらしい。それで、段々うまくいかなくなって。ある日、何故だか、その「ヨコヤマ」が言ったらしいの。笛子先生がタイプだって。卒業式にコクってやるとかって。華怜はそれを真に受けたのね。で、わたしに嫌がらせをした。それがあの「セクハラ疑惑」だった。

「でも、先生が退職して、あれは私の作った嘘だったなんて噂も広まって。結局、ヨコヤマには振られたし、私もクラスで浮いて………全然、あれからいいことなくって」

 華怜はそれまで見せたことのないような暗い目をしてた。多分、私が「竹井造園」でしごかれていた間に、あの子はあの子で、うんざりするほどの嫌な目に遭ってたんだと思うの。

「ごめんなさい。先生」

 ぺこっと頭を下げて、バツ悪そうに謝ったんだよね。それでね。もう、本当にもういいと思ったんだ。

「ううん。わたしも絶対にいい教師じゃなかったと思う」

「………」

「あの頃のわたしって、死ぬ気で何かをやったこともないのに、高いところから理屈並べてた。針がレッドゾーンまでふれたこともないのに、偉そうに」

「教師ってみんなそうですよ」

 華怜は、何だか、のっぺらぼうな言い方をした。

「てか、大人ってみんなそうですよ」

「………」

 それを聞いてね、「竹井造園」の職人たち、オイさんや浅尾や、それから親方なんかの顔が自然と思い浮かんで。何かね。黙ってられなくて。

「そうでもない人たちもいるよ。絶対に格好のいい生き方はしてないけど、自分に正直で、低いところから世の中をしっかり見ている人が、たくさんいる。だから、大人なんて、みたいにひとくくりにしないで」

 ま、けど、わたしが言えるのはここまでかなって。あとのことは市川華怜が自分で見て、感じて、考えて、学ぶしかないもんね。

 帰ろうとしたら、華怜に呼び止められた。

「先生、凄く雰囲気変わりましたね」

 だから、わたし、腕まくって筋肉を見せてやったんだ。

「鍛えられてっから、毎日。そりゃあ、今のわたしはタフよ」


 揺れる電車の中で、笛子が話し終えた。

オレは笛子の親戚みたいに親身に頷いた。

結局、この時もオレは言いたいことの欠片も言い出せなかった。

馬鹿か。お前は。


 一月三日は「竹井造園」恒例の新年会が親方の家で行われた。一階にある和室の襖をとっぱらい、リビングと一つづきにして、テーブルを並べ、そこに見ただけで唾の出るような豪華なおせち料理が並べられた。お重やローストビーフや寿司やステーキとか。伊勢エビもあった。ケーキもあった。作ったのは奥さんと翠堂さん、そして、料理の得意な職人数人だった。こも樽がふたつ運び込まれ、親方の挨拶と同時に、鏡開きが行われた。

 ここに来る前に笛子からラインが来てた。

「新年会、メイクしてった方がいいかな」

オレは化粧した笛子なんて見たことがない。意味もなく、ちょっとドキドキしながら「薄化粧で」と返信した。

その笛子はスーツ姿だった。口紅を薄くひいていた。あ、こいつ、やっぱ、割と美人なんだな、と改めてオレは思った。

けど、女性陣は笛子が霞むほど、ゴージャスだった。奥さんは訪問着だったし、普段地味な久美子さんも華やかな桃色のワンピースで髪は縦ロールに巻いていた。翠堂さんに到っては、太腿までスリットの入ったロング丈のカクテルドレスで、目元のアイシャドーもしっかり濃くて、傍を通るとプンといい匂いがした。それでも、オレはやっぱり、笛子を一番可愛いと思った。

上座に親方が座り、吉野さん以下、熟練の職人から順に、テーブルに向きあって座った。オイさんは初めて見る背広姿で、ネクタイまでしめていた。いつもと違って、キリリとした男前に見えた。  

酒が行き渡った。一同は吉野さんの音頭で乾杯をして、一斉に食べ物に食いつき、酒を飲んだ。親方が「食べながらでいいから、順番に来年の抱負を言え」と命じた。一番手はもちろん、吉野さんだ。

「自分はみんなが怪我のないように作業が出来ることを一番に考えていきたいと思います。また、竹井造園は今ある公共工事によりかかるだけでは、今後の発展は見込めません。新たな顧客の開拓はどのように行ったらいいのか、親方を中心に考えていくことが、今年のテーマとなると思います。皆もそれを頭の隅に置いて、一丸となって、一層の努力をしようじゃないか」

 吉野さんのきちんとした呼びかけに職人らは揃って「うっす」と答えた

若い職人はもっと腕を磨くと誓い、中堅の職人は今年はもっと女房を大事にする、と言って笑いを誘っていた。三治さんは今年こそ絶対「万馬券」を取ると誓って、又、一同が笑った。オレの番が来た。立ち上がり、大きく息を吸った。

「まず、昨年は自分自身、怪我なく仕事が出来てよかったと思ってます。けど、新入社員の河合笛子の教育係としては、至らない点が色々ありました。そこは反省したいと思います。今年は飛躍の年にしたいです。人を毛嫌いするとこも直します。みなさん、よろしくお願いします」

 皆は揃って拍手してくれた。浅尾は「去年は自分の人生にとっての転機でした。自分は少し大人になれたような気がします、今年も頑張ります」と言い、次に笛子が立ちあがった。

「わたしはオンナです」と切り出した。

「造園の仕事には向いてないのかもしれないと、入社してから、千回は思いました」

みんなが、シンとなった。

「でも、何故だか、辞めたいとは一回も思いませんでした。多分、これまで生きてきた中で、一番真剣な時間だったから、逃げ出すのが嫌だったんです。親方や皆さんのご好意で、非力なわたしでも、現場仕事を続けられています。それは、皆さんがオンナをきちんと認めていてくれてる証拠だと思います。私は竹井造園が好きです。今年もどうぞよろしくお願いします」

拍手が起きた。

「次はオレだ」

 ビールを飲む手を止めて、座ったまま親方が言った。

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