「楽園の庭」第四話
事務所の裏手にある親方の住いのチャイムを、笛子は短気に鳴らした。体中から湯気が出るほど、腹を立てている。奥さんの声がした。笛子が親方と話したいと言うと「今、留守だけど、上がって」と玄関を開けてくれた。
親方の家のリビングは広い。二十畳近くある。ダイニングテーブルとどでかい応接セットがあり、雑多な生活道具の間に、奥さんが趣味で揃えたティーカップが並べられている。
「親方に何か用?」
「わたしを営業職にしようと、親方は考えてらっしゃるんでしょうか」
笛子の性急な問いかけに、奥さんは返答をためらい、急須にお茶の葉を入れた。
「……誰かに何か言われたの?」
「オイさんに指摘されました。わたしを虎ノ門へ連れて行ったのも、その腹づもりがあったからじゃないかって」
「で、笛子ちゃんはどうなの。営業職につくってこと」
「嫌です」
笛子は反射的に返答した。
「わたしはオンナだし、力も足らないし、体力不足です。経験も何もかも足りてないのは承知してます。でも、ここまで頑張ってきたのは、庭作ってみたいってささやかな夢があったからです。営業じゃ………困ります」
「そう。でもね。笛子ちゃん、親方の気持ちを悪い方に取らないでやって。親方も吉野さんも若くないのよ。だから、うちの将来を考えちゃうの。うちの営業をどう言う方向にもっていったらいいかとか、ね」
奥さんの言いたいことは、「竹井造園」の内情を知っている人間なら、みんな心得ている。造園業は、今、業界全体が低迷している。家を新築しても、庭にまできちんと手をかける家主が少ない。経済的余裕がないのが第一の理由だ。日本庭園を造る施主の数が圧倒的に減ってきてる現実もある。また、若い世代は、ローズガーデンやハーブガーデンなどの西欧風ガーデニングを好む傾向にある。だから、長年、庭師として日本庭園を造って来た職人が、腕を振るう場も減っている。そんな事情もあって、後継者は育ちづらい。
竹井造園が、十人を超える職人を抱えてやっていけてるのは、何より、仕事が途切れなく入ってきているからだ。一にも二にも親方の経営手腕のおかげだ。都立の公園や自然文化園など、比較的、大きな仕事を毎年のように取って来ているから。だが、もし、親方たちが引退した後も、今の仕事量を保っていこうとするなら、若手が相当奮起しなけりゃならないだろう。その場合、若い女性の営業職を置いておくのは損にならないはずだ。これからは、ドンドン女性層を顧客に取り込んでいかないといけないから、女性が会社の顔になるのは、いいことなんだ。造園会社としてフレッシュな印象も持たれるだろう。それに、笛子なら、役所とやり取りも物怖じせずに出来るはずだ。そう考えた親方は何も間違ってない。
「強引過ぎるんじゃない?兄さんは」
オレの内心に反応したように、ハスキーな声がソファの背もたれの向こうから聞こえて来た。二本の白い腕がグンと伸びをした形で現れたかと思うと、日本人形のようなおかっば頭の女性が、背もたれ越しにむっくりと顔を出した。
「こんにちは。笛子さんよね」
「………」
翠堂(すいどう)さんだった。親方の妹で、華道家の。オレはオイさんと一緒に、月に二回、この翠堂さんの教室で華道を習っている。中年だ。確かな年齢は未だに判らない。黒目勝ちの丸い瞳がキラキラ光って、真っ直ぐに笛子を見詰めている。いつも思うが、この人は不思議な存在感があって、いるだけで廻りの空気を変えてしまう。笛子も翠堂さんの噂は聞いていたらしい。
「親方の妹さんですね」
「アラ、二人はこれが初めてだった?」
奥さんが目を丸くした。
「そうよ。噂だけ聞かされてたの。こっちは、おおいに興味そそられてるのになかなか会わせてくれないんだから」
「それは悪かったわ。丁度いいから、女三人でお喋りしましょ。貰いもののチョコレートケーキもあるから」
え、オレは完全に無視されている? と思ったら、奥さんがイタズラっぽい目でオレにもダイニングテーブルに座るよう促した。
「大丈夫。祐二くんの分もあるわよ」と。
翠道さんもソファから立ち上がって、こちらにやって来た。くるぶしまで隠れるロングスカートは鮮やかな朱色だ。
「営業が嫌なら、はっきり言った方がいいわよ」
そう言って、いきなり、二本の指で、笛子の二の腕の肉をつまんだ。笛子が顔をしかめた。
「うん。いい筋肉がついてる。外仕事が十分出来る腕ね」
「いえ、わたしはまだまだ半人前で」
他人に噛みつくのが習性の笛子も、翠堂さんに飲まれているのか、珍しくおとなしい。
「駄目。謙遜は美徳じゃなくて悪徳よ。グイグイ自己主張して前に出なきゃ」
笛子はクソ真面目に返答した。
「でも、この祐二には正反対のことを言われました。お前のそのグイグイ自己主張してくるところが邪魔くさいって」
おい、こら、余計なことは言うな。オレが慌てていると、翠堂さんがカラカラと小気味いい笑い声をあげた。
「つまり、わたしたちって、オトコから見て、嫌われるポイントが同じってことね」
オレは言葉に詰まった。ケーキを取り出しながら、奥さんも苦笑している。
「翠堂さん、あんまり笛子ちゃんを焚きつけないでね」
「でも、入社する時に、将来は営業職に就いて貰うぞって言われた訳じゃないんでしょ。だったら、断わっていい話よ。オンナに現場は無理ってのは、性差別者の独善だしね」
「親方はあれはあれなりに女性を大切にしてるんだけどね」
「そうかなあ」
翠道さんは親方をけなし、奥さんがかばう。これがこのコンビのお馴染みの技らしい。二人のやり取りを聞きながら、オレと笛子は奥さんが皿にのせてくれたケーキを口に頬張った。チョコレートの甘い味が体の細胞のひとつひとつに染みわたっていく。疲れた全身にじわっと活力が蘇って来た。
「笛子ちゃんはどこの出身なの?」
「岐阜の飛騨地方です」
「いいとこね」
「頭がいいのは親御さんの遺伝?」
「頭よくないです」
「ううん。学校の先生だったんだから、賢いわよ。きっと」
奥さんがそう言いながら淹れてくれた紅茶は、甘いリンゴの香りがした。
「チョコレートには合わないかもしれないけど、わたし、これが好きなのよね」
器を両手で抱いて、美味しそうに飲んでいる。こんな時の奥さんは、オレが言うのは失礼だが、凄く可愛らしい。
「学校かぁ。苦手だったなあ。中学も高校も」
翠堂さんはフォークでケーキをつつきながら、ため息まじりの声を出した。
「群れるのが嫌いだったの。だから、笛子ちゃん、わたしは学校の先生も苦手なの」
翠堂さんは、わざと笛子を試すような言葉を向けた。
「わたしは教師に向いてませんでした。今は植木屋の仕事しか、考えられません」
笛子はまた、クソ真面目に返答した。翠堂はしばし、そんな笛子を見詰めていた。
「……笛子ちゃんはあんまり遊びのない性格なのかな。これから、親方を相手にしていくんなら、正論だけでぶつかっても敵わないわよ。あの人は結構したたかだから。適当に力抜いて、かわしたり、いなしたりしていかないと」
「わたしみたいに、半分、相手にしないのがいいのよ」
と、奥さんがみんなを笑わせた。
「わたしには出来ません」
和んだ輪を白けさせるように笛子が返した。
「力抜くとか、いなすとか、そんなテクニックないですから」
オレはまた、慌てた。
「こら、もっと融通の利いたこと言えよ。お前のために言って下さってるんだぞ」
焦って笛子を窘めると、翠堂さんが興味深そうに言った。
「へえ、優しいのね。祐二くん、笛子ちゃんには」
「いや、オレ、こいつの教育係なだけです」
翠堂さんが、何もかも見通してるようで、ちょっと焦った。
「余計なお世話よ。わたしはまだ、半人前だけど、あんたなんかに教育されたくない」
笛子が言うので、頭に来た。
「馬鹿、ここは現場じゃないんだぞ。一々、噛みつくんじゃねぇ」
奥さんや翠堂さんは、笛子に親しみを感じて、親切に接してくれてるんだぞ。こういう場所でくらい、ちっと、愛嬌を見せろ。
「若いのね」
翠堂さんは目をしばたたき、しみじみとした口調で言った。そして、続けた。
「ねぇ、笛子ちゃんもわたしの教室に来ない?オイさんも祐二くんも来てるし。華道もなかなか、面白いわよ」
翠堂の華道教室は二子多摩川の駅からほど近いマンションの七階の一室で開かれていた。翠堂さんは住いでもあるこのマンションのリビングダイニングをリフォームして、大きな教室にしていた。
親方の家で笛子が翠堂さんと会ってから二週間後、オレたちは教室に集まった。
メンバーは二子玉のセレブなマダムらしい四十代前半の主婦が二人と、オイさん、オレ、浅尾、笛子の六人だった。
浅尾は、笛子が華道教室に通うことにしたと聞いて、自分もと手を挙げたのだ。浅尾の狙いはもちろんオイさんだ。
テーブルに用意されたのは、秋らしいアマリリスや竜胆、菊やススキなど。花の引き立て役となるツルウメモドキやアスパラガスペラなども置いてあった。それらを素早くスマホで撮る。家に帰ってから、植物図鑑で名前を確認するのだ。
笛子はどう出るか、オレは秘かに観察していたのだが、いつものように一眼レフで、花に向けて、さかんにシャッターを切っていた。
「撮影は止めなさい。記録するより、記憶しなさい」
翠堂さんに容赦なく言われて、オレたちは、慌ててスマホやカメラを片付けた。
翠堂さんは花器とハサミを、笛子と浅尾に渡して説明した。
「初めての人は筋を見るから、とにかく好きなように生けてみて」
翠堂さんは今日は和服だ。オレは庭に関しては結構、勉強してるつもりだが、着物とか帯とか、掛け軸とか襖絵なんかの和文化全体には、まだ全然疎い。ただ、薄桃色の生地に、肩と裾に紅葉をあしらった着物にはしっとり大人の色香が漂っていた。
笛子はススキを手に思案してた。隣の浅尾は既に竜胆を剣山に突き刺している。手つきは意外にも大胆だ。オイさんの手元を盗み見ると、オレが名前を知らない紫色の一ミリほどの小さい花が固まって咲いている枝を、花器から垂らしていた。手の動きはなめらかで優美だ。あれが定食屋で女将を節操なく口説いていた人と同一人物とはとても思えない。
オレは黄色い菊と竜胆を手にして、これをメインに生けようと決めた。
一時間近く経っただろうか。それぞれの作品に翠堂さんが感想を述べた。オレの花に対して、翠堂さんは「勢いだけね。色気がさっぱりじゃない」と辛らつだった。いつものことだが、やはり、めげる。オイさんは「うまいけど、面白くないわ」と抽象的なことを言われ、浅尾は「思い切ってていいわ」と意外にも褒められた。次は笛子の番だ。
「あらあら、縮こまってるわね。もっと伸び伸び生けてくれなきゃつまらないわ」
と、手荒く花の位置を直しした。笛子は形が変わっていく自分の生け花を、食い入るように見つめていた。
「華道が庭作りと関係してるなんて、知りませんでした」
花の全体像を眺める翠堂さんに、笛子が話しかけた。
「華道のセンスは作庭のセンスに通じるんですよね。わたし、うまくなりますか。どうですか」
笛子がせっかちに翠堂に畳みかけた。翠堂が苦笑した。
「笛子ちゃん、もっと、肩の力を抜いて。華道はね。基本、人との競争じゃないのよ。親切にしてくれたあの人を楽しませたいから。最近忙しそうなあの人を慰めたいから。そんな風にね。見てくれる人への思いやりで花を生ける。それが一番大事なことよ」
「……」
「季節が巡れば、花は開くし、果実は実るの。急がないことよ」
「花は嗜みだぜ。笛子よぉ」
オイさんが、二枚目ぶって付け加えた。
「オイさんは嗜みだらけじゃないですか。お酒にオンナに競馬競輪」
笛子が無表情で言った。オレも浅尾も翠堂さんも、二子玉マダムも声を揃えて笑った。
マダムらが帰り、翠堂さんがそれを送って行くと、浅尾が急にオイさんに歩み寄って、大きな声で言った。
「これ、上野の美術館の展覧会なんですが、一緒に行きませんか?」
やけに堂々とチケットを見せている。オレは笛子と顔を見合わせた。こいつ、まだ、めげてなかったのか。ここまで大胆に迫るとはいよいよ腹をくくったな。オレが感心したところへ、翠堂さんが戻ってきた。
「こいつはもう見た。さちこと一緒に行ってきたんだ」
さちこ?
聞き慣れない名前にオレたちは首を傾げた。オイさんの奥さんの名前だろうか? すると、翠堂さんがニコリと答えた。
「思ったより、いい作品が多かったわよね」
「え? 」
「じゃ」
「さちこさんて、翠堂さんの本名ですか?」
翠堂が屈託なく笑った。
「平凡な名前で嫌いなのよ。だから、十九の時からずっと翠堂を名乗ってるの。やめてって言うのに、オイさんは、わざとわたしをさちこって呼ぶのよ」
ただでさえ色っぽい翠堂さんが、体を斜めに倒して、オイさんを睨んで見せると、一枚の浮世絵のようで、艶っぽさが際立った。
浅尾とオレは多分、同じことを考えていた。
マンションの地下にある駐車場でオイさんと別れ、オレと笛子は「竹井造園」から借りて来たライトバンに乗り込んだ。運転席に座った浅尾はハンドルの上に突っ伏して「もう、最悪」と呻いた。
「絶対、あの二人、出来てるよね。翠堂さん、オイさんの彼女だよね」
「多分な」
オレが応じると、隣の座席で笛子は「また女なの?」と、ムスっとなった。大体、今日の笛子は教室にいる間中、ニコリともしてない。翠堂さんと相性が悪いのだろうか。
とにかく、オイさんが定食屋の女将を相手にしてた時は、遊びだろうと思ったけど、翠堂さんが相手となると話は違う。結構、マジな付き合いなんじゃないか。男と女に関して、鈍感なオレでも、その位はわかる。
「一体さ。何人とさ。付き合ってるんだよ。オイさんってさ」
浅尾はもう泣きそうだ。
「浅尾、いいから、さっさと帰ろう」
笛子が不機嫌に急かした。
それでも、その後を思えば、この日は平和な一日だったんだ。オレたちは、翌日から、かなりの期間、まずい酒しか飲めない羽目になってしまうのだから。
いつもの通りの朝だった。
九月も末になっていたから、集まった職人らも、作業着を羽織るようになってた。昼間の作業も真夏に比べればだいぶ楽になってる。そのせいかだからなのか、みんなこの朝は正直、少し気を抜いてた。
「ふざけてんじゃねぇぞっ」
事務所から出て来た親方が、いきなり怒鳴った。
職人らの間に、ピンと緊張が走った。
オレたちが、朝、親方の説教を食らうのは珍しいことじゃない。ただ、小さいことをちまちま言うのが嫌な親方は、オレたちに不満がある時は、大抵、吉野さんを怒鳴りつけて、それで終りにするのだ。後で、吉野さんから不手際をしでかした奴が叱られる、と、こういう流れだ。なのにだ。
「笛子」
鋭く名前を呼ばれた。
「はい」
戸惑った様子で返事をした笛子を、親方は試すようにじわりと睨みつけた。
「お前、営業の仕事はしたくねぇと言ったそうだな」
職人らの大半が直感的にまずいと感じた。笛子も尋常じゃないのを感じたのか、身構えた。
「女性にゃ力仕事は辛かろうと、こっちが気を回して考えてやってんのに、お前はそれを突っぱねようってぇ腹なんだな」
親方の小さい目がキッとつり上がり、顔がむくんでみえた。オレは心の中で唱えた。「笛子、言い返すな」と。
「いいえ、ご好意は嬉しいです。ただ、オンナだから現場は無理だと思われたくないし、わたしはわたしなりに庭仕事のプロになりたい気持ちが大きいですから」
「体もでかくて気持ちもでかいんだなっ」
親方の胴間声が響いた。馬鹿、こういう時は、すみません、到りませんでした、と何でもいいから、謝るしかないんだ。そうしないと、親方の説教は恐ろしく長くなる。オレは教育係として、それを笛子に教えてなかったのを悔いた。
「その上、態度もでかくてらっしゃるぜ。このお嬢さんはよ」
悪意たっぷりの皮肉だった。オレは感じた。笛子がカチンと来たのを。駄目だ。笛子、黙ってろ。
「わたしには、やりたいことがあります。それを徹底したいんです。オンナだからどうのこうのって言うのは、絶対的に差別だし」
「道具見せろっ」
笛子の言い分を遮った親方の眼の奥が、鈍色に光っていた。笛子は気押されて、足元に置いた道具袋から、両手バサミを取り出して、親方に差し出した。親方は道具小屋の前にあるツツジの枝をそのハサミでいきなり刈った。ザキザキザキ。キレの悪い音が響いた。
「バカ野郎!まるで刈れねぇじゃねぇか!なんだ。このなまくらは!」
笛子はビクンと震えた。
「毎晩研いでるんです。でも、最近、切れ味が悪くなって」
「なら、何で新しいのに取り換えねぇんだっ」
最もな小言だった。
「刈れねぇハサミ持って、職人仕事がやれると思ってるのか。大体、オンナが造園やろうなんて、小賢しいんだよ」
親方の一言一言が、しなる鞭みたいに笛子を叩いた。
「オンナはな。料理習って、洗濯して、亭主になるオトコに、飯食わしてりゃそれでいいんだ」
それはセクハラです、なんて言うなよ、とオレは祈った。今朝の親方はどうやら、笛子をいたぶりたくって仕方ないみたいだから。
「パンツ洗ってりゃいいのに、でしゃばりやがって」
親方は笛子のすぐ傍まで来ていた。小柄だから、笛子の目の下に親方の顔がある。
「言っとくが、差別はしてねぇ。軽蔑してるんだ。オレは仕事も出来ねぇのにでかい口叩くおめぇをな」
職人らは水を打ったように静まりかえっている。
「学校のセンセーだったからって、てめえの理屈が正しいと思うなよ。ここじゃお前は半人前のひよっこよ。右に行けと言われたら、右に行く。左と言われたら左に行く。それが物事を教わる時の礼儀だ」
たまりかねたように、一歩前に出たのはオイさんだった。
「親方、すみませんでした。道具の管理が甘かったのは自分の監督不行届きです。この通りです」
オイさんが深く頭を下げた。急いで、オレも浅尾も頭を下げた。ようやく気が済んだのか、親方は笛子に背を向けた。
「現場仕事をやる器量があるかどうかは、お前じゃなくて、ここのみんなが決めるんだ」
そう言い捨てると、親方は大股で事務所の中へと戻って行った。沈黙があたりを包んだ。
職人は朝を大切にする。一日、事故がないように、スムーズにスタートしたいのだ。だが、これで今日の始まりは台無しになった。吉野さんが親方の代わりに今日の天気と気温と風力を述べた。
職人が散る間際、三治さんが笛子に近づいて言った。
「ねぇちゃん、道具はきちんと手入れしとけや」
「………」
職人たちも同じ思いなのか、目の端で笛子を見てから、立ち去った。みんな揃って、冷ややかな態度だった。
「辛いなら、午後の作業、休んだらどうです」
笛子は見てられないくらい、肩を落としていた。昼飯の弁当にも手をつけようとしない。見かねた浅尾が声をかけたのだった。
「馬鹿やろうっ」
オレは久しぶりに浅尾を怒鳴った。説教されたからって作業を休んだりしたら、それこそ二度と現場に出るなと言われるに決まっている。
「作業は死んでも続けろ。現場仕事やりたいならな」
コクリ頷いた笛子は、何とか気を取り直して、箸を持った。この日、オレたちは、赤坂のマンションのエントランスの手入れに入っていた。
「でも、何ででしょうね。親方は確かに厳しいけど、今朝はちょっと言いすぎじゃなかったですか」
浅尾は笛子がオイさんに弁当を作って来たりしたのが、親方の勘に触ったんじゃないかと言い出した。
「笛子さんが職場でオンナ丸出しにしたから、親方が腹を立てたとか」
「………」
「だったら、自分にも責任あります。ちゃらちゃらしてた張本人は自分ですから」
「一々、深読みすんな。親方の言葉は、言われた通りに受け取っとけばいいんだ」
多少、虫の居所は悪かったかもしれないが、笛子の態度もよくなかった。だから、親方は許さなかった。それだけだ。
「長いこと引きずる人じゃないさ。しばらく辛抱して、機嫌が直るのを待て」
オレは本気でそう思ってた。はなはだ甘い考えだった。
翌日から親方の露骨ないびりが始まった。
笛子は現場の仕事から外し、はたけの水まきや重機の油入れなど、雑用を命じられた。オレや浅尾にも、わざとよそよそしく接した。そして、笛子は、いつの間にか事務所の久美子さんの隣で、電話番をさせられるようになった。更に、親方自身は笛子に一言も口をきかなくなった。
多分、三治さんあたりから、奥さんの耳にその様子が伝わったのだと思う。オレが事務所で明日の現場の図面をチェックしていたら、親方と奥さんが、笛子を後ろに立たせて、言い争っているのが聞こえてきた。
「親方、笛子ちゃんは久美子ちゃんとは違うでしょ。一緒に、電話番させるのは違うんじゃないの」
「馬鹿野郎。うちの社員はうちの仕事なら何でもやるんだよ」
親方はピリピリ響く声で答えると「飲んで来る」と一言残して、出て行ってしまった。奥さんもお手上げだ。
「笛子ちゃん、親方、ちょっと意固地になってるみたいだから、我慢してね」
奥さんはそう笛子を気遣ったが、笛子はもう、黙って俯くだけになっていた。吠えたてていた野犬が、飼い主に捨てられた段ボールの中の子犬にみたいになってる。
竹井造園のボスは親方だ。親方の言葉は絶対だ。他の職人も遠回しに笛子を眺めているだけで、直接、笛子に声をかける者はいなくなった。あの三治さんですら、競馬新聞を手にしていても、笛子の予想を聞かなくなった。
仕事終りのオイさんがやってきた。缶コーヒーを飲みながら、しょげた笛子を見た。何か声をかけてくれるかと思ったが、一瞥しただけで無言だった。
帰り際、事務所を出る笛子は、オレに一言、呟いた。
「疲れてないのに、体がバーベルみたいに重いよ」
オレは何も言えなかった。教育係として、どうすべきなんだろう。ホワイトボードの前でグズグズ考え込んでいたら、久美子さんがオレに声をかけてきた。
「祐二さん、これ、笛子ちゃんの忘れ物じゃありません?」
二児の母親には全く見えない、若さに溢れる久美子さんが差し出したのは、いつも笛子が使っている一眼レフのカメラだった。
「ああ、オレが渡しておきますよ」
よし、いいきっかけだ。笛子を追いかけて「軽く飲もうぜ」と誘おう。酒が入れば、笛子も元のあいつに戻って、
「こんなのパワハラよ。仲間外れなんて、中学生のいじめ以下よ。厚労省に訴えてやる」
とかなんとか、吠えるだろう。よしよし、鬱憤ばらしの景気づけだ。
オレはカブに乗って、笛子のアパートへ向かった。
その途中、本当にふわりと疑問が湧いたのだ。笛子がカメラで何を撮っていたのか、と。その時のオレに向かって、間に合うものなら叫んでやりたい。「絶対、見るな」と。
けど、オレは国道に出る手前の道の端にカブを停車させた。そして、肩にかけていた笛子の一眼レフのメモリーを開いたのだ。
「………」
写真は数十枚あった。色んな表情が写っていた。笑っていたり、顔をしかめていたり。剪定していたり、花を生けていたり。オレはサンドペーパーで、胸の真ん中の柔らかいところを思い切り撫でられた気がした。凝視しているのが辛かった。
笛子のアパートの笛子の部屋のドアをノックすると、部屋着に着替えた笛子が顔を出した。オレは無言でカメラを差し出した。
「あ、わたし、忘れてたんだ。ヤバい、サンキュ」
オレはそのまま、踵を返そうとした。
「待って。祐二に見て欲しいものがあるの」
一旦、部屋に引っ込んだ笛子は、一枚の図面を持って戻って来た。
「この間、わたしも坪庭のデザインさせてくれるって言ったじゃない。だから、考えてみたの。よかったら見て」
差し出された図面をオレは一応は受け取ってから、毒づいた。
「馬鹿やろ。新米に手柄譲るほど、オレはお人良しじゃねぇぞ」
笛子が目を丸くしてオレを見ていた。オレは機械仕掛けの人形のように、抑揚のない声で続けた。
「お前なんか。営業やってりゃいいんだ」
どうしてそんなことが言えたのか。オレには未だに判らない。オレはドンドン湧いて来る残酷な言葉をするすると並べていた。
「浅尾のためとか言いながら、お前、本当はオイさんに気があんだろ」
「………」
「撮ってた写真、みんな、オイさんじゃねぇか。ああ、どれもこれもいいオトコに撮れてるよ」
「見たの」
「ひでぇオンナだな。植木屋の現場に、結局、オトコ漁りに来てたなんてよ」
笛子が両手を突き出した。ドンと。オレは後ろに強く押された。ドアがバタンと閉まった。オレはますます気分が悪くなり、大急ぎでその場から離れた。
部屋までどうやって帰ったか、あまり覚えてない。起きたこと全てにリアリティがなくて、オレは部屋のベッドに寝転がると、動けなくなってしまった。
やがて、強烈な自己嫌悪の波が押し寄せて来た。買い置きしていたビールを取り出して飲んだ。こんなんじゃ酔えねぇと、すぐに焼酎に切り替えた。笛子がオイさんに気があるんじゃねえかって予感はずっとあった。オイさんにオレは敵わない。だから、ジリジリするほど悔しくて、笛子を傷つけた。単純ですげえ卑怯な話だ。祐二、お前、マジで最低だぞ。死んじまえ。
スマホに着信があった。ひょっとしたら笛子か。怒ってかけて来たのか。なら、すぐ謝ろう。けど、違った。吉野さんからの電話だった。
吉野さんは話したいことがあるから、駅前まで出て来れるか、とオレに聞いた。一人でじっとしていたくなかったから、すぐにアパートを飛び出た。
「笛子の様子、どうだ」
チェーン展開しているコーヒー屋で吉野さんはそう切り出した。
「かなり、参ってるみたいです」
オレは自分の言った事を棚に上げて、そう答えた。吉野さんは紙のおしぼりでさかんにスキンヘッドを拭いていた。
「親方のアレは、セクハラ、パワハラなんだろうけど、オレ達の現場仕事にそういうやつを持ち込むのは、どうなんだろうなあ。力仕事をやってたら、気が荒くなって男モロ出しでとっかかることになる。そこに胸のでかい女がいたら、でかいな、触らせろって、こいつは男の本能から出るセリフだろう」
「はい」
「それ口にするなってのは、寸止めで去勢されるようなもんだ。特に親方は昔の人だし。ま、オレとしては、どっちの肩も持てねぇな」
オレは半分聞いてなかった。
「ただな。親方が笛子に辛く当たってんのには、また別の、こみいった訳があるらしい」
「訳?」
「ああ、どうやら親方は、笛子に怒ってるんじゃなくて袴田に腹を立ててるらしい」
「すみません、意味がちょっと分からなくて」
気が散ってたオレは、一生懸命、話の中身に集中しようとした。
「翠堂さん絡みで、袴田が許せないらしいんだよ。笛子はつまり、八つ当たりされてるんだな」
オイさんが原因?オレはまだ、飲みこめなかった。
「今は、そこまでしかオレにも判らん」
オレは途方に暮れた。曖昧模糊とし過ぎている。
「とにかく、笛子もキツイだろうが、じきに親方の風向きも変わる。だから、それまで短気起こして辞めたりしねぇよう、お前から言ってやっといてくれ」
吉野さんの話はそこまでだった。
次の日、オレは親方の留守時を狙って、親方の住いのチャイムを鳴らした。奥さんが顔を出した。
「あら、祐二くん」
「奥さん、ちょっといいですか」
奥さんはすぐに笛子の話題だと思ったらしく、眉根に立てじわを入れて、オレをリビングに招き入れた。
「ごめんね。辛い思いしてるのよね。うちの人も頑固だから」
奥さんはまた、アップルティの準備をしてた。オレは話を先に切り出した。
「奥さん、親方はオイさんが嫌いなんですか」
奥さんの表情にはっきりとした変化が見えた。触れたくない話題だったのが見て取れた。
「さあね。職人のこと全部は、わたしには判らないのよ」
明らかに奥さんは嘘をついてた。
「………」
「笛子ちゃんのことを、これ以上ないがしろにしないよう、親方に言っておくわ。だから、今日は帰ってくれる?」
奥さんは明らかにオレが知りたいことを語りたくない様子だった。オイさんと翠堂さんの間に、何か隠し事があるみたいだ。
割り切れない気持ちで玄関を出ると、やって来た人影とぶつかりそうになった。問題の翠堂さんだった。
「祐二くん、丁度よかった。ちらし寿司作ってきたのよ。持って行かない?」
翠堂さんは、手にした籠の中から、屈託なくラップの包みを取り出した。オレは直截に聞いた。
「翠堂さん、親方はオイさんが嫌いなんですか?」
翠堂さんは目の前でいきなり手を叩かれたように、目を見開いた。オレは簡単にここのところの親方の笛子に対する仕打ちを翠堂さんに説明した。それと吉野さんから聞いた言葉を。
「知らなかった。そんなことになってたの」
翠堂さんは真顔でしばらく考え込んでいた。
「今度の日曜は休みよね。うちへ来てくれない?そこで話すわ」