
「楽園の庭」第二話
笛子だけに用があるのなら、オレは………。すると、笛子がオレの腕をつかんで来た。
「一緒に行こう」
普段、強気な笛子がびびっていた。ま、当たり前だが。オレだって、オイさんと二人きりになったら緊張する。植木屋の上下関係は飛び切り厳しいから。
結局、笛子と二人で乗り込んで、そこから十分ほど走った。
着いたのは事務所に近い里山のふもとで、職人らが「はたけ」と呼んでいる植木畑だった。オレも当然、何度も来たことがある。広さおよそ四百~五百坪の敷地にイチイやツゲ、カエデ類、桜、松、タマイブキ、ナンテンなどが列植されている。その間をオイさんはひょいひょい歩いて行く。笛子は若干、不安になってる様子で、懸命にその後に続いて行く。無造作に御影の石材やら灯篭、手水鉢などが置いてある中を行くオイさんの背中は怒っているようにも見えた。伐採、剪定された枝葉がたい肥の山となっていた先に、大型機械はユンボが三台と剪定枝の粉砕機も一台あった。オイさんは更に進んだ。花の苗のポットと低木が並べられている一角まで来ると、オイさんは立ち止まった。
「さてと、何にするかな」
思案顔で木の幹に触れたり、葉を撫でたりしている。
「こいつにするか。笛子、来い」
オイさんが示した高さ一メートルほどの木の枝の先に目をこらして見ると、人の小指の先くらいの大きさの白い提灯型の花のつぼみが下を向いて並んでいた。数え切れないほどある。
「これ、何の花ですか?」
「夏みかんの花だ。見ろ。こっちに咲いてるのがある」
白い五弁の花びらが星の形に開いていた。
「可愛い。これがみかんになるんですか?」
「この大きさの木で三つくらいは実がなる。持ってけ。オレからの入社祝いだ」
笛子はあんぐり口を開けっばなしになるほど、びっくりしたみたいだった。もちろん、オレも驚いた。
「今頃、何だって言いたいんだろ。そろそろ六月だしな。だけどな。うちみたいなところは、若いやつが居つかないんだ。入社して一カ月で苗を渡しても、ほとんどが辞めてく。こっちだって辞められたくないが、優しいこと言っておだてて働かせてもな。先に行ってそいつのためになんねぇからな」
「はい。分ります」
「ま、笛子はよくもってるよ。大事に育てろよ」
「……はい」
暮れかけた畑の真ん中で、上気した笛子がやけに素直に頷いた。小さな夏みかんのつぼみが揃って風に揺れた。
笛子が「持ってくんない」と言うので、オレは夏みかんの苗を、笛子のアパートまで運んでやった。親切心というよりは教育係の役目と言うか。いや、正直に言おう。目茶苦茶意外なんだけど、オレは笛子がオイさんに認められたのが結構嬉しかったんだ。ガミガミ言うとツンケン反抗しやがる。そんなやつが、一日も休まず現場に通ったことをオイさんは見ててくれた。オレはまるで自分が貰ったように夏みかんの苗木が愛おしかった。
「あのな。これも植木屋の修業のひとつなんだぞ」
「ふん?」
「こういう苗木を自分で育てるとな。苗木の時間を感じ取れるようになるんだ」
「苗木の時間? 」
「人間が人間の頭で考えて動く、五分十分の時間じゃなくて、朝が来て夜が来る自然界の時間だ。それが重なって春夏秋冬になる」
親方の受け売りだった。
「四季の大きな流れに沿って物事を考えていると、人間、謙虚になれるんだ」
「なんか、あんまりピンと来ないけど」
オレはこの間、テレビで見たIT関連の企業の社長の話を引き合いに出した。
「そいつはよ。いい背広着て言うわけよ。ぼくらは二分で状況分析をして、五分で判断を下す。それが翌日にはフィードバックされて来る。そのスピード感ですね。この仕事の醍醐味は」
「嫌いなんでしょ。そういうタイプ」
「好きとか嫌いじゃない。ただ、大事なことを知らないんじゃないかってな。オレは親方に、黙って一時間でも二時間でも、雨の音を聴けって言われてきたから」
「雨の音?」
「四季の流れと同じなんだとさ。雨の音が本当に聴けるようになるには、十年はかかるって」
「え、意味わかんない」
「オレもわかんねぇけど、時々、目茶疲れた日とかに雨が降ると、CD聞くのもやめて、雨の音聴いてみる」
「何か感じる?」
「まだ、そこまでいかねぇ。けど、何かやる時に、十年かかる場合があるんだって頭に置いておくと、焦ってり慌てたりしなくなる」
「ふうん。そんなもん」
笛子はオレの手から苗木を受け取り、鉄筋二階建てのアパートの階段を駆け上がっていった。
オレは何となく、満足感に浸っていた。今夜はさぼりがちな腹筋と腕立て伏せを四百回ずつやろうと決めた。
六月の下旬になっていた。暑さに加えて湿気が辛い時期だ。
「今日は午後から雨になるそうだ。降って来たら下手に粘らず撤収しろ。ともかく、事故のないように。施主様のために、木を見る人、花を見る方らの心根に沿うように、今日も励め」
親方の訓示の頷いた職人らは一斉に散った。
「袴田。いいか」
親方がオイさんを呼んだ。
「今日一日、祐二を借りてもいいか」
「いいですが、何です?」
「今日、吉野をつれて虎ノ門へ行く」
オイさんの後ろで話しを聞いていたオレは、ビクンと耳を立てて反応した。「虎ノ門」だって?
「祐二と笛子も連れて行こうと思う」
行けるのか? オレが虎ノ門へ。やったぞ。
「二人ともいい勉強になるでしょう。オイ、祐二、笛子」
呼ばれたオレたちは、親方の前に出た。
「お前、スーツ持ってるか」
親方が笛子に聞いた。
「はい……ありますけど」
「それに着替えて来い」
「虎ノ門ですよね。作業するんじゃないんですか?」
オレの問いは無視して、親方は笛子に言った。
「三十分で着替えて来い」
有無を言わせぬ口調に、疑問は取りあえず棚上げして、笛子は通勤に使っている自転車でアパートへ急いで戻っていった。
何で笛子を連れて行くんだ? 何でスーツだ?とは思ったが、それより「虎ノ門」へ行ける嬉しさで、オレは勇んで、ポキポキ指を鳴らした。
前を行く親方と吉野さんの乗ったライトバンを追って、オレはトラックを走らせた。渋谷を越えた頃には曇天の空からポツポツ雨粒が落ちて来た。これでは現場仕事は無理だろう。しかし、親方はライトバンを停めることなく進んで行く。オレの隣にはスーツを着た笛子が座っていた。初めて見た教師らしい笛子の姿だ。何となくだが、笛子は案外いい教師だったような気がした。
問題は何で辞めたかだが……。
「筋肉がついたから、二の腕がパンパン。でも、何で現場に行くのに、スーツなの?」
「虎ノ門はうちにとって、大事な庭なんだ。だからピシッとしてろって事じゃねえのか」
「大事ってどんな風に?」
「行けば判る」
オレはわざと思わせぶりに言った。「虎ノ門」の庭には、親方は普段、吉野さんしか連れていかない。親方が特別な思い入れで作った特別な庭だと聞いている。他の職人らも噂を耳にしているだけで、行ったことはない。だから、みんなとっては「幻の庭」だ。そこへ行けるんだから、嬉しくないはずがない。新米の笛子まで同行しているのが癪だったが、ま、親方には親方の考えがあるんだろう。
「虎ノ門」と道路標示のある辺りに来た。
「あの一番高いビルに行くんだ」
オレがそう言って、首を傾げないとてっぺんまで見えない高層ビルを示すと、笛子は「へえ」と聳え立つビルを見上げた。オレは前を行くライトバンに従って、ゆっくりハンドルを切った。
四人が乗ったビルのエレベーター表示は五十一階まであった。親方は三十七階のボタンを押した。耳がキーンとしそうなスピードで、エレベーターは昇った。
ドアが開くとそこに小柄な老人が何百年間もそこにいたように静かに立っていた。
「これは。お待たせしましたか」
丁重な口調で親方が頭を下げた。老人は小柄で、総白髪を後ろに綺麗に撫でつけ、ダブルの背広にアスコットタイをしていた。英国紳士のような品がある。
「いいんですよ。親方と違ってわたしはこの通り、暇な身ですから」
柔らかく笑った老人の回りには、そこだけ特別な磁場が張られているようで、近寄りがたいものがあった。
「ご無沙汰しています。今日はよろしくお願いします」
エレベーターを降りた吉野さんも、馬鹿丁寧に頭を下げた。多分、この老人が噂に聞いているこのビルのオーナー、福沢氏だ。
「そこのお嬢さんは?」
福沢氏が吉野さんの後ろにいた笛子を見て尋ねた。
「今年の二月にうちに入った職人です」
笛子も一礼した。
「初めましてと。河合笛子と申します」
老人は好奇心を露わにして、遠慮なく笛子を見詰めた。
「ほう、ニューフェースですか。体力がありそうだ。頼もしいね」
老人は先に立って歩き始めた。え、オレの紹介はなしかよ。オレはかなり失望したが、黙って先を行く親方らに続いた。
そこは典型的なオフィス用のフロアで、サラリーマンやOLらが働くおしゃれな事務所や会議室が並んでいた。壁のほとんどがガラス張りで、解放感に溢れている。テーブルやデスクもハイセンスなインテリアで揃えられている。しかし、一体、どこにうちの親方が福沢氏に依頼されて造った庭があるんだ? オレの疑問をよそに親方と福沢氏は、歩きながら言葉を交わしている。
「息子さんはお元気ですか?」
「多分。同じ社にいても、ほとんど会わないんですよ」
「会長の後を継がれるんですか。息子さんは」
「どうなりますか。株主の間に世襲制は封建的過ぎるとの意見もありますから。わたしだけの思惑で事は決められないんです」
「所帯が大きいとこは大変ですな」
「親方のところはどうするつもりなんです?竹井造園の後継者は」
「うちのような中小企業はどうとでもなりますよ。ま、多分、この吉野にまかせることになると思いますが」
話しながらゆったりと進んで、角を曲がった。途端、いきなり視界が開けた。
目に飛び込んできたのは真白な砂地だった。流線形の流れが幾筋も描いてある。そこに巨人が天から戯れに投げ散らしたように、様々な形の石が飛び飛びに置いてある。その奥にある築山は緑に苔むしていた。巨大なガラス張りの水槽の中に石庭を作り、それをこのビルの壁面にはめ込んだ格好だ。石と砂と築山の庭の向こうに広がるのは、林立する高層ビル群だ。京都の庭なら東山の山々が借景だが、ここはビルと曇った空が続いている。まるで、地上三十七階に浮かぶ空中庭園だ。
「苔が一部、枯れてるようです。お願い出来ますか」
「はい。心をこめて手入れさせて貰います」
「では、あとは頼みましたよ」
庭に見とれていたオレと笛子が、親方に名前を呼ばれたときは、福沢氏の姿はどこへともなく消えていた。
「吉野と一緒に道具持って来い。苔を貼り替える」
親方はガラス張りの壁面の一角に作られた通路から庭へ出て、仔細に築山の様子を観察し始めた。
「行くぞ」
吉野さんに声をかけられ、又、エレベーターに乗り、駐車場まで戻って道具を運んだ。こんなことならいつもの作業着で来た方がよかったのに。笛子はそう言った。が、階上に戻り、庭に出て手入れを行ったのは親方と吉野さんだけだった。オレと笛子は足を踏み入れることさえ許されなかった。
親方と吉野さんは、所作のひとつひとつにまで神経を配り、砂の粒を丁寧に整えていた。その作業はまるで神事を執り行っているように厳かに見えた。自然、オレも笛子も居住まいを正していた。
オレ達が事務所に戻ったのは二時を過ぎた頃だった。そこに雨に降られて休みになった浅尾が待ち構えていた。
「どうでした。虎ノ門」
「うん」
「ちょっと凄かった。ああいう庭もあるんだ」
笛子は正直な感想を漏らした。
「どんな風だったか教えて下さいよ」
浅尾は聞きたくて聞きたくて堪らないと様子だ。
「ちょっと遅いけど、昼めしに行くか。幻の庭のこと全部、話してやるよ」
定食屋に向かう途中、国道沿いの道を歩きながら、オレは笛子と浅尾に、今日会った福沢氏は、とてつもない金持ちなんだと説明してやった。虎ノ門の他にも、都内に幾つもビルを所有している。そして、詩歌や絵画や書や焼き物や、その他諸々の芸術に造詣が深く、趣味で作庭にも手を出しているそうだと。その福沢氏が親方の腕を見込んで、作らせたのがあの庭なのだ。
「自分も行きたかったす」
浅尾がふくれっ面になった頃に、定食屋に着いた。あんな展開になると判っていたら、絶対、この店には来なかったのに………。
以前、オイさんに連れて来て貰った店だ。引き戸を見て、浅尾がつぶやいた。
「本日休業って出てるよ」
「いや、やってるはずだぜ」
オレは引き戸を大きく引いた。
オイさんがいた。
カウンターに座り、カウンターの内側で体を斜めに傾けているエプロン姿の女将の手首を強く掴んでいた。三人を見たまま、オイさんも女将もそのままのポーズで動かなかった。
「すみません。開いてるかと思って」
オレが努めて軽い口調で話しかけたが、二人の不自然さに語尾を飲みこんだ。浅尾も笛子も固まってた。
「馬鹿野郎」
オイさんが巻き舌で吐き出した。
「おめぇら、邪魔すんじゃねぇ」
空気が濃かった。四十代半ばのやや太り気味の女将は幾分上気している。オレは心臓の鼓動が早くなった。
「ごめんなさいね。オイさん、酔っ払っちゃって、放してくれないのよ。いいからみんな、入って」
女将は出来る限り優しくオイさんの指を引きはがし、カウンターに並んだ空の徳利を片づけ始めた。
「オイさん、何時から来てんですか。もういい時間ですよ」
オレはこわ張った空気をほぐそうと軽口を叩いた。
「うるせぇ。この店は今日はオイの貸し切りなんだ。大体、祐二、お前にはコミュニケーション能力が足りてねぇんだ。だから、人の気持ちも分からねぇ。植木の気持ちも分からねぇ。いいか。ここの旦那は今日は釣りに行ってるんだ。いい日なんだよ」
早い話、オイさんは女将を口説いてたのだ。
「じゃ、主人に帰って来てって電話するわ」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。いいからこっち来いよ」
オイさんが立ちあがって、大きくよろめいた。「あっ」とオレが支えようとすると、ギラギラした目で見返した。
「帰れって言ってんのがわかんねぇのか。こら、祐二ッ」
怒鳴り声は現場で聞くピリリとパンチの効いた何時ものとは違い、濁ったダミ声だった。
「オイさん、やめて。今日はもう店を閉じるわ。あなた達、悪いけどオイさんを連れて帰って」
辟易した表情で前掛けを外した女将は、そそくさと二階へ続く階段を上がって行った。
「女将ィ」
オイさんは未練たっぷりの声で這って階段を追って上がろうとする。
「ね。止めてよ。祐二。連れて帰ろう」
笛子がオレを振り返った。オレはと言うと、無言で固まっている浅尾が気になっていた。浅尾は蒼ざめて、俯いている。オイさんの姿は、もう二階に吸い込まれそうになっていた。笛子が必死で声をかけた。
「オイさん、駄目だって。浅尾も止めてよっ」
浅尾は反応しない。何かおかしいと笛子は思ったようだ。次の瞬間、二階から女将の叫び声が聞こえて来た。オレはヒュッと喉が鳴るほど驚き、慌てて階段を駆け上がろうとした。次の瞬間、ドンドンドンと弾むようにオイさんの体が二階から転がり落ちてきた。オイさんはトレードマークのボンタンジャージを膝の下までずり下げた格好で、階段の下で蛙のようにひっくり返った。滑稽極まりない姿だが、オレも浅尾も笑わなかった。
「くそったれ。見てんじゃねぇぞ」
足首にまとわりつくジャージをたくし上げながら、オイさんは悔し紛れにまだ怒鳴っている。オレは情けないやら腹立たしいやら、気持ちがごっちゃになって混乱していた。
気づいたら、笛子がカウンターの上にあった水差しを高く掲げていた。
「最低っ」
水差しの水がオイさんの頭にぶちまけられた。「ひゃっ」と、オイさんが奇声を上げたのと同時に、笛子は水差しを置いて、店から出て行った。
オレと浅尾は国道をスタスタと行く笛子に追いついた。
オレたちは三人とも、大事にしてたものを踏まれたような苦さで一杯になっていたんだと思う。
「情けないよ。結構、尊敬してたのに」
笛子が吐き捨てた。浅尾は無反応だった。国道を色んな車が走り去り、埃っぽい空気が肺に刺さった。
「砂漠行ったことあるんだってさ」
浅尾が全く関係のない話題を持ち出した。
「え?」
笛子が聞き直すと浅尾は更に声を高くして話した。
「オイさん、映画の撮影でタクラマカン砂漠へ行ったらしい」
「それが何」
笛子はまだ怒っている。
「対極なんだってさ。日本庭園と砂漠は」
浅尾は妙に力を入れて続けた。
「どういう風に?」
オレが聞いてやった。
「日本庭園はさ。ずっと昔から人間がさ。自然に手を入れて、山や谷を象徴的に造った場所でしょ。それを眺めて、悠久の時を思い、哲学したんでしょ」
そんな小難しいことは新米の笛子には判らないだろう。だけど、浅尾が真剣なのでオレは「ああ」と相槌を打った。
「砂漠には何もねぇって。砂しかねぇ。砂と風だけ。風が砂の山の形を変える。地球が呼吸するように、吹く風が砂に模様を作っては消して行く。同じ形は二度とない。刹那なんだってさ」
「……」
「月がでかいって」
「……」
「月の出た夜があんなに明るいとは知らなかったって」
じれったくなったのか、笛子が口を挟んだ。
「それが何? 刹那を感じて、人生変わったって話しなの?」
「違う。そういうオイさんの色んな経験を聞いて、オイさんは凄いなって、こいつはこいつなりに感心してたんだよ」
「ただのすけべじゃん。真っ昼間から定食屋の女の人口説いて」
浅尾が耳をふさぐように、国道から脇道に逸れた。オレもそれに続いた。
「お前は人をこきおろせるほど、立派な人間なのか。オイさんは仕事はちゃんとやってんだ。針がレッドゾーンにふれるまでやってんだ。半人前のくせに理屈こねてるクソセンセーは黙ってろ」
言い出すと止まらなくなった。
「お前は高い所からモノ見て、批評ばっかしてんだよ。自分で何ひとつ、形になることしてねぇのによ。オイさんは違う。視線をちゃんと低いとこに置いてんだ。誠実なんだよ。情けないとかすけべだとか、お前が言うな。お前ごときが言える人じゃねぇんだ」
オレは、支離滅裂にまくし立てていた。先を行く浅尾が急に立ち止まった。道の脇にあった自動販売機にコインを入れた。転がり出た缶ビールのプルトップを開けると、喉を鳴らして一気に飲んだ。その横顔を見て、オレはびっくりした。浅尾は泣いてた。ポロポロ涙をこぼしている。
笛子も驚いたのだろう、呆然と立ち止まった。
浅尾は缶ビール片手に、又、歩き出した。話しかけられる雰囲気は全くなかった。オレと笛子もなす術もなく歩いた。
そのまま十分ほど行ったところに、オレと浅尾が暮らすアパートがあった。「竹井造園」と契約していて、一階に浅尾が、二階にオレの部屋があった。取り囲むフェンスにつるバラが巻き付いている。ピンク色の花が幾つも咲いていて綺麗だ。
「ここが浅尾のアパート?」
笛子が聞いた途端だった。浅尾が缶ビールの缶を力まかせに路上に叩き付けた。
「!………」
「!………」
フェンスに突進しツルバラのツルをワシ掴みにして、剥ぎ取り始めた。もの凄い勢いだった。オレも笛子も声も出なくて、その場に突っ立っていた。浅尾の中で何かが爆発していた。ツルをむしり取りながら、浅尾は又泣いてた。
「よせっ」
我に返ったオレは、背後から浅尾を止めた。浅尾の手は薔薇のトゲが無数に刺さって、血まみれになっていた。
「手当しないと」
笛子が叫ぶように言った。
「うるせぇ。お前はさっさと帰れっ」
オレはまた、怒鳴っていた。
笛子は気付いたと思う。浅尾はこのバラをオイさんから貰ったのだと。
次の休みの日だった。溜まった洗濯をして掃除機をかけていたら、ドアがノックされた。開けてみると、驚いたことに笛子が立ってた。「ちわっす」
「何だ」
「遊びに来たの」
笛子はイチゴのパックを手土産のつもりなのか、差し出して来た。「入らせてよ。いいでしょ」
勝手にスニーカーを脱ぐので、オレは慌てて、部屋の中を片づけた。
オレの狭い部屋の片方の壁一面に、トレーシングペーパーが貼ってある。全部、図面だ。窓からの風にそれがさわさわと揺れた。
「聞いてもいい?………浅尾はオイさんが好きなの?」
オレはキッチンでイチゴを洗っていた。ナイーブな問題をむき出しで聞く笛子の無神経さに、オレは苛立った。
「だったら何だ」
怒ったような口調になってた。
「浅尾はゲイなの?」
「それが何だ」
「………」
オレは皿にのせたイチゴをテーブルに置いた。笛子はフローリングの床に体育座りで、壁の図面をジロジロ見ながら聞いた。
「いつから」
「知らねぇよ」
「答えてよ」
「………」
「オイさんのことが好きだってこと、オイさんは知ってるの………」
「食えよ」
多分、知らないだろう。そんな話は浅尾ともしたことがない。オレは面倒な話題を切り上げようとした。
「ここにあるのは、みんな庭の図面だ……そっちが関東の、こっちが関西の」
「京都とか庭多いもんね」
笛子は興味なさそうに答えた。
「全部、行ったとこだ。行って写真に撮って、帰ってから俯瞰図にする」
「勉強熱心だね。エロい動画とかばっか見てると思ってた。ちょっと圧倒されるな」
笛子はベランダ側に置かれた机の前の図面に目を移した。そこの図面は色鉛筆で丁寧に色付けしている。
「そいつは将来、オレが造りたい庭だ。いつか、絶対に造ってみせる」
それ以上は話がなくなった。何を話せばいい?
オイさんに言われた「お前は周囲に混じっていこうとしない」という言葉は、ずっと胸に残っている。変にプライドが高いのは自覚してるが、職人なんだから口が重くても腕がよけりゃいいだろ、と思ってるところがオレにはある。コミュニ―ション能力なんて、鳩の糞みたいなもんだと。けど、こんな風に話題がなくなると、居心地が悪くてソワソワしちまう。
「……今夜、浅尾を呼んで飲まない?」
「は?」
「だって、話さないと」
「何をだ」
「オイさんと浅尾のことをよ」
「話してどうなる」
「だって大事なことじゃない」
「………」
「大事でしょ」
「……」
「だって、泣くほど人を好きになるって大変なことだもん」
「………」
オレの部屋でその夜、笛子、浅尾、オレの三人でたこ焼パーティをした。いや、別にパーティなんて言うほどのもんじゃない。特に乾杯もせず、だらっと飲み始めただけだ。この部屋に浅尾は何回か来たことがあったが、一緒に飲むのは初めてだった。
笛子が切った蛸の大きさがてんでんばらばらだとオレが文句を言うと、浅尾は「でも、美味しいよ」とあつあつを頬張った。オレはついつい、浅尾の両手に巻かれた白い包帯に目が行って困った。
笛子は話を切り出すきっかけを探っているのか、ビールと焼酎を交互に飲んでいた。
「努力とかって実らないことになってんのよ」
笛子が唐突に切り出した。
「学校にいると、それがよくわかる」
笛子は教師時代の話をしたいらしい。そんなのは、初めてだった。
「出来る子は出来るけど、ダメな子はダメなのよ」
「はあ?お前、元教師のクセに、そんなこと言うんじゃねぇよ。生徒がやる気なくすじゃねぇか」
オレはペースを押さえて飲んでいた。
「中学ってね。特殊な村社会なのよ。努力、友情、家族愛。そんなものが世の中で一番大切なんですよ、なんて教師は教えてるけど、そんなの現実社会の実態にはほど遠いってことは生徒だって承知してるの」
「笛子さん、今夜は毒吐きますね」
浅尾が愉快そうに応じた。
「経済的にも学力的にも格差があって、乗り越えられない壁だらけなのに、夢を持とうなんて明るく生徒に言う教師なんて偽善者よ」
浅尾の件はそっちのけで、おかしな方向に話がずれてる。だけど、笛子が中学を辞めた理由の一端が判るかもしれない、と、オレは耳を傾けた。
「それに大体、生徒自身が何も信じてないのよ。空っぽなのよ。あいつらって」
「………」
「悪魔よ」
笛子は、暗い目でグラスを空にした。
「笛子さん、中学で何かあったの?」
浅尾が穏やかな口調で聞いた。
「言いたいことがあるなら、聞くよ。溜めておくと体に悪いってこともあるからね」
浅尾の言葉に、笛子は目をぱちくりさせ、やがて苦笑いを浮かべた。
「ごめん。つまんない事言ったね。今夜は浅尾の話をしたいと思ってたのに」
「自分の?え、けど、笑える話の在庫、あんまりないっすよ」
浅尾は朗らかに言い返した。
「真面目な話なの。浅尾の好きな人のことがね。気になってるの」
「………」
浅尾の切れ長の目が少し揺れた。オレは何だか具合が悪くなり、煙草を口実にベランダに出た。
「オトコの人がいいの?」
笛子は単純明快に聞いていた。聞かれた浅尾は、しばらく水族館のクラゲのようにつかみどころがない表情をしていた。
「自分は男性が好きです。もう、分ってると思うけど、オイさんがね。とてもね」
ようやく生きた表情になって、はにかんだ。
「いつから?」
「入社したすぐの頃から、かな」
「聞いていいかな。浅尾はつまり、ずっとそうなの?オトコの人しか好きになれないの?」
「そうですね。小学生の頃から男子が好きだったかな。高校の時、一度、付き合った先輩もいました」
「オイさんには打ち明けないの?」
「それは。はい」
「そんなの切なくない」
「言っても仕方ないから。仕事がしずらくなるだけだし。彼は女性が好きなわけだし」
オレはちょっとばかし、イライラしていた。いや、かなりかな。部屋の中へ戻り、煙草をもみ消した。
「だから、浅尾はよ。適当な相手をとっとと見つけりゃいいのさ。そういう場所行けば、ゲイのオトコだってそれなりにいるんだしよ。なのにお前は、現場と漫画喫茶と映画館にしか行かねぇから」
「だって、他に遊ぶ場所を知らないんだから、しょうがないよ」
「しょうがないで済ませてたら、世の中渡っていけねぇぞ」
「どうせ、自分は臆病者ですよ」
浅尾が口を尖らせてすねた。それから、ちょっと恥ずかしそうに付け加えた。
「でも、自分、オイさんとキスくらいはしたいんですよね。これ、恥ずかしいけど、本音です」
「そうだよね。そん位は思うよね」
「馬鹿か。お前らは。現場は仕事するとこで、いちゃつくとこじゃねぇぞ」
オレは断固言っておきたかった。オレは植木屋の仕事が好きだ。変な言い方かもしれないけど、現場はオレにとって清らかな場所なんだ。そこで、好きとか嫌いとか、ごちゃごちゃして欲しくない。それもオトコ同士で。だけど、そんなオレの偏った考えに猛烈に笛子は反論した。
「そんな言い方ないんじゃない。職場恋愛って普通だし、男と男だってそういう気持ち持つの普通だし。それを色眼鏡で見て止せなんて言うのは、それこそ、差別だし、偏見だし」
「オレは差別もしてねぇし、偏見も持ってねぇ。ただ、オイさんはオンナが好きなんだ。だから、諦めろっつうんだ」
「あんた、馬鹿なの」
いつもより、強い調子で笛子が言い返してきた。
「好きって気持ち、そんなに簡単に抑えられる訳ないじゃない。それに好きな人とキスしたいって、物凄く自然な衝動じゃない。ゲイだから諦めろとか、オンナだからおとなしくしてろとか、そんなの絶対、あり得ない」
笛子の意見の方が多分、正解だ。だからってすみませんなんて言わねぇぞ。
ひょっとしたら、そん時、オレはタチの悪い酔っ払いになってたのかもしない。
「ねぇ、浅尾。オイさんとキスする方法、考えよう。わたしたち、手を組もう」
「うわ、自分、嬉しいかもしれません。はい」
「よし。乾杯しよう」
笛子はガツンと浅尾とグラスを合わせた。二人とも、酔った目がガラス玉のようにキラキラ光っていた。
馬鹿やろ。勝手にしろ。
翌朝、笛子のチャㇼが駆けつけた時、親方の訓示は既に始まっていた。空はよく晴れて、今日も暑くなりそうだった。
「こら、遅いぞ」
オイさんが睨んだ。親方は、最近腰のヘルニアだとかで、月の半分は現場を休んでいる。今日も仕事には出ないつもりなのか、部屋着のジャージ姿だった。
「○○公園の伐採と剪定は三治に任せる。今日も施主様や木を見る方たち、花を見る人たちの心根に沿うよう励め」
「ウッス!」
職人らが声を揃えて返事をし、それぞれの現場に散りかけた。吉野さんが笛子のヘルメットを叩いた。
「センセー、何で遅れた」
笛子は低い声でやけにはっきり答えた。
「はい。オイさんのためにお昼のお弁当を作ってたからです」
職人らの動きが本当にストップモーションのようにピタリと止まった。親方もだ。言われたオイさんは、へ? と口を開けている。
「もててるな。オイさん」
吉野がからかった。
「なしなし。自分、かみさんいますから」
オイさんが笑わず答えた。
「知ってます。でも、わたし、ひねくれ者だから、禁断の恋に憧れてるんです」
笛子は笑わず、声高に宣言した。その真面目な物言いが滑稽で、職人らがドッと笑った。ヒューヒューと指笛を吹くものもいた。オレは訳が分からなかった。昨夜、浅尾と手を組むと言ってたのに何だ。浅尾もポカンとしてた。