「楽園の庭」第一話
言っておくが、オレは決して粗暴な人間じゃない。人を怒鳴ることもあんまりない。他人と意見が対立したら、なるべく穏やかに筋道立てて自分の考えを相手に伝え、相手の言い分もきちんと聞いて、お互いに歩み寄って方向性を決めたいタイプだ。断じて、相手を罵倒したりはしたくない………。
なのに。
「てめぇ、何ウロウロしてんだ。出だしで躓くんじゃねぇ」
「だから、どうしたらいいか説明しなさいよっ」
「一々、説明されなくったってな。今日の仕事の段どり考えりゃ想像がつくだろうがっ」
「つかないから言ってんのよ。あんた、馬鹿なの」
「何だとぉ。てめぇ、何様なんだ。馬鹿とはなんだっ。舐めんじゃねぇぞっ」
ここ一カ月間、オレの勤める「竹井造園」の事務所の前で、毎朝うんざりするほど繰り返されているのが、オレと笛子のこの言い争いだ。もう、たまんねぇ。
オレたちのチームの頭である袴田さん、通称オイさんは、二トントラックにもたれて煙草の煙を吐きながら高みの見物を決め込んでいる。ゴマ塩頭の下の眼は武者人形のようにりりしい。けどこの人は、この面構えを裏切って、案外軽薄だ。年は五十代の頭。
一方、最年少、二十三歳の浅尾は、外仕事よりも美容師でもやってた方が似合いそうな細身だ。困ったように首を傾げ、オレと笛子のやり取りをハラハラ見ている。
そもそも朝礼が始まる前、オイさんが笛子に
「今日はケヤキを剪定するから、新しいチェーンソーを用意しとけ」
と、命じた時にちょっと言葉を添えてくれればよかったんだ。チェーンソーだけでは事は足りない。今日一日の仕事を考えて、他にどんな道具が必要か考えろ、と。
もっと遡れば、一カ月前、笛子が入社したその日に、オイさんから
「笛子ちゃんの教育係は、祐二、お前だからな。頼んだぞ」
と、言われた時に断っておけばよかったんだ。うちに初めて入った「オンナ」の職人の世話なんてオレには出来ません、と。
今更言っても遅いが、おかげで、どんなに爽やかな朝でも、腹の立つやり取りをしなけりゃならない羽目になってしまった。
もちろん、笛子が特別にとろいわけじゃない。新人の植木屋なんて、みんなこんなものだ。ハサミの使い方が上手い下手の前に、その日の作業でどんな道具が必要なのかが判らないのだ。ただ、外仕事の現場では、見て覚えろ、が暗黙の了解だから、オレたちは手取り足取り教えてはやらない。
ところがだ。ショートカットで、やたら目力の強い笛子は、毎朝「ちゃんと教えなさいよ」と迫って来る。「てめぇで考えろ。ふざけんな」と、怒鳴っても、びくともひるまず、倍、言い返して来る。オレよりひとつ下の二十六歳にオレは完全に舐められている。
これは中堅の職人の三治さんから聞いたのだが、何でも笛子はうちに入る前は中学の教師だったとか。まあ、生徒の前で教えていた立場の人間が、いきなり、使いっ走りをやらされる訳だから、文句を言いたくなるのは判る。けど、オレだって、この仕事に就いて、もう七年だ。庭師と職業欄に書くのはまだ早いが、職人としてはそれなりに通る腕だと自負している。そのオレに向かって「馬鹿なの」はないだろう。それに、笛子は上背がある。百六十八センチのオレと比べると、笛子の方がちょっとだけでかい。だから、余計ムカつく。
「てめぇが準備するまで、オレらは出発できねぇんだぞ。それでもいいのかっ」
オレがギョロリ目をむいて言い放つと、笛子はとっくに現場に出発していないといけないトラックの前を、動物園の白クマのように右へ行ったり左に行ったり。目をしばたたかせながら、懸命に考えている。
浅尾が見かねて、笛子に走り寄って囁いた。こいつは職歴二年だが、今日必要な道具は判ってるし、それに、とても優しい。
「自分がチェーンオイルを足しますから、剪定に使う脚立とロープを積んで下さい。後は小屋で説明します」
笛子はホッとしたのか、寄せてた眉を開き、長い脚で道具小屋へ浅尾と一緒にダッシュした。
走り出したトラックの中で、オイさんが薄笑いで煙草の煙と一緒に吐き出した。
「あのね。笛子。お前に高度な仕事なんて要求してないのよ。オイらがスムーズに作業出来るように下仕事してくれたらそれでいいの。気回しがお前の仕事」
「その気回しだって教わらないと判りません。判らないわたしが馬鹿ですか。それとも教えないこの祐二さんが駄目なんですか」
「口答えすんなっつってんだろ。この仕事はな。ガッコのセンセーと違って、体動かしてなんぼなんだよ」
また怒鳴ってしまった。
トラックの前に広がる二月の空は、先週、雪が降ったとは思えないほど、陽光に溢れ、青く晴れあがっている。通り過ぎる住宅の庭にはほころびかけた梅の花もちらほら見えていた。陽射しがぬくもりで一杯の季節がすぐ近くまで来ているのが、深呼吸ひとつでわかる。だけど、こんなんじゃ気分はどんより憂鬱なままだ。オレはついついため息が出た。
オレらが勤める「竹井造園」は小田急線沿線のN駅から歩いて十五分ほどのところに事務所を構えている。抱えている職人は全部で十一人。職人らの一日は、事務所の前での朝礼から始まる。裾の広がったニッカポッカに地下足袋姿のいかついオトコたちがずらり並ぶとそれなりの迫力だ。中にはボンタンジャージで決めているしゃれ者もいる。
点呼があって親方の訓示がある。親方、つまり、「竹井造園」の経営者である竹井徳一は六十代後半。祖父の代からの植木屋で、外仕事を四十数年続けてきた皺の多い赤黒い顔は、笑えば愛嬌が滲む。だが、職人らを前にした時の目は獰猛な猛禽類のように険しくなる。今日の訓示はこんな具合だった。
「今日の天気。くもり。温度は昼には十度。風は北東より四メーター。事故のないように。施主様や木を見る方たち、花を見る人たちの心根に沿うよう、今日も一日励め」
「ウッス!」
職人らは野太い声で揃って返事をすると、今日の作業の準備をする。そして、都が管理施工する公園や個人宅など、それぞれの現場に大体三人一組で向かうのだ。
トラックで三十分ほど走り、今日の現場に到着した。住宅街の真ん中を走る二車線の道路だ。笛子は飛び下りるとすっ飛んで後ろからついて来ていた浅尾のトラックへ向かった。浅尾と二人で積み込んでいたカラーコーンをおろす。ブルーシートを取り出す。ここまでの動きはまあまあいい。
葉を落としたケヤキがパッと見て右左に三十本は並んでいる。樹高は五メーターほどで赤茶色の幹がむき出しだ。ケヤキなどの剪定は新芽が出る前に行わねばならない。二月末の今の時期がギリギリのラインだ。
浅尾が通行人の通路を確保するために、カラーコーンを置いて行く。その動きよりオイさんは素早い。笛子がケヤキの下にブルーシートを広げようとした時には、既にハシゴを立てかけて木の上にいた。笛子の用意したロープをケヤキの幹にかけ、バランスを取りながらのすばやい動作だ。オレも負けじとハシゴを昇った。
下にいる笛子と浅尾の仕事は剪定されて落とされた枝をハサミを使ってトラックの荷台に乗る大きさに切断することだ。浅尾がノコギリを手にして、いつもの柔らかい口調で説明しているのが聞こえる。
「笛子さん、自分らは道路にはみ出た枝から処理しましょう。万一、走ってきた車と枝が接触したりすると大変だからね」
オレは下の二人の動きにそれとなく気を配りつつも、枝を落とし始めた。すると、しばらくして変な声が聞こえて来た。豚が鼻を鳴らしているような。見ると「ゔー、ゔー、ゔー」と笛子が呻っている。
二メーターを越える枝は浅尾が、笛子はそれより短いものを剪定ばさみで切っていた。ここで豆知識をひとつ。通常の剪定作業で枝葉を落とすことを「切る」というのだが、植木屋には「忌み言葉」といって、縁起をかついで「切る」よりも「落とす」「飛ばす」「縮める」なんて風に言い換える習慣がある。まあ、けど、分かりやすくするために、時々は「切る」と言わせてもらうことにする。因みに「刈る」は刈り込みバサミを使う場合に用い「伐る」は木を根本から倒す場合の「伐採」や「伐倒」に使う。
ともかく、華奢な浅尾が大胆にバツンバツン切って行くのに比べ、学生時代、ハンドボールをやっていたとか言ってたが、笛子は腕力、握力が圧倒的に足らないと見える。一本切るのにウーンと力をこめてもなかなかバサリといかない。ブツン……ブツン……ブツン。何ともじれったいスローな動きで「ゔー、ゔー、ゔー」と繰り返す。
「お前、何やってんだ!仕事が進んでねぇじゃねぇか!」
言われなくても分っているわよ、とでも言いたげに、笛子はジロリ、オレを見上げた。やはり、目力が強い。
「さっさと運べよォ。笛子ちゃんッ」
見かねたオイさんも声を出してくる。笛子は勝ち気な顔になって、両足を踏ん張り、何とか力を入れて枝を切り、それを抱えて道の端に運んだ。だけど、ここからが又、大変なんだよな。
落した枝をロープで縛り、束にした枝をトラックの荷台に投げ入れなくちゃいけない。これに相当な力がいる。浅尾は涼し気に枝の束を放り投げて行く。その横の笛子は、青息吐息だ。
十時の休憩時になると、笛子はもう、一歩足を前に出すのも億劫な様子だった。ほら見ろ。
昼が過ぎ、午後になると木の上にいるオレですら、疲労で腕を上げているのが辛くなって来る。こういう時が危ない。案の定、集中力が落ちて、足もとがふらついたのか、枝の束をオイさんの乗ったハシゴに思い切りぶつけた。
「馬鹿野郎、落ちたら死ぬんだぞ!」
オレが思わず怒鳴ると、浅尾が「すみませんでした!」と謝った。あれ? ぶつけたのは浅尾なのか。だとすると、笛子は? 首を反対側に回して見ると、笛子が落とした枝の束をひょいと肩に乗せ運んでいた。トラックの荷台に向けて、手際よくポーンと投げ込んでいる。短い時間に要領を飲みこんだみたいだ。疲労はピークに達しているはずなのに、粘ってよく動いている。八割は気力だろう。オレはちょっと感心したが、無論、それは口に出さない。
五時になって現場を離れた時には二トントラック二台分、落とした枝が山盛りになっていた。
「竹井造園」の二階建ての事務所にはホワイトボードがあって、職人は現場から戻ったら、自分の名前の札を裏返すことになってる。オレが名札に手を伸ばすとオレの頭の上ににゅっと笛子が手を出して来た。オレは反射的にがなった。
「オレの頭の上に手を出すなっ」
「あんたがちびだから、自然とそうなんのよ」
笛子は悠然と札をひっくり返した。あんまり的を得た意見だったから、オレは顔がひきつった。背はちっちぇが、肝っ玉はそこそこのつもりでいる。そんなオレのプライドを笛子は粉々にしやがった。言うに事欠いて「ちび」とは何だ。すると、電話番の久美子さんの横で競馬新聞を読んでいた三吉さんが笛子に声をかけた。
「笛子よぉ。そのでかい胸に触らせろや」
オレは思わず、心の中で「それ、禁句」と呟いた。けれど、現場であれほど噛みついて来る笛子が、変に優しい顔で三吉さんの手元を覗いている。
「三吉さん、このレッドなんとかっての買うといいよ。きっと、当たり馬券になるから」
笛子はそれだけ言って、静かに事務所を出て行った。
セクハラ発言なのに許すのか、と少しひっかかった。考えてみると笛子は最年長の三吉
さんとだけは世間話をする。あとの職人たちには、みんな敵と思ってるみたいに攻撃的だが。まあ、三吉さんは、親方と同年代の古株ってことで、遅刻してきたり酒くさかったりしてもみんなに知らん顔してもらえる特権階級だが。
笛子がうちの親方の面接を受けたのは、一年近く前の三月だったそうだ。最初は求人案内のサイトで「植木職人募集」の文字を見て、「竹井造園」に電話かけて来たらしい。親方はオンナが相手だったから「人の奥方になる方に怪我はさせられませんから」と親方らしい言い回しで断った。ま、早い話、女性差別だ。だが、笛子は今度は事務所までやって来た。「竹井造園」が施工、管理している公園を見に行ったら、働いてた職人の動きが素早くて感心した、と我慢強く入社を希望したらしい。
「私、絶対、怪我のないようにしますから」と粘ったそうだ。
だが、親方は「基礎のない方はうちではとりませんので」と、再度、断った。
それでも笛子は諦めなかった。四月から豊島区にある職業訓練校に半年近く通い、植木屋の基本を教わり、また、うちを訪ねて来た。親方もとうとう折れて、年を越して二月に入社となったわけだ。
そこまでして笛子が植木屋見習いになりたかったのは何故なのか。そもそも中学の教師と言う安定した仕事から転職してきた理由は何なのか。オイさんも他業種からの途中入社組だが、元教師は珍しい。笛子の図々しさに腹を立ててたオレは、この時、笛子が抱えてた特殊な事情に全く目がいってなかった。
とにかく、今日も一日が終わった。帰ってビールでも飲むか、と帰り支度をしていたら、吉野さんが仕事を終えて入って来た。吉野さんは「竹井造園」のナンバー2で、プロレス好きのスキンヘッドはなかなかの存在感だ。吉野さんが頭を務めるチームはうちの一軍だと言っていい。大切な現場には大抵、吉野さんが参加して、睨みを効かせる。
「祐二、明日、S学園大学の庭をやるぞ。オイさんらと一緒に来い」
オレは自然と前のめりになった。
「ホントですか。オレ、頑張ります!」
S学園の仕事は今日の街路樹の剪定とは違う。オレは今夜は酒は抜いて、ハサミをしっかり研ごうと決めた。
翌朝、あてが外れた。S学園大学へ行くのは、オイさんとオレと浅尾と笛子。つまり、オレが吉野さんたち一軍チームに参加しての作業じゃなくて、吉野さんだけが二軍のオレらに合流するのだ。
まあ、いい。オレはそれでも胸が高鳴りやる気が漲った。久しぶりの本格的な日本庭園での仕事だからだ。
陽光は温かく、風のほとんどない穏やかな日よりだった。S学園大学の校門を抜けるとすぐに校舎を背にした大きなクロマツの老木が目に飛び込んで来た。樹高はおよそ八メーターと少しか。枝が斜め四方にゆったりと伸びた樹形は品があって美しい。この木を主木として、芝庭と伝統庭園を組み合わせた庭だ。他にはアラカシ、桜、その周りを木犀類やツツジ類の玉ものとクサツゲ、タマイブキが植えられている。この時期だから芝は枯れて茶色い。が、ずっと眺めていると自然と顔が和む魅力のある庭だ。四月になって新芽が伸びてくれば、アッと声が出るほど目に鮮やかな緑が一面に広がるだろう。
登校してきた女子大生らが、物珍しそうにオレたちが始めた作業を見ている。
今日はクレーンも持ってきていて、オイさんがそれを操っている。クレーンの先のアルミ製のゴンドラには吉野さんが乗りこみ、下で誘導するオレと声をかけあって、セッティング場所を決めている。じきに吉野さんがハサミを使い始めた。さすがだ。チャキチャキとリズミカルだ。
あとで聞いたところによると、オレが吉野さんの技を盗もうと目を凝らしていた間、笛子と浅尾はこんな会話をしてたらしい。
「今日はクロマツの剪定をやるの?」
「今日はもみあげです。分ります? お日様の光を枝の内側に当てるために、枝の先の葉を残して、下の葉を刈るんです」
「わかった。だったら、わたしは刈り込みをやる」
笛子は勢い込んで刈り込みバサミを手にしたらしい。慌てた浅尾が止めた。
「いや、笛子さんには木蓮の剪定の方をやってもらわないと………」
剪定バサミは親指ほどの太い枝を落とす片手用のハサミで、これは案外使い勝手がいい。けど、刈り込みバサミは意外と厄介だ。今日までの作業で、笛子は「刈り込みバサミ」を使ったことはなかった。だから、浅尾は無理はさせまいと止めたんだ。だけど、笛子は耳を貸さず、両手バサミを持って、そばにあったモクセイの形を整えにかかった。ザクッとハサミが入った。
オレの目の端に、笛子が手を動かし始めたその姿が入った。眉根を寄せた真剣な眼差しで刈り込みハサミの先を大きく動かしている。けど、右手と左手の力のバランスが取れなくて、刃が明後日の方角に進んでいきつつあった。ハサミの重さに負けて扱いきれてない。もたついている所にオレは大急ぎで駆け寄った。
「こら、お前、何やってんだっ」
あたりに聞えぬよう、小声で叱咤した。
「刈り込みバサミ使っていいって誰に言われた」
「誰にも言われてないけど」
「ならやめろッ。今日は現場に吉野さんもいるんだぞ。お前が好き放題をすると、今日までオレたちが何教えてきたかって言われるじゃねぇか」
オレは背後の吉野さんをチラチラ見つつ続けた。案の定、笛子は反発してきた。
「でも、使う練習しなきゃ、何時になっても上手くならないじゃない。それだと、余計、吉野さんに怒られるよ。あんた」
この時ほど、腹が立ったことはなかった。これじゃ、素人の身勝手さ丸出しだ。職人としてのわきまえがまるでない。
「あのなあ。仕事の現場は新人が練習する場じゃねぇんだよ。お施主さんから頂いた仕事を丁寧にさせて頂く場所なんだよ」
これは本当に職人にとっての「いろはのい」なのだ。オレは「もうここまでだ」と思った。こいつは職人になる資格はねぇ。すぐに辞めるべきだと。
オレが目を三角にしたのが聞こえていたらしい。オイさんの声がした。
「こら、そこ、どうしたッ」
ゴンドラの上の吉野さんも訝し気に手を止めている。
「祐二、何やってる」
「もうやってられません」
怒りにまかせて吐き出すと、オイさんが、トラックから降りた。
「やってられません、じゃねぇぞ。何をモタモタしてんだ」
こちらへ歩いて来たオイさんからは、いつものヘラヘラ笑いは消えていた。仕方なくオレが説明した。
「このオンナが勝手にハサミを使ったんです」
ヒヤヒヤしながら見ていた浅尾が口を挟んだ。
「笛子さんは熱心なんです。ハサミを上手く使えるようになりたいから、それで使ったんです」
「黙れ」と浅尾を睨んだオイさんは「笛子、祐二に逆らうな」と低い声で命じた。
「でも、あたしだってハサミ使いたいです」
笛子が何時ものように言い返した次の瞬間、オイさんは手にしていたタオルをしならせて、思い切り笛子の鼻の頭をはたいた。ぴしゃっと音が鳴った。おそらく鋭い痛みが走ったのだろう。笛子が鼻の頭を押さえ、顔をしかめた。体がこわばっている。
「クソ新米が」
オイさんは吐き捨てた。更に今度は、笛子の地下足袋を履いた足を力まかせに蹴った。相当痛かったのだろう。笛子はへなりとその場に崩れて倒れた。オレも浅尾も一言も発しなかった。オイさんは倒れ込んだ笛子の手から無言でハサミをひったくると、浅尾に渡して持ち場へと去った。度肝を抜かれたのはその後だった。
「ゔおおおおお。馬鹿にするなぁぁぁぁぁ」
オレがかって聞いたことのない声を上げて、笛子はアメリカンフットボールの選手のように、歩き出したオイさんに突進したのだ。ギョッとなって振り返ったオイさんの腰に、頭から全力でぶつかってしがみついた。
「新米を、馬鹿に、すんな、すんなっ」
腹から出て来る一言一言が石礫のようにオレたちに向かってぶつかって来た。オイさんは危うく笛子に押し倒されるとこだった。オレと浅尾は必死で笛子を引き剥がした。
「て、てめぇなんだ」
オイさんもすっかり顔色が変わっていた。
「笛子、謝れ!」
動転したオレは、笛子の体を明後日の方角に突き飛ばした。その時、ようやく、オレは気付いた。笛子の両目から涙がぼろぼろこぼれていたのを。ぽかんとなったオレを睨みつけた笛子のへの字になった眼は、ちょっと忘れられない。
その晩、オイさんは笛子とオレと浅尾を居酒屋に誘った。珍しい。今日の現場の一部始終は吉野さんも見ていた。オイさんは何か言われたのかもしれない。ひょっとすると、笛子にクビ宣告があるかも。そんなことを考えながら、オレは笛子と浅尾の前に立って、オイさんが指定した駅ビルの二階にある大衆居酒屋へと入った。
「こっちこっち」
オイさんが隅の席でヒラヒラ手を振っていた。昼間とは打って変わって柔和な顔立ちだ。
「祐二、生でいいか。お前らもいいな」
オイさんは混みあう店内で、空いたテーブルを片づけている店員に、生三つと声を張り上げた。オレも素早くメニュウを開き、テキパキとつまみを注文した。以前も思ったが、飲み屋にいるオイさんは現場でいる時とまるで目の色が違っている。根っからの酒好きなのだ。にこやかにビールジョッキを撫でている。けど、この顔で笛子に死刑宣告する可能性もある。ま、それはそれで仕方ない、オレはちょっと冷たく先読みして「じゃ、乾杯しましょう」と声を上げた。
生ビールで乾杯した後、座持ちはオレの役回りだと思って、袴田さんが何で、オイさんと呼ばれるようになったかを語って聞かせた。
オイさんは東京の下町の出身だ。そのせいか自分のことを「オイラ」と言う。酔うと「オイラ」の「ラ」の字が面倒になって「オイはさ」「オイはね」と言い出すのだ。それで「オイさん」。
「そんなことより、本題に入りましょうよ」
笛子が一ミリの愛嬌も見せずに、切り返してきた。
「話があるんでしょう。わたしに。言って下さい」
笛子は正座してオイさんの言葉を待ってる。
オイさんはビールを飲み干すと笛子の顔を真っ直ぐ見た。
「今日はカッとなって悪かった。すまん」
え? と笛子は戸惑ってた。オレも耳を疑った。
「掃除ばっかりやらされちゃかなわねぇやと思うのは当然だ。みんな、庭作りたくてうちに入ってきてんだからな。オイもそうだった。一年目はその掃除すら満足に出来ねぇで、親方や先輩にぼろっかすに言われてた。何時、クビになるか怖くてしょうがなかったよ」
笛子は息を詰めて、じっとオイさんを見詰めている。
「みんな同じなんだよ。ハサミ使いたい。剪定を覚えたい。庭づくりがしたい。けど、ものには順番がある。掃除と後片付けが出来るようになるまで、修業だと思って耐えろ。我慢しろ」
「………」
オイさんの声音が優しいのにさらにオレは驚いた。軽薄なキャラに見せてるけど、案外、器のでかい人だってことなのか。けど、オレは納得がいかなかった。こんな結末でいいのか。ところがだ。オレの思惑の上を笛子は行った。無言でビールを飲み干すと、こう言い放った。
「今の謝罪は正解よね。だって今日のアレは、完全なパワハラだったもの」
何だとォ。こいつ、何を言い出すつもりなんだ?!
「わたしが暴力を振るわれたことを厚労省の窓口か都道府県の労働局に訴えたら、竹井造園は糾弾されるのよ。今回はわたしもそこまではしないけど、二度目はないと思って」
笛子はのそりと立ち上がり、千円札を一枚置いて、店を出て行った。
怒髪天を抜く、と言う言葉を、オレは生まれて初めて実感した。ホントに頭が熱くなるほど、腹が立った。一体、何様だと思ってやがる。
「あの野郎、辞めさせられて当然なのに、何言い返してやがるんだっ」
すると、オイさんがさして慌てた様子もなく、オレに告げた。
「追いかけてって、明日も来いと云ってやれ」
「何で?」
「いいから行け!」
怒鳴られたオレは、オイさんと浅尾を店に残して、笛子を追いかけて、外に出た。
笛子は歩道をスタスタ去っていこうとしている。それに駆け寄り、その肩をつかんだ。
「待て。お前、普通ならクビだったんだぞっ」
「わたしは間違ってない」
オレの手をふりほどき、ズンズン笛子は歩いて行く。
「いい加減にしろ。何で一々、逆らうんだ。オイさんはお前を思いやって、親切に言ってくれたんだぞ。それに対して何だ」
「でかい声出さないでよ。恥ずかしい」
確かにオレは駅前のロータリーで大声で笛子に説教してた。腹が立ってしょうがなかった。こいつは何でこんなに態度がデカい。
「戻って、オイさんに謝れ」
笛子はオレを振り切るように大股で歩き、知らん顔でコンビニの店内に入った。オレは半分意地になっていた。笛子を追いかけて店の中へと続いた。アイスのケースの前に直行した笛子を怒鳴りつけようとオレは背後に迫った。その時、ドヤドヤッと塾帰りらしき制服姿の女子中学生の一団がやってきた。雑誌コーナーの方へプラプラ歩く者、笛子の脇からアイスのケースを覗く者、全部で十人近くはいたか。
「やば」
「ウソォ」
「マジ、ウザイ」
何がおかしいのか、体をくの折り曲げて笑っている。オレの目に見えたのは、手にしたアイスキャンディをケースにボトンと落とした笛子だった。背中から緊張感が伝わって来た。横に立って顔を見ると、呼吸が妙に荒い。唇も歪んでるし、手先は細かく震えていた。おかしい。どうした?と声をかけるより先に、笛子は店から飛び出た。
ロータリーを突っ切り、住宅街へ続く細い道を笛子は小走りに走った。がらんとした駐車場まで来ると、立ち止まり屈みこんだ。夢中で追ってきたオレは、笛子の息が整うまで、傍から離れられなかった。
「どうしたんだ?」
「………」
「苦しいのか」
「………」
「何で、中学生にびびるんだよ」
「………」
笛子の顔がのっぺりと白くなっていた。表情がなくて、空虚な顔。
オレはこれ以上話しかけるのをためらった。
「………ちょっと気分が悪くなったのよ」
笛子は低い声を喉から絞り出した。じきに血の色が戻り、何時もの負けん気の強い顔に
なった。
「わたしのアパート、こっちだけど、うちまでついてきたりしないでよ。パワハラの上に
ストーカーじゃ笑えないからね。バーカ」
オレの横顔にパンチを入れるマネをしてから、笛子は歩き去った。
オレには精一杯の虚勢に見えた。何なんだ?アレは。あいつは、腹ん中に何か黒いモノを
抱え込んでいる………。
居酒屋に戻って、オレは正直に云った。「オイさん、あの女はもう諦めましょう」と。
「無理ですよ。職人としての心構えが全然出来てません。教えるこつちだって人間です。
あれじゃ、全然、応援してやる気になれません。あの性格で現場仕事は無理です」
オイさんは酔いが回った様子で赤らんだ顔をしてた。けど、切れ長の目は何か言いたげ
にオレをじっと見ていた。
「そう簡単に人を切るな」
すぐには意味が分からなかった。
「祐二、何のための教育係か分かってないな」
「……?」
「お前が勉強熱心で有望な職人なのは認める。けど、お前は周囲に混じっていこうとしねぇよな」
「――」
「現場仕事は協同作業なんだ。お前みてぇに世間話のひとつもしねぇ、下のやつを飲みに連れてくこともしねぇ、じゃな。現場は回っていかねぇのよ」
オレは物凄く戸惑っていた。え、オレが説教されんのかよ、と。
「それに男社会の植木屋も変わんねぇといけないと時期なんだ。もっと融通利かせてやっていけ」
「いや、けど」
「お前が笛子を育てるんじゃねぇんだ。笛子にお前が育ててもらうんだ」
「……」
胃袋で石を消化しているような気になった。冗談じゃねぇぞ。納得いかねぇ。
全然、全く。
翌日もS学園大学が現場だった。吉野さんとオイさんはテキパキと仕事をこなし、笛子
もおとなしく浅尾に従って、ハサミを入れた植木の下の掃除に励んだ。浅尾に聞いたら、
オレが帰った後、オイさんは、「笛子は面白れぇなあ」と言って、ドンドン飲んだそうだ。
今朝も昨日のことを引きずってる様子はない。けど、オレは物凄く引きずっていた。執念
深く、オレは腹を立てていた。
昼休憩になると、吉野さんとオイさんは、学食で食うからと校舎に入って行った。
「女子大生と飯が食えるチャンスなんて滅多にないからな」と。
オレと浅尾と笛子は庭でコンビニ弁当だ。下っ端はそんなもんだ。けど、ここでオレはどう振る舞うか、内心、かなり考えた。
結論。こいつは試練として受け入れるしかねぇ。これはオレの器の大きさが試されているんだ。ムカつくのをねじ伏せて、オレから話しかけた。
オイさんの口癖を笛子に聞かせてやった。出来るだけ面白く。
オイさんは若い時は映画の世界にいたらしい。制作や助監督の仕事をたくさんしていて、海外ロケにも何度か行ったとか。だからか、オイさんは酔うとよく言う。オイは「風俗」のオンナと「飲み屋」のオンナと「女優」にしか手を出さねぇよと。
「カッコイイよね」
そばにいた浅尾が箸を止めて、うっとり空を見ている。
「つき合った女優って誰だろうね」
浅尾はオイさんを尊敬しているのだ。
「馬鹿みたい」
笛子が食べ終わった弁当の箱をつぶしながら見下したように呟いた。
「風俗通いを勲章にするなんて、悪趣味よ。もてないオトコの空威張りよ」
これは割と簡単にスルー出来た。ここに来て、ちょっとした覚悟のようなものが出来たのかもしれない。こんな笛子を調教するのが、オレの役目なんだと。よし、この態度を少しずつ変えさせていってやる。
「なあ、笛子。お前、本当に感じわりぃぞ」
「思ったこと、言っただけじゃない」
「ほら、そうやってすぐ言い返すし」
「これがあたしのやり方なの。好かれるために仕事してんじゃないもの。教師ん時は父兄やなんかに気を使ってたけど、もう、人の顔色見るのはいやなの」
なるたけ穏やかに言ってやろうと思ってた。
「そういう態度が駄目なんだよ。私を甘く見ないで、みたいな、自己主張がガンガン前に出てて、邪魔くせぇんだよ」
笛子は、あんたに好かれたかないわよと言いたそうだった。
「何か原因あんのか。あるんなら話してみろよ。そのまんまだと皆に嫌われるぞ。現場仕事は独りでやんじゃねぇからな。たまには弱み見せたり、愛嬌見せたりしねぇとやってけねぇぞ」
自然に言ったつもりだった。だが、笛子は直球で言い返してきた。
「よく知らないあんたになんか、打ち明け話なんか誰がすると思うのよ。バーカ」
笛子はひらり立ち上がり、弁当箱を鞄に突っ込むと、ぐーんと伸びをした。こいつはやっぱりでかい。背丈も態度も。やっばり、むかついた。
「お前、可愛くねぇぞ。もう現場くんな!」
「ちびが切れてんじゃないわよ。バーカ」
ちっ。こいつの操縦は想像以上に難しい。やっぱ教育係は勘弁して欲しい。
五月になった。早いもので笛子が入社してから三カ月が経った。この日は給料日で、明細を事務所で親方から貰う決まりになっている。何年経ってもこの日は緊張する。三吉さんの次にオレは親方の前に立った。親方は「一緒に夕飯食ってかないか」と皺だらけの顔を緩めて、オレを誘った。
「あんたとご飯食べたって、気詰りなだけよ」
事務所の裏に建ててある三階建ての一軒家が親方夫婦の住いだ。そこからエプロン姿でやってきていた奥さんが、間髪入れず親方を遮った。
「その代わり、お風呂入って行きなさいよ。先週、リフォームが終ったばかりで気持ちいいから」
親方も奥さんはこうして時々、親切な言葉をオレにかけてくれる。結婚した娘さんが関西に住居を移してほとんど帰って来ないので寂しいのだ、とオイさんが言っていた。
「全面ホーロー張りでミストシャワーもついているのよ。アパートのユニットバスよりはいいでしょう」
きっと段違いに快適だろう。オレは黒い松ヤニがこびりついた手の指を眺めながら、湯舟に浸かった自分を想像した。お言葉に甘えて、と言うより先に奥さんが付け加えた。
「今、笛子ちゃんが入ってるから、その後にね」
「じゃ、いいっす」
オレは咄嗟にそう返事して、踵を返そうとした。笛子の入った後の風呂にどうして抵抗感があったのか、考えてみるとおかしいけれど。
「あの子、頑張ってるみたいね」
「ああ、それもこれも祐二がよく面倒見てるからだって袴田が言ってたぞ」
「オレは別に。ただ、ガミガミガミガミ言ってやってるだけで」
「そのガミガミが有難いのよ。ほら、うちは男所帯でしょ。わたしたち女衆が笛子ちゃんをかばえばかばうほど、男衆はイライラするばっかりじゃない。だから、彼女を長続きさせるには、憎まれ役をやってくれる職人が必要なのよ。助かるわ。祐二くんがいてくれて」
そうか。笛子の入社をよく思ってない職人が、オレ以外に結構いるのか。オレはちょっと留飲が下がった。今の時代にこんなセリフは大ヒンシュクなんだろうが、どうしても思ってしまうんだ。「女に何が出来る」って。
「オレは下を育てねぇと、オレの負担が減らねぇから言ってやってるだけです。笛子の味方をする気はないし、笛子の舞台まで降りてく気も全然ないです」
「いいの。いいのよ。祐二くんは、それで」
オイさんが言うように、オレ自身、笛子に育ててもらおうなんて気も全くなかった。
「あの子もあの子なりに大変なのね。うちのお風呂であの子、よく泣いてるのよ」
え、とオレはちょっと意外だった。
「きっと現場で叱られるのが悔しいんでしょうね。でも、面白いの。まるでね。動物が吠えるみたいに、ウォーン、ウォーンて泣くのよ。あれ、迫力あるわ」
奥さんも親方も愉快そうに笑った。
そうか。めそめそは泣かないのか。オレは変な納得の仕方をした。
「とにかく、時代に合わせていかないとね。頼むわよ」
オレはしぶしぶ頷いた。そこへのそりと笛子本人が現れた。作業着から上下のジャージに着替えていた。短い髪はまだ濡れていた。
「お風呂、ありがとうございました」
笛子と一緒に事務所を出ると、辺りはまだ空の青みがたっぷりと残っていた。入社当時と比べると、日が随分長くなった。吹き抜けていく薫風が清々しい。湯上りの笛子も気持ちよさそうで、憎まれ口も叩かない。
「一年で一番いい季節だよね。この仕事をしてなかったら、新芽がどんどん伸びて行くのを、こんなにリアルに感じることってなかったと思う」
「ああ、山の木の芽も、すげぇエネルギーで伸びてるもんな。現場に通ってると、一日一日、まるでハイスピード撮影を見てるみてぇに、葉先がぐんぐん伸びるのがわかる」
「凄いエネルギーだよね。馬鹿みたいな言い方だけど、神さまの奇跡を見てるような気がする」
「だな」
「わたし達の仕事って、そういうのをさ。すぐ傍で見られて、そのパワー分けて貰えるところが凄いよね。嬉しくなるよね。やなことがあっても、元気になれてる」
「そうだな」
オレたちはこんな普通の話をしたのは、この三カ月で初めてだった。もっと話せそうな気がした。が、見ると、事務所の前にパジェロが止まっていた。確かオイさんの車だ。
「笛子」
呼ぶ声に振りかえると、オイさんが道具小屋から出て来た。
「まだいたのか」
「奥さんにお風呂借りてたんです」
「そうか。ちょっと時間あるか」
オイさんは笑わずそう言った。
「乗れ」とパジェロに促した。笛子の顔が強張った。
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