エッセイ#67『犬と裸/応挙と蘆雪』
東京は東中野にある東京黎明アートルームへ、「応挙と蘆雪」という展示を観に行った。日本画や焼き物にはそんなに興味がない私が、観に行くことを即決した理由はズバリ「江戸の犬を見たいから」である。
江戸の犬、もちろんこれは作品名ではなく私が勝手につけた愛称だ。正しくは『柳双狗図』という長沢蘆雪の作品で、私はこれをネットニュースでちらっと見た際に一目惚れしてしまった。
普段は日本画にも犬にもほとんど興味を示さないくせに、その2つが合わさった作品にトキメキを覚えてしまうとは。固く閉ざされていた趣味の扉の鍵が、蘆雪によって解錠された記念すべき瞬間に立ち会った気分だ。残すは自分で扉を開くのみである。
東京黎明アートルームは閑静な住宅街の中にひっそりと佇んでいた。東中野駅から徒歩で10分程度の所にあり、ぼーっと歩いていたら見逃してしまいそうな程の溶け込み具合である。
と、ここでちょっとした事件が発生した。展示のポスターを撮影しようとスマホを取り出した際に、現在の時刻が目に入ってきた。15:30。東京黎明アートルームの開室時間は16:00までであり、最終入室は15:30までとなっている。つまり今がその時だ。
私はポスターの撮影を早々に切り上げ、早歩きで受付へと向かった。流石に突き返されるようなことはないと思うが、もし万に一つ受付係の機嫌がとんでもなく悪い日だった場合、帰される可能性も0ではない。そうなった場合、こちらも言い返すことは出来ない。
そんな最悪の想定をしながら辿り着いた受付では、親切丁寧な対応を受けた。時間がないからと急かす感じもなく、私はホッとした。なんなら2分後くらいに、もう数人が入室してきたが、特に咎められている様子もなかった。展示内容の雰囲気に合った、淑やかな受付である。入場券も名刺サイズで可愛い。
目当てであった「江戸の犬」(又の名を『柳双狗図』)は順路の終盤に展示されており、その部屋の中でも一番の注目を集めていた。
見れば見る程、愛らしい。ただ犬への興味は皆無に近いため、ここに描かれた仔犬が何という犬種なのかがわからない。ぱっと見はポメラニアンなのだが、18世紀の日本にポメラニアンがいたかどうかは定かでない。かと言って、柴犬や狆といった日本原産の犬にも見えないので、想像で書いた理想の犬なのかもしれない。ここはあえて調べないことにしよう。
「江戸の犬」以外で最も印象に残った作品は、円山応挙作の『行水美人図』だ。読んで字の如く、盥で水浴びをしている女性の後ろ姿が描かれた水墨画であり、お堅いイメージがあった水墨画からは想像もつかない「ゆるさ」を感じた。
ただ、少し気になったことがある。説明書きによると『行水美人図』は他の作品と違って、サインや落款印が見られないとのこと。詳しい経緯はわからないが、もしかすると応挙はこの絵を見られたくなかったのかもしれない。「女の裸を描きたい」という純粋な助平心だけで取り組んだ完全に趣味の作品を、縁もゆかりもない後世の人間がどこからともなく引っ張り出してきて、こんな立派な展示室に飾られてしまったのかもしれない。
そう思った瞬間に、そうだとしか思えなくなってしまった。
帰りに寄ったグッズコーナーで『柳双狗図』のグッズでも買おうかと思っていたが、それらしきものは見当たらなかったので、『行水美人図』のポストカードを購入した。
応挙が誰にも見られることなく自分のためにだけ描き上げた作品(と想像したもの)は、たった数分の内に私の手に渡ってしまった。