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エッセイ#60『天才児』

 天才児という存在に憧れがある。たまにテレビでも「英検1級に一発で合格した天才小学生」みたいな感じで紹介されている子供が出ていることがあるが、漏れなく腹が立つ。腹が立つということは憧れがあるということであり、自分には到底辿り着けない域であることを認めてしまっているということだ。

 私は現在、天才でもなければ子供でもないので天才児ではないのだが、母親がよく話す私の幼少期のエピソードを聞くと、もしかすると私は天才児だったのではないかと思えて仕方がない。
 例えば幼稚園児の時、私はドッジボールで球を当てられると、外野として参加するのではなく園庭の端の砂場で独り遊んでいたらしい。こうして文字に起こすと、ただルールを理解していない少年にしか思えないが、もしこれが天才現代アーティストの幼少期のエピソードとして語られていたら、いかにも天才児っぽい。

 幼稚園年長の時に、段ボールの板に粘土を貼り付けて写真立てを作ったことがあった。写真を真ん中に貼り付けてその周りを粘土でデコレーションするのだが、周りの園児達は当然ハートや星をかたどった粘土をくっ付けていた。しかし当時の私は「形」という概念を理解していなかったので、指でテキトーに変形させたグチャグチャの粘土を貼り付けていた。さらに絵の具も混ぜて使うものだとは思っていなかったので、その全部をチューブから出したそのままの色で塗装していた。それを今改めて見返すと、ボルダリングの持ち手にしか見えない。
 その「形」の中には「ちねり米」みたいに小さな「形」もあれば、ベースの板と全く同じ色の「形」もあったりと、今の私では絶対に思い付かないものばかりである。それに、裏側の塗装も奇跡的にコロンビアの国旗(🇨🇴)と同じカラーリングになっていた。コロンビアの国旗を知ってしまった今となっては、この塗り方は確実に出来ない。恐るべし、幼少期の私。

 私が今後天才的な何かになれば、この話も天才児エピソードとして扱えるが、このままではただのポンコツエピソードで終わってしまう。ただ、できればエピソードトークで笑ってもらいたいので、このままでも良いのかもしれない。

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