「自創自給」と名付ける生活

本、十三戸のムラ輝く

山形県金山町杉沢集落を舞台としての田舎あるいは過疎という文脈の中に流れる人々の輝き光放つ生き方の物語。
栗田ご夫妻の歴史と日常を綴りながらムラに生きることの素晴らしさが写真と共に描かれている。栗田さんが「自創自給」と名付ける生活は、儲かる農業の呪縛から解放され、豊かに暮らす農林業を目指すものだと言う。そして仕事を楽しくすることに心したと。
そしてタラの芽の生産地として品質日本一とまで言われる地域に育てるのだが、決して秘密主義に陥ることなく全ての情報技術をオープンにするという姿勢を貫く、さらには成功している地域や失敗した産地の山梨にまで出かけて将来への計画を立てる。(失敗の原因は連作であり、後継作物を模索し雪ウルイにたどり着く)
また今では珍しくはないかもしれないが、農業体験、民泊を通してムラの伝統工芸や山歩きのイベントを地元の老人に委託し大成功していく。そこにはJR東日本のホテルとの詳細な契約や計画の努力がうかがえる。そして杉沢は「面白い」という評判に繋がっていく。
ムラの入り口には「共生のむら すぎさわ」の看板に「自然と人間」「山村と都市」「歴史と未来」と書かれている。
こんなムラ作りの思想には内山節さんが大きく関わっていた。
栗田さんは内山さんの「山里の釣り」を読まれていて、その後の内山哲学に魅了され講演を御願いしたそうである。それも「とりあえず10年間つづけて」、これは「村では何でも10年が一単位」という栗田さんの思いからであり、1994年から「山里フォーラム」という名称ですでに10年を越えて行なわれている。
最終章は内山さんが書かれているが、非常に示唆に富む。ムラと言う言葉は輝きを見せていると言う。古い、遅れている、封建的といった常套句から、自然と結ばれた暮らしのある場所、人と人とが絆をもって暮らす、地域に受け継がれた文化がある、人々にさまざまな技や知恵がある場所である。と
そして「時間」と「とき」の違いを内山さんの東京での生活と上野村での生活で説明する。すなわち、時間とは自分が作ったスケジュールに従う生活、「とき」は食事が終われば畑仕事の「とき」があらわれ、夕方になれば釣りの「とき」が訪れる、また村人との会合の「とき」もある。そして、この「とき」のなかで自分の役割をこなしているうちに、一日が終わり、一年が終わる。村では「とき」のなかで、「事(こと)」が起きなければ無事である。自然が無事であり、村人の世界が無事であり、私のさまざまな「とき」が無事であれば、そこには何ものにも代えがたい無上の時空がひろがっている。ただしそれを得たいなら、村人たちは「とき」における自分の役割をこなさなければいけない。
そして、内山さんは最後に、杉沢でのどこの村よりも早く始めた取り組みを評価しつつ言い切ります。
だがここを訪れた人々が二度、三度とたずねてくるのは、この「新しさ」に魅かれて、ではない。その奥に流れている、保存されている何かが豊かさとは何かを感じさせるのである。私たちが失ったもの。しかし、いま取り戻したくなっているもの。それが杉沢という「村」には存在している。

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