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ネット無き生活 メディアについて思う

皆様ごきげんよう、記事執筆時現在、香川県にてネット・ゲーム依存症対策条例という条例が成立する見込みとなっています。
そんな折、私はネット料金を滞納するという失態を犯して固定回線が無くなってしまいました。
頼みの綱の携帯電話回線も通信容量を使い切ってしまい、現在最大300kbpsという超低速回線にて記事を執筆しております、ネットサーフィンも満足にできず、動画を見る事もできず、画像閲覧もできず、Twitterの閲覧がかろうじて可能な位の速度しかありません。
固定回線が復活するのは46日後の予定です、気が狂いそう。

今回はインターネットが無くなった状態になって気が付いた事や、ネットがまだ十分普及していなかった頃の所謂空気感のようなものを伝えていけたらなと思いこの記事を書いております。
記事の都合上自分語りが多くなってしまい見苦しい文章に感じられるかもしれませんが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

自己紹介

まずは私の記事を初めて読むという方に軽めの自己紹介をしておきましょう。
私は普段VR(バーチャルリアリティ)についての考案記事や案内記事なんかを執筆しており、VRChatというソーシャルVRに入り浸っています。
ソーシャルVRを知らない人にとってはなんのこっちゃ分からないと思いますが、一昔前に流行ったMMORPG(大規模多人数同時参加型オンラインRPG、所謂ネットゲーム)やメタバース(代表的なものがSecond Life)と似たような物だと思って貰えれば大丈夫です。
.hackやソード・アート・オンラインをご存知であれば似たようなものだと思って貰っても構いません、VRやVRChatについての詳しい事は私の執筆した別記事を参照して頂ければと思います。

インターネットが無いという退屈さと不便さ

兎に角、普段がそんな状態なのでインターネット回線、とりわけ固定回線が無くなってしまうと殆どと言っていい程やる事が無くなってしまいます。
冒頭に書いたように携帯電話回線はかろうじて繋がっているものの、Twitter閲覧がギリギリ可能な位の超低速回線でしかありません、Youtubeを見る事もニコニコ動画を見る事も、Radikoでラジオ放送を聴く事すら不可能です。

オフラインゲームをやろうにも手元に残ったゲームはネットに繋がっている事が前提のPCゲームばかり、かろうじてできるゲームも一度やった事がある使い古されたゲームです。
本を読もうにも一度読んだ本ばかりです、新しく本を読もうにも決して本は安くないですし、図書館に行くというのも考えの内でしたが近場にありません。

私は釣りを趣味としているのですが、記事執筆時現在はオフシーズンで釣果をあまり期待できません。
雨が降ってしまったら釣りにも行けず、ウイルスの影響もあってか外出する気もなかなか起きません。

さて、そんな状況に置かれてしまったらあなたなら何をするでしょう?

恐らくはそこまで歯切れの良い答えは返ってこないような気がします、しぶしぶと終わったドラクエのレベルを上げるかの如く昔やったゲームに手を出すか、既に何回も読んでいる本に手を出すか、リビングに降りてテレビを見る位かと思われます。

ドライブやスポーツ等、外出して楽しむというのもひとつの手ですが、現在はウイルスの影響下であり世界的なパンデミック状態です、外出はあまり賢い選択であるとはちょっと思えません。

この圧倒的に退屈な状況下でも飽きてしまったとはいえゲームができたり、死ぬほど回線が遅いとはいえTwitterができたりというのは幸せな事かもしれません。
なんせこれから施行されようとしているネット・ゲーム依存症対策条例はこれらも取り上げてしまうのですから・・・

ネットがまだ普及していなかった時代

少し大筋を逸れて昔の話をしましょう。
私がインターネットというものに初めて触れたのはまだパソコンが使える=インターネットが使えるといった認識の時代で、モニタはCRT(所謂ブラウン管)、光回線なんてものは無く電話回線を使って接続、PCゲームは無い事もないというレベルで存在しており、オンラインで繋がっている事はあまり前提としていませんでした。
やる事と言ったらメールの閲覧、2ch(現5ch)やふたば☆ちゃんねるといった電子掲示板の閲覧書き込み、職人の作ったFlashアニメーションの視聴、テキストサイトや個人サイトの閲覧といった事位なもんでした。

更に当時はISDN(テレホーダイを参照)からADSL、所謂定額制インターネットへ移行する過渡期であり、ネットは使えば使う程電話料金がかかってしまうという代物でもありました。

携帯電話も中折れ式携帯なんてものは無く一体型、電話としての機能が殆どでメールをオマケ程度に使える代物でしかありませんでした。
携帯を持っている人もそこまで多くはなく、固定電話がまだまだ活躍していた時代でもあります。

ゲームに関しても当時のPCゲームはPCをゲーム機代わりに使うといった旨の物が多く、ネットに繋がっている事を前提とした物は少なかったです。
オンラインゲームというものがまだ普及する以前の話で、本格的なインターネットゲームが出るのはドリームキャストでファンタシースターオンラインが発売されて以降の話になります。

当然、今のようなSNSは存在せず、音楽配信サイトといった物も無く(MIDI音源とかであればありましたが)動画サイトやストリーミング配信もありませんでした。

携帯電話を持つ事も無く、ゲームもネットに繋がっていない物ばかりでしたし、パソコンがある家というのも割と珍しかったです。
約束事は固定電話を使っての連絡、もしくは学校や公園での口約束、相手の家へ直接行って遊びに誘う、そんな事が当たり前の時代でした。

遊ぶ内容も屋内であれば対戦ゲームをやったり、ボードゲームで遊んだりカードゲームをやったり。
野外であれば缶蹴りやボール遊び、ちょっと凝った事だと生き物を捕まえたり釣りをしたりといった具合でした。

要する所、生活をしていく上で携帯電話もインターネットも便利ではあるものの必須ではなく、最悪無くても困りはしないという時代だったのです。

子供の頃のネットの思い出

我が家は当時としては珍しく早い段階でインターネット環境を確保しており、私も早くにPCを使って遊び始めました。
父親がPCや最新技術というものが大好きな人で、ペイントソフトを使って絵を描いてみたり、フリーゲームやブラウザゲームで遊んだり、Flash作品を見たり、PCを使った知育プログラムで遊んでいたというのもあり、今考えるとPCとネットに関しては凄まじい英才教育を施されたもんだと思います。

ある程度年齢を重ねた頃には2chでAA作品を見て楽しんだり、当時夢中になっていたゲームや釣りの情報を交換するために掲示板に書き込んだり、個人サイトを閲覧して楽しんだりといった事をしていました。
まだできる事が少なかった時代とはいえ、リアルタイムで更新されていく情報を追いかけたり、見ず知らずの人と交流を図るというのは楽しくて仕方なかった記憶があります。

ゲームの攻略本といった物も殆ど買った記憶が無く、調べものをするのならネットで調べるという癖が当時からついていたので辞典を引いたりする事も無かったです。

ネットの無かった2年間

母親曰く、私は2歳の頃からPCで遊んでいたらしく、PCとインターネットは常に隣にあるのが普通であり、日常でした。
ところが、両親の離婚で中学2年生~高校に上がるまでインターネットが一切使えなくなり、私の手元にはネットに繋がらなくなった旧型デスクトップPCが残るのみとなりました。
携帯電話も契約させてもらえず、インターネットの環境から完全に切り離されてしまった私は酷く絶望したのを今でも覚えています。

再婚して来た新しい父はPCやネットといった代物にまるで理解を示さず、ゲームもそこまで好きではなかったようです。
スポーツや運動をしてこそ健全だという古臭い上に泥臭い思考回路をしており、根性や努力といった言葉が大好きな人物で私とは全くソリが合わず喧嘩ばかりしていました。
父的にはスポーツに励んで色々と考え方や楽しみを見出してほしいと思っていたようですが、根っからの情報人間として育ち、部活に関しても科学部の部長であった私には押し付けがましい考え方でしかなく、また当人も考えを押し付けているという自覚は無かったようです(余談ですがこの父とは母が二度目の離婚をしてしまい、現在は実の母、実の父、義理の父、全て関係を絶っています、実の父も情報リテラシーがあるという以外は大概人でなしです)

幸い、ゲームを制限や禁止される事は無かったのでまだ楽しみは残っていました。
ネットで調べものが出来ない以上仕方がないので攻略本を本棚が一杯になる程買い込み、ゲーム以外の情報を知るのも書籍を利用し、分からない事も逐一辞典や図鑑を使って調べるようになりました。
学生という事もあり金が無かったので何件も古本屋を巡ったのを覚えています。

缶蹴りをやったり駄菓子屋に通うといった事は小学生の内に卒業しており、スポーツが好きな訳ではないので屋外で遊ぶという事も極端に少なくなっていた時期でもあります。
釣りは続けていたものの、住んでいた場所柄夏以外釣りをできる場所が無く、季節限定の楽しみになっていたのも辛さに拍車をかけていました。

ネット回線復活、それから

高校に上がると同時にインターネット固定回線か携帯電話回線のどちらかを契約してもらうという条件を取り付ける事に成功しました。
これは、時代が流れるにつれてどちらかが無いと流石に辛いという説明を2年間かけて義理の父に伝えていった結果です、本棚に収まった書物や古本に毎月いくらかけているだとか、いかにもそれらしい理屈をかました記憶があります。
考え方のソリこそ合わなかったのですが、教育に対して理解が無かった訳ではないようで、ネットが無いと教育に支障が出ると無理やり納得させた形になります。

二者択一の際は迷わず固定回線を選びました。
ただし、これは私が高校を卒業するまで携帯電話を使えないという条件の裏返しでもありました。
当時クラスの中で携帯電話を持っていないのは私を含め2人、学年の中でも片手で数えられる程度しか居ない程には普及しており、それはそれで辛かった記憶があります。

回線契約後はあれだけ大量に買っていた攻略本も書籍も買わなくなり、辞典は埃を被り始めました。
丁度ニコニコ動画が台頭し始めていた時期でもあり、MMO全盛期も重なりオフラインゲームを買う数も激減、2chは相変わらず見ていたもののMMOを中心に楽しむようになり、Skypeの登場もあってリアルで知っている、知らない関わらず様々な人と交流を楽しむことが可能になりました。
アルバイトが可能になった事によって資金力も付き、自作PCを組む事も覚えますますやれる事が広がっていきました。

こういった事情も重なり、携帯電話こそ持っていなかったものの高校生活三年間は本当に楽しかったです。
ネットが無かったらここまで楽しかっただなんて感想はとても出てこなかった事でしょう。

また、モンスターハンターポータブルシリーズが大流行した時期でもあり、これだけは例外的に楽しんでいました、これについて詳しくは後述します。

以降、引っ越し後という例外を除きほとんどネット回線から遮断される事は無くなり、高校卒業後は携帯電話も契約したので何処へ行っても何かしらの連絡が取れるという形態が確立しました。

ジェネレーションギャップ

長くなってしまいましたが自分語りはこの位にして、話を本筋に戻す事にします。

以前、私は母に車を持てとしつこく言われた事があります。
「確かに仕事を持つ上ではあった方がいいし、身分証明書として免許は便利かな?」と言ったら、信じ難い事に「イイ車に乗ってないと女の子にモテないわよ」と返されました。
どうやらイイ車に乗っている=男としてのステータスという考え方が母の中にはあったらしく、分かり合えないなぁこの人とはと思ったのを強く覚えています。
後から知った事なのですがバブル絶頂期、母が若かった頃はデートには車が必須でデートカーブームというものが本当にあったそうです(日産のS13型シルビアはデートカーとして大ヒットしたとあります)

こんな具合に、世代によって価値観というのは様々であり、5年も年齢が離れていれば別世界で育ったと言っても差し支えがない程考え方に差が出てしまいます。
かくいう私も今の子供達はどんな事に価値を重点に置いて、どんな事をして遊んでいるのかといった事をあまり理解しているとは言い難い節があります。

無論、というか言うまでもない事ですが、国によって考え方や文化が違うように価値観に正解という物は存在しません。
単に自分が気に入るか気に入らないか、受け入れるか受け入れないかという気分の問題でしかないのです。

メールが無いなら手紙を使え

ドクター・ドリトルという映画で主人公のジョン・ドリトルが娘のマヤに対して携帯電話を取り上げるシーンがあります。
「携帯電話が無いと死んじゃう」と主張するマヤに対して父親であるジョンは部屋の中にあった便箋を見つけ「便箋があるのならメールじゃなくて手紙でやり取りをしろ」と言います。

これこそ世代間の価値観の違いを如実に表しているシーンだと思います、携帯が無いと死ぬほど困ると主張する娘に対して携帯が無くともさして困らないと言い張る父親、重要性がまるで違うのです。

現代ではメールもコミュニケーション手段としては下火になっているので「LINEやTwitterを使うのならメールでコミュニケーションをしろ」と言い変えた方が適切かもしれません。
ちょっと前であれば「メールではなくポケベルを使え」といった具合でしょうか。
遠距離に情報を伝える手段はいくつもあり、メール以外だと劇中にあった手紙、それこそ伝書鳩やモールス信号だってあります。

しかし冷静に考えてみましょう、これらの古い手段を主流と言い張るのは果たして適切でしょうか?
知識として知っておくに越したことは無いと思いますし、時と場合によっては使う場面もあるかもしれませんが、そこまで無理して不便な手段を何故使わなければいけないのでしょう?

私が過去体験したのはまさしくこれに通ずるものがありまして、インターネット検索があるのにどうして辞典を引かなければならないのでしょう?
辞典によって意味合いが変わってくるという意見も勿論あるでしょうけど、それはネットの検索結果によって内容が変わってくるのと大して違いはありません。
ゲームの攻略情報に関しても開発者インタビューといった部分は兎も角、攻略をする情報だけが欲しいのであればネット検索の方が早いし便利です。

これらはどれを好き好むかの手段の違いでしかなく、辿り着く結論は似たようなものです。

再びネットが無くなって

記事冒頭でも書いたように、現在は失態で再びネットがほぼ使えない環境下で記事を執筆しています。
この状態に深く絶望を覚えると同時に考え方に変化が生じました、今まで興味をあまり示さなかったラジオや新聞といった既存メディア、スポーツや趣味に没頭するといった事に対する重要性に気が付いたのです。

言ってしまえばインターネットが情報収集を行う上でラジオや新聞といったメディアを追いやり、ネットやゲームが娯楽としてのスポーツやその他の趣味を押しのけていた状態だったのですが、無くなったので繰り上がりで重要性が上がった形になります。
人との出会いや交流といった点に関しても同様で、私は普段VRやインターネットにて人と会っているので現実世界であまり人と会わなくても大して問題ではないと思うようになっていました。

そう考えると、ネットやゲームというものをあまり知らない人が既存のメディアを重要だと言ったり、現実世界で人と会って交流を図る事が重要だと言う理由も理解できます、確かにそれらは重要である事に間違いありません。
しかし、だからといってネットやゲームを不要だと攻撃する理由にはなりません。

あえて口を悪くするならば、私はテレビや新聞は最早どうでもいいですし無くなった所で問題ありません、実際テレビは家に無いですし新聞も契約していません。
スポーツも健康目的としての運動はするべきだとは思いますが興味が無いですし、現実世界で一切人と会わなくても生活できる世界になるのは時間の問題だと思っています。
だからといってそれらを非難するかと言ったらそういう訳ではありません。
今回の例のようにどこかで必要な場面は出てくるかもしれませんし、気が付いていない魅力があるのかもしれないと思っています。

ゲーム脳の恐怖を信じる恐怖

「価値観の違いは理解した、でもゲームやネットは人をダメにすると科学的に言われているんだろう?」

恐らく、そう言い張る人も多い事でしょう。

これには森昭雄という人物が2002年に出版した「ゲーム脳の恐怖」という著書が大きく関わってきます。
内容にざっくり触れると「ゲームをやりすぎると痴呆になる」といった具合です。
もっと詳しい事については私が解説するよりもwikipediaのページを流し読みしてもらった方が良いでしょう、私はこの理論が大嫌いで正直語りたくもありません。

ゲーム脳については当時センセーショナルな出来事として広まり、連日お茶の間のテレビや新聞に取り上げられました。
10万部以上も売れてベストセラーとなった事を考えてもらえると当時の状況が分かりやすかと思います、このせいでゲームを制限、禁止された人も少なくないでしょう。
しかし、このゲーム脳理論は科学的根拠に乏しく俗説や迷信の域を出ない疑似科学であるという評価が多く、私も否定的な立場を取っています(余談になりますが、同著者は「ネトゲ脳 緊急事態 - 急増するネット&ゲーム依存の正体」という本も執筆していたりします、どうやらネットについても懐疑的な立場のようです)

真偽の程は一旦脇に置いておき、当時の我が家の状況を説明しましょう。
このゲーム脳理論が流行った際、母に「ゲームばっかりやっているとお年寄りの脳と同じ状態になる、馬鹿になるんだよ」と言われた事を今でもはっきり覚えています。
ゲーム脳理論の影響を受けての発言である事は最早語るまでもありません、テレビか何かで見て真に受けたのでしょう。
その後、母がゲームやネットについてヒステリーなんじゃないかと思える位には批判的になっていたのを覚えています。

当時子供だった私にはゲーム脳なんてものが流行っているなんて分かるはずもなく寝耳に水も良い所でした、何故か自分の大好きなゲームやネットがいきなり非難の嵐に晒されたのでは無理もありません。
幸い、我が家ではキツく注意をされたり怒られたりという程度でゲームを制限、禁止されたという事は無かったのですが私の周りの友人達はゲームを制限された、取り上げられた、壊されたと嘆く声が多かったです。
楽しく遊んでいたらいきなりやってきて全てを台無しにして去っていった、そんな印象がありました。

ここまででも十分問題なのですが、本当の問題はゲーム脳のブームが過ぎ去った後にあります。
この後、中折れ式の携帯電話にゲームが搭載され所謂モバイルゲームといったものがブームになり、私の母も夢中でそれをやっていたのを覚えています(確か怪盗ロワイヤルをやっていました)
我が家にDSは無かったのですが、 2005年には脳を鍛える大人のDSトレーニング(通称脳トレ)が流行り、2005年末には累計100万本を超える売り上げを叩き出し、DS知育ブームが巻き起こりました。
更にはWii Fitといったものも発売され、ゲームは脳を破壊する諸悪の根源という評価から一転、知育や健康管理に役立つ物であるという評価がなされるようになったのです。

疑問に思わないでしょうか、ゲーム脳理論で散々ゲームというものを否定しておきながら、都合が悪くなったら手のひらを返し今までの主張を捨てさるというこの有様。
私は一生この出来事を忘れる事は無いでしょう、散々自らにとって大切な物を否定され、自分の事になったら無かった事にするというこの事態は大変に腹立たしいものです。


METAL GEAR SOLID 2 SONS OF LIBERTYというゲームにはこういった台詞があります(一部省略しています)

「世間に溢れてる出来合いの『真実』の中から、その時々に気持ちよく思えることをツギハギしただけ」

「あるいは、もっともらしい権威の下に身を寄せて手に入れたつもりになっている借り物か・・・」

「だが、そうやって自分で作った『自分』にも関わらず、何か都合が悪い事が起きると、それを他の何かのせいにする」

「そしてまた別の口当たりの良い『真実』を探して、そこに『癒し』を求める」

「今まで利用していた『真実』をあっさり使い捨ててね」

「そんな君に真実が選べるのか?」


この台詞や考え方も、皮肉な事に世間が忌み嫌うゲームが私に教えてくれた事です。

時計の針は戻らない

「それでもゲームやネットは悪影響だし、子供達の情緒を育む邪魔になるし、勉強もしなくなる」

もしかしたらそんな風に思う人も居るかもしれません。

では、インターネットといった環境から自らを切り離してみてはどうでしょう?
固定電話と電話機能がある携帯電話さえあれば世間と繋がりが隔絶される訳ではありませんし、仕事の上でも問題ないと思います。
恐らく、そんな状況に置かれたら今日日の人は誰しも困ると思います、少なくともこの記事を読んでいる方は困るのではないかと思われます。

それは子供とて同じです、周りがネットで繋がっていたり、ネットに繋がったゲームで楽しんでいる中自分だけ取り残されて孤立する。
耐えがたい苦痛であるというのは想像に難くありません、自分だけ仲間外れにされて周りは仲良く遊んでいるのを遠くから指を銜えて見ている事しかできなくなるのですから。

私が子供の頃、ポケットモンスターというゲームが大流行しており、原作にしたアニメが放映していたというのも相まって知らない人は居ませんでしたし、殆どと言っていい程皆ポケモンをゲームで遊んでいました。
しかし、前述したゲーム脳の影響も相まってゲーム機を取り上げられたり破壊されたり、そもそも買ってすらもらえないという友人も居ました。
禁止された場合、話題についていくにはアニメや漫画を追うしかなく、それすら禁止されてしまった時には話題についていけなくなります。
これは子供にとって致命的です、夢中になっている物に対して語り合っている中、話についていけない子は一体どうすれば良いのでしょう。

モンスターハンターポータブルというゲームもポケモンと似たような具合で、ゲームそのものの面白さもありますが真の面白さは他人との協力プレイにあります。
一見珍妙に思えるかもしれませんが、ゲームを持ち寄って遊ぶというのは公園に集まって遊ぶ位には子供にとって(少なくとも過去の私にとって)重要な事であり、かけがえのない事なのです。

ネットやゲームが無くても困らない、という人は個人的にネットやゲームというものをあまり知らないか理解をしていない(もしくは理解したくない)だけなんじゃないかと思います。
そんなものが無くても生活はしていける、確かにその通りで生活そのものは可能でしょう。
しかし、一度ネットやゲームの魅力や便利さを知ってしまうと、仮に禁止や制限をしても掻い潜ろうと努力を繰り返す事になります。
当然、その労力は勉強や運動といったものに費やされる事はありません、これは固定回線が無くなってしまった現在の私にも当てはまる事です。
子供というのはルールや制限というものの裏をかく天才です、当時もゲームが禁止されている友人は禁止されていない家へ遊びに行ってゲームを楽しんでいたという事実がある程です。
知識の実を齧って楽園を追放されるような話ですが、最早ゲームやネットが無い生活は私にとってはそれらが無かった過去に逆戻りするという事に等しく、考えられない事態なのです。

まとめ

色々と長く語ってしまいましたが、結局の所香川県の掲げるネット・ゲーム依存症対策条例は大人や有権者、或いはゲームやネットに理解が無い人物が自分の考えや価値観を子供に押し付けているに過ぎず、子供の事なぞ何も考えていないのではないかと思えてなりません。

確かに、ゲームやネットには依存症や中毒症状がある事は紛れもない事実ですし、運動不足になったり勉強を全くしなくなるというのも問題ではあります。
が、それらは別にゲームやネットに限らず他の事にも当てはまる事です。
何事にも長所と同時に短所があり、短所のみ取り沙汰して非難をするのは如何なものかと思います。

終わりに

ここまで読んで頂きありがとうございます。
今回の条例に関しては記事内にまとめきれない程には思う所が多く、自らの子供の頃を考えるとあまりにも気の毒に思い筆を取った次第です。
親の不始末子の難儀なんて歌にありますが、いつの時代も大人の身勝手の犠牲になるのは子供です。
子は親の所有物ではなく、分身でもなく、れっきとした人格を持つ個人であるという事を努々忘れないでほしいと思います。

最後に、ダークソウルおじいちゃんの愛称で知られる加三 清さんのインタビュー台詞から引用して終わりたいと思います。


「人間っていうのはやっぱり、日々精進や、ゲームでもなんでもすべてのことで、死ぬまで精進せなあかんと思うな」


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仮想現実を愛する私にとって今回の騒動は他人事では済まされなかったです

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