外向型から見たMBTI論

 ここ数日は再びMBTI考察の記事を量産している。やはり人間にとって最も関心があるのは他の人間との関係であり、MBTIといったツールを通して自分や他人を理解したいという人が非常に多いようだ。また、このジャンルは汎用性が高い割にグルメや旅行に比べて書き手が少ないため、相対的に読まれやすくなっているという事情もある。

 さて、MBTI考察の理論的背景を突き詰めて考えていると、筆者の見方はどこまで突き詰めてもE型の目線なのだなあと感じることがある。筆者は普段あまり自分のMBTIについて考えないし、自己理解を進めるにしても、別の考察を参考にすることが多い。しかし、出来上がった記事を見ていると、結局ENTPらしさは拭えないようである。

 筆者がMBTI考察を進めている動機は、「世界を理解したい」からである。世界にあまたある現象のうち、特に重要性の高い人間に関する考察のスキームとして、MBTIを利用している。そういった意味では人間の性格や心理を現象として記述しようという無理筋な試みをしているわけである。もちろん自分自身の人生の指針を考えたいという欲求もあるのだが、それは世界を理解した後の応用的なテーマだ。あくまで視点は世界の方にある。筆者にとってMBTI考察は中東情勢の考察や東京オリンピックの考察とそこまで性質は変わらない。徹底して傍観者的だと言える。

 一方、INFPやINFJを中心とする、MBTI界隈の多数派は筆者とは違った動機で人間考察を始めたようだ。INFPやINFJといった人たちは基本的に自己に意識が向いていて、自己理解への渇望が最初に来る。もちろん他者を理解したいという動機もあるのだが、その動機は自分の内面との関わりにおける他者のようである。この辺りの感覚は「新世紀エヴァンゲリオン」で描かれた終盤のあり方に近い。世界の謎や顛末は最終目的地点ではない。一番重要なのはその現象が自分にとってどのような意味を持つかなのだ。したがって、MBTI関係の記事は「私から見た〇〇型」といった内容が多い。

 筆者の考察の顕著な特徴は、徹底的に外から見た人物像を想定していることである。もちろん人間はさまざまなペルソナを被っていて、公の姿と私生活の姿は違っていると思う。しかし、最終的には外から観測できる姿が基本の姿であるという前提を置く。人間の性格が他者との関わりの中で生まれている以上、他者にとって見せている人格のほうが自分一人でいる時の心理風景よりも重要ではないかと考えているからだ。例えば仕事に関するテーマはMBTI考察の人気トピックだが、ここで重要なのはあくまで公の顔の自分である。仕事に関して考えるのなら、どう考えても一人でいる自分よりも社会と関わっている自分のほうが適切な考察対象だと考えるからだ。

 ペルソナ云々という話はどうなんだと思う人もいるかもしれないが、これは人間はどこかの場面ではペルソナを脱ぐという前提に立って議論をしている。一度もペルソナを脱がず、内面にとどまっている人格に関しては、本人しか知ることができないし、社会との関わりに影響することはないから、考察対象外にしても問題ないのではないかと思う。むしろSNSを見ていると、外面に現れる行動こそが人間性の本質ではないかと思う時がある。人間性の悪い人が悪口を書き込むのではなく、悪口を書き込んでいる内に人間性が悪くなっていくのではないかということだ。人間の本質なんてものは身を置く場所によって簡単に影響されてしまうのだ。心で考えることと、それを実行に移すことには大きな差がある。内面世界において両者は区別がつかないが、実際は知らず知らずの内に人間性は影響されていると思う。

 また、自分自身に関する考察はいくつかの問題をはらむ。まず自分を理解することは、他人を理解することよりも難しい。太陽や月が球体であることは誰でも理解できるが、地球が球体であることを理解するのにはかなりの時間がかかったのと同じだ。優れたスポーツ選手であっても必ずコーチがいるように、他人からみた人物像というものが必要不可欠なのである。自分を分析する場合はどうしても価値観や理想像が混入してしまうし、同時並行の比較もできない。観測地点と観測対象が同じなので、良くわからなくなってしまうのである。

 また、自分について考えすぎることは、自己像が歪んでしまうリスクもはらむ。実のところ、INFPやINFJの生きづらさの大きな要因となっているのはこれだ。自分自身の抱える問題についてあまりにも考えすぎるため、ネガティブな思考がグルグルしてしまって、増幅されるのだ。筆者はこれを「ストレスの温室効果」と呼んでいる。実際に心理学的にもあまり同じことを何度も考えるのは良くないらしい。

 客観的な観測のほうがより多くの人と結果を共有できるので、議論をブラッシュアップしやすいという事情もある。本人から見た本人は結局のところ一人しか見ることができないので、共有性が低い。一方、他人から見た人物像は多くの人間が共有し、議論することができる。はっきり言って自分を分析しても人間考察の幅は広げにくい。それよりも他人を次々と考察していったほうが遥かに多くの知見を得ることができる。内面からみた自己と外部からみた自己のどちらが本質かという問題は永遠の哲学的テーマだが、後者をベースにした方が考察は圧倒的に捗りやすい。

 しばしば性格分類に関する批判として、他人の人間性を決めつけるなというものがあるのだが、自分で自分の性格タイプを決めつける方が遥かに影響は大きいと思う。筆者はあまり自分が〇〇型だから〜といった思考は避けるようにしている。韓国アイドルがやっているように、自分のMBTIタイプを個性の押出しに使う場合は自己演出によってかえって診断精度が下がってしまうリスクがある。

 筆者は一応ENTPということになっているのだが、これも他人の判断や他人から自分に対する言及を参考にして考えたものだ。結局、筆者にとって価値を持っているのは、内面世界よりも他人との関わりの中での自分ということなのだろう。

 当初はあえてENFPとかINFPを名乗っていたのだが、やはり他のユーザーからみてもかなり不自然だったようで、色々とツッコミが来た。となると、筆者がENTPであるという判断は間違っていなそうである。それがどういう意味を持っているかは筆者よりも読者の方が良く判っているに違いない。


いいなと思ったら応援しよう!