「東大閥」はなぜ存在しないのか?

 学歴議論で必ずと行って持ち出される要素が「学閥」である。筆者にとって意外だったことは、東大閥というものが通常考えられているような形では存在しないということだ。確かに東大閥という概念を考えることはできるのだが、実態は一般的な学閥のイメージとは随分と異なっているのである。筆者の考える学閥はどちらかと言うと慶応閥なのではないかと思う。

 今回は東大閥と慶応閥の違いと、人間心理に潜む様々な性質について考察してみたいと思う。

東大閥は仲が悪い

 一番わかりやすく説明するなら、東大閥が存在しない理由はお互いの仲が悪いからということになる。東大閥には仲間意識から来るインサイダーへの贔屓といった要素があまりにも欠如しているのだ。もちろん他大出身者を排斥するような時もあるかもしれないが、それは学歴ヒエラルキーを守りたいだけで、インサイダーへの愛情という最も重要な「仲間」要素が存在しないのである。

 筆者は慶応閥を前提に入っていたので、東大のような頭の良い人の集団に入ればある種の特権的なクラブに入れるような幻想を抱いていた。エリートは世間の人間を見下しているかもしれないが、内部に入ってしまえばむしろ仲間意識から来る心地よさを味わえるのではないか?と思っていた。しかし、実際の東大閥は内部競争が全ての厳しい世界である。そこには金持ちクラブのような雰囲気は存在しなかった。それをやりたければ慶応に行くべきだったのだ。

 したがって東大閥の集団は自大学の出身者を贔屓目に見るといったカルチャーは存在せず、ある意味フェアである。仮に他大学の人間は排除されたとしても、それは多分学歴差別に近いと思われる。もし東大よりも上位の大学の人間が来たとすれば、舐められないだろう。さらに言うと学歴差別すらそこまで存在しないことが多い。そこにあるのは剥き出しの競争のみである。

インサイダー集団の特徴

 では慶応閥をはじめとしたインサイダー集団の特徴はどういった項目になるだろうか?例えばブランド力のあるJTCなどはインサイダー集団としての性質が強く、その意味では慶応っぽいと思う。

 インサイダー集団は基本的に「外部者に冷たく、内部者に優しい」という原則がある。ここにフェアネスは存在しない。こういうと不当に思えるかもしれないが、結束力の強いコミュニティとはそういうものだ。例えば家族愛の強い人間にとって、自分の子供を他人の子供に優先するのは当たり前である。

 民族主義なんかは典型的なインサイダー集団の要素が強いイデオロギーだろう。民族主義の骨子は同胞への仲間意識であり、それはアウトサイダーへの差別と裏返しである。インサイダーはインサイダーであるだけで優遇される。

 インサイダー集団は自分たちを価値ある存在だと考えている。そこに客観的な論理はない。自分の家族や故郷を肯定する時に論拠が不要なのと同じだ。仮に「年収が高い」などの論拠があったとしても、基本は後付けだ。年収が低ければ別の論拠が出てくるのみである。

 JTCは典型的なインサイダー集団だと思う。新卒一括採用で外部者をあまり肯定しない。給料の横並びはインサイダーへの優しさかもしれない。賃金を切り下げたいときは下請けや子会社に転嫁され、インサイダーはぬくぬくと生きている。能力主義と違った意味で外部者への敷居の高さが存在する。ここは慶応大学と似ているかもしれない。慶応大学は内部生や推薦が沢山存在するので平均的な学力は国立大よりも低いのかもしれないが、学力で入ろうとすれば結構難しい。仲間に入れてもらうハードルは高いと言えるだろう。

東大閥が形成されないわけ

 このようなインサイダー集団は東大には存在しない。東大への自然な愛着や仲間意識を持っている人間は筆者の観測範囲では殆ど見ないし、世間のどこにも存在していないのではないかと思う。むしろ東大卒の集団はお互いに批判的である。会社等を見ていても東大出身者の会は空気が悪かった。その理由は多岐にわたる。

・上位大学がない
 人間というのは「共通の敵」に対するライバル意識によって団結するところがある。これは世界史を見ればわかりやすいだろう。三国志の董卓討伐軍は董卓の死と共に崩壊した。アフガニスタンのゲリラはソ連軍撤退と同時に内戦を始めた。東大の場合は上位大学が存在しないので、学閥を作ろうという意識がないのではないかと思う。むしろ、このようなトップ集団は内部競争に芽が向きがちだ。皮肉なことだが、トップクラスに優秀な人ほど狭い世界の住民になってしまうのだ。JTCを見ても、やはりトップとされている会社は独特の内部競争のキツさがあるように思える。

・個人主義
 東大卒は人生のどこかしらで天才扱いされたものが多く、本人たちのプライドは高い。それに受験というのは個人戦なので、仲間と協力して勝利するというジャンプ漫画的な要素が欠落している。更に重要なことに、地頭が良いだけでは東大にはたどり着かないので、東大生の多くは大変競争心が強い。したがって東大生は個人主義で、仲間と馴れ合うことを良しとしない人間が多いようだ。「東大がすごいんじゃなくて、俺がすごいんだ」と言わんばかりである。したがって東大卒でも十分な能力が伴わない人間はバカにされてしまうし、「東大までの人」などと言われてしまうだろう。

・論理性

 東大卒は頭の良い人間が多い。厳密には論理的思考力で物事を考える人間が多い。一方でコミュニティに関する自然な愛着は論理では説明できないものだ。いくら論理で考えても、非合理か不正義となってしまう。これは普遍主義的な考え方のデメリットである。

 ある田舎から出てきた人間が「俺の村は世界一豊かな村だ!」と言ったとしよう。論理で考えるとこれは間違いである可能性が高い。他にも住みよい場所はたくさんあるだろうし、あなたの主観を投影しているか、ポジショントークでは?となるだろう。論理に忠実な人間は客観性を重んじるし、批判的になりがちである。

 東大卒をはじめとする理屈でものを考える人は素朴な仲間意識を嫌う傾向がある。なぜなら、そこに論理的な裏付けや合理性が存在しないからだ。一方、慶応閥の場合は東大ほどインテリ色が強くないので、「慶応こそが日本一」といっても問題にはなりにくい。「いや、〇〇大の方が上でしょ」と言っても空気の読めないやつ扱いされるだけである。東大卒の多くが「学士は低学歴」「日本は海外大に比べれば格下」「医学部の方がマシ」と言っているのとは正反対だ。

東大卒は多すぎない方が良い

 以前の記事で言及したかもしれないが、東大卒の割合が多すぎる会社というのはピリピリとすることが多いようである。感覚値で東大卒の割合が30%を超えると良くないのではないかと思っている。それは慶応閥がはらむ問題とは全く別のものだ。慶応閥がインサイダー集団としての腐敗を産むのに対し、東大閥はインサイダーに対して冷たい。むしろライバル視するところがある。ある意味フェアとも言えるが、行き過ぎると心理的安全性を欠くのも事実である。

 また、これは他の集団のも言えることだ。業界の中でもトップオブトップの会社は独特の内部競争のキツさがあるようだ。それ以上がないという立ち位置と、構成員のプライドの高さが原因だと思われる。むしろ二番手の職場の方が仲間意識やホワイト志向があって楽という話はよく聞く。

 しかも東大閥の良くないところなのだが、インサイダーに冷たいからと言って、アウトサイダーに優しいというわけでもないことである。彼は外から入ってくる人間がライバルになることを恐れておりし、「格下」の人間に対する嫌悪感を持っていることもあるからだ。極端な話、普段は内輪で争っているが、外部者が来た途端団結して排除するといういやらしい振る舞いをすることが珍しくないのである。

まとめ

 慶応閥と同様の意味での東大閥は存在しない。仮にそう見えたとしても、その性質は独特である。普通のインサイダー集団は旅先で日本人にあった時のような親近感を持っているものだが、東大閥の場合は激しい内部競争とライバル意識が特徴である。一つは「共通の敵」が存在しないことにあるのだろう。

 筆者はどちらかというと通常の学閥をイメージして東大に入った人間であり、今でも東大卒で自分に境遇が近い人物を見ると親近感が湧いてしまう。しかし、この感覚はかなりレアのようだ。筆者のような強烈な愛着を東大に持っている人物はあまり見たことがない。筆者はこれで天才集団の仲間入りができると心躍らせて入学したのだが、そこにいたのはライバルだったのだ。それでも筆者が挫折しなかったのは超進学校で似たような挫折を経験済みだったことである。


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