なぜ帝国は東西に長いのか?

 定期的に執筆したくなる、需要があるのか無いのかわからない世界史シリーズである!今回は世界史において東西方向の移動が南北方向よりも容易であり、これが世界史的動きに大きな影響を与えているのではないかという考察である。

 ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」ではユーラシア大陸が発展した理由の一つを東西方向に長いことに求めていた。東西方向は気候が同じなので農作物の移植がしやすく、これが農耕の拡大に影響を与えたという話である。

 どうにも世界の歴史を見ていると、東西方向への移動の容易さと南北方向への移動の難しさは農耕以外にも適応されそうである。例えば世界の語族の分布を見てみよう。

 なんとなくだが、東西に細長いような印象を受けないだろうか。モスクワ周辺の言語だったロシア語は遠く沿海州にまで至っており、その南ではモンゴル高原からアナトリア半島にまでトゥルク系言語が連なっている。その南においてはアラビア語がモロッコに至るまで分布している。いずれも東西方向の移動である。

 アラビア語が広まったのは7世紀にアラブ人の帝国が大規模な征服運動を行ったからである。メッカを端緒とするイスラム勢力はあっという間にアラビア半島を統一し、スペインに至るまで征服を行った。大変な距離を移動したことになるが、その秘訣は気候である。アラビア半島からモロッコまでは似たような乾燥地帯であり、ラクダにのって移動しやすかった。スペインもまた、ヨーロッパの中ではかなり高温乾燥の気候である。一方、南北方向の征服はうまくいかなかった。ビザンツ帝国やフランク王国の征服には失敗している。スーダン方面もやめてしまった。後者は熱帯病が原因と言われる。前者は軍事的な要素も絡んでいるが、砂漠の遊牧民がヨーロッパに乗り込んで戦うのはちょっと難しい気もする。それ以降もイスラム教は乾燥地帯に広まる傾向が強かった。

 トゥルク系民族の移動は世界史の中でも人目を引くテーマである。この民族はモンゴル高原からアナトリアに至るまで広く移動した。これまた大変な距離だが、東西方向の移動なのでそこまで苦労した形跡もない。そもそもシルクロードとして日常的に往来していたのだ。トゥルク系の帝国はムガル帝国など他にもたくさん存在するが、これらの地域ではトゥルク系言語は定着しなかった。トゥルク系言語によって従来の言語が圧倒されたのはやはり似たような緯度のアナトリアやイラン北部であった。移住者が多かったのだろう。

 ロシアに関しても気候の問題が絡んでくる。ロシアは17世紀にシベリアを征服し、太平洋まで至っている。この過程でロシアはあまり苦労しなかった。シベリアは日本や中国の方が近いはずなのだが、両国がシベリアに進出することはなかった。1918年の日本はバイカル湖まで進軍したが、放棄している。気候的な問題で移住しにくいのだろう。ロシアはモスクワからあれほど離れているにも関わらず、シベリア防衛にそこまでエネルギーを注いだ形跡はない。むしろ中央アジアの征服の方が手こずっている。やはり東西方向の移動の方が簡単だったのだ。

 他にも近代以前の帝国で東西方向へ大移動した例はたくさん存在する。一方で南北方向への移動は制限されがちだ。アレクサンドロス大王の帝国はアフガニスタンに至るまで征服した。しかし、インドは暑すぎて進出できなかったようだ。同様にイエメンやロシアの征服は難しかっただろう。

 中華帝国は華南への進出にかなりの時間がかかっている。中国が分裂する際もだいたいが南北である。南部が完全に組み込まれたのは近世になってからだ。南北方向の征服が困難だった理由として、やはり気候の違いとそれによる感染症の存在が指摘されている。太平天国の乱が敗北した理由も南部の兵士が北部に攻め込む際に気候の違いがネックになったからだ。

 インドも似たような構造が指摘できるだろう。インド亜大陸はカイバル峠からベンガル地域まで印欧系の言語が分布しているが、南部にはトラヴィダ系の言語が残っている。ムガル帝国やマウリヤ朝も南部は完全には征服できていない。やはり南北方向の征服の方が苦戦するという傾向が見て取れる。

 日本も同様である。日本列島のうち、九州から関東に至るまでは早期に統一された。しかし、東北地方は平安辺りまで蝦夷が抵抗を続けていた。北海道が開拓されたのは明治時代である。やはりここにも南北の移動の難しさが現れているだろう。

 近世になると遠洋航海術が発達するので、南半球への征服が可能になる。こうなると東西方向とも言えなくなってくるが、要点は同じだ。イギリス人が入植したのは東西方向の北米と南半球ではあるが似たような緯度のオーストラリアと南部アフリカである。スペイン人はより低緯度の出身なのでイギリス人ほど冷涼さにはこだわらなかったが、それでも熱帯地域への入植は困難を極めた。ただし、中南米の人口密集地帯の多くは標高が高いので、なんとか移住することはできた。

 他にも例を上げればきりがないが、世界史において東西方向への移動は南北方向への移動よりも遥かに難易度が低いといった一般原則は確実に存在するのではないかと思われる。ベトナム戦争やイラク戦争を見ても、気候が異なる地域で恒久的な軍事行動をするのは本当に難しいのである。

 さて、筆者にとって興味深いのは、東西方向への移動という概念が文明の伝播にも影響しているのではないかという点だ。生態系と同様に人間社会も気候によって分断されていると考えれば結構説明が付く項目が多いのである。例えばオーストラリアやサハラ砂漠以南のアフリカが立ち遅れた要因は南北方向には文明が伝わりにくかったからだ。ユーラシアにおいてもインドや東南アジアはやや文明が遅れているような印象を受ける。これらの熱帯地域は中国やヨーロッパの進んだ文明を取り入れる上で不利だったのではないか。

 これは近代化にも言えるかもしれない。西欧で起きた近代化を模倣できたのは東アジアだった。中東やインドではないし、ロシアも不完全だった。しばしば南北問題を根拠に熱帯地域の住民は怠惰で無能といったことが言われるが、本質は暑さではなく、イギリスとの気候の近さだったのかもしれない。

 イギリスに気候が近い温帯地域の国の殆どはイギリスを模倣して近代化を進めている。例外は内陸国くらいだ。これは近代化によって海が阻害要因から推進要因へと変わったことが原因だろう。近代以前は陸続きであることが重要だったが、近代においては海に面していることは文明の発展を推進する重要な要素となっている。

 イギリスとの気候の近さが近代化の伝播の要因と考えると、色々説明はつく。イギリスで発生した産業革命はフランスとドイツ、更に北欧に伝播した。イタリアやスペインは北部の方が南部よりも産業が発展している。中東に関しては最も北に位置するトルコが最も進んでおり、次に進んでいるのがイランで、最も南に位置するイエメンが最も遅れている。非常に露骨だ。寒い=豊かという構図はイギリスよりも寒冷な地域においては成り立たなくなる。ロシアは寒冷だが、貧しい。これも内陸であること以外にイギリスとの気候の遠さで説明が付くかもしれない。

 低緯度地域の先進国はイスラエルとシンガポールだが、これらは地政学的な理由で入植が行われた特殊な例と言えるだろう。低緯度地域は途上国ばかりである。イギリス発の近代化が入っていきにくい、阻害要因があるのかもしれない。ただし、暑い地域が必ず発展しないとも言い切れない。インド亜大陸においては南部の方が発展している。スリランカとインド南端部が最も豊かで、アフガニスタンとパキスタン部族地域が最も貧しい。中国も若干ではあるが南部の方が豊かである。あくまで重要なのは文明の伝播ルートであり、気候それ自体ではないのだろう。シンガポールの経済発展はマレーシアに波及し、タイも豊かになっている。鉄のカーテンによって交流が阻害されていたため、東欧や北朝鮮は経済発展に支障をきたしてしまった。冷涼な地域は近代においてたまたまイギリスと親和性が高かったというだけなのだ。


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