NT型100%の奇妙な悩み(ぼやき)
筆者はここ何年もあまり具体的な人間を恨んだり、嫌ったりすることがない気がする。これは社会人としてはそこまで普通ではないようだ。普通は職場に苦手な人がいるとか、上司がうざいとか、隣の同僚が勤務中によくトイレに行って腹が立つと言った具合のようである。しかし、筆者は人生やキャリアに関する不満をこぼしている割に、あまり具体的な人間に対して憎悪を感じたことがない。
その理由を考えてみると、なんでもかんでもMBTIで考えるのは良くないかもしれないが、筆者は極端なNT型であるという要因が絡んでいると思う。特にN型に関してはかなり極端で、自分よりもN型の性質が強い人間は人生でほとんど見たことがない。したがって、物事を何でも抽象化して見てしまうし、そうしないと理解した気にならないのだ。
筆者が不満を感じることがあっても、それを具体的な人間に向けることはあまりない。それは例えるならば、満員電車のストレスを隣の客に向けるようなものだからだ。自分の体が押しつぶされるのは、隣の人に悪意があるからではなく、満員電車という環境が原因である。それと同じことではないかと思うのだ。職場で嫌なことがあったとしても、それは会社組織や資本主義社会ないしは人類という種の欠陥であって、眼の前の上司や同僚は単なるアクターに過ぎないように思えてしまうのである。
こういう考え方を構造主義と呼んだりするのだろうか。上司が部下に叱責したとしても、それは上司と部下の二人の関係が悪いというより、会社組織や市場経済という大きな構造によってもたらされている、小さなディテールに過ぎないのではないか。
スタインベックの「怒りの葡萄」に興味深い一節がある。主人公たちが世界恐慌で住んでいる土地を追い出される時のシーンである。
会社組織にいれば必ず人間関係の不満やトラブルは起きるだろう。しかし、それは本当に人間と人間のトラブルなのかという疑問は湧く。社員の振る舞いを規定しているのは意志ではなく、制度だ。かりに上司が辛辣な物言いをしたとしても、それは業務上必要なことを組織の文脈に沿って述べただけで、上司個人を取り立てて攻めることはできないだろう。会社組織というものは組織であって大勢の個人ではない。上司が部下を詰めているのではなく、会社が社員を詰めている。そしてその会社自身も実は資本主義・市場経済という大きな制度によって操られている。
というわけで、筆者は意外にも特定の個人に対して恨んだり、腹を立てたりしたことはない。ただひたすら制度について不満と嫌悪を述べ続ける。NT型が極端に行き着くと多かれ少なかれこういった傾向があるのではないか。しばしば人生の不満を二重三重に昇華させ、テロリズムに走る人間がいるが、多分NT型なのではないかと思う。ST型であればテロよりも強盗に走るだろう。人生の不満を制度を攻撃することで昇華させるなど、理解できないに違いない。
ハリー・ポッターのキャストの中で、マルフォイ役のトム・フェルトンは人気が無く、誹謗中傷に晒されていたらしい。キャラクターが主人公のライバルだから、役者を叩くというのはお門違いも良いところだが、視聴者はそう考えないらしい。制度が原因の不満を具体的な眼の前の上司や担当者に矛先を向けるのは、マルフォイが嫌いだからトム・フェルトンに誹謗中傷をするのと同じように感じてしまうのだ。
筆者の人生が辛かったのは、上司に間違いを指摘されたときに、自分が世界に否定されたような気分になるからである。筆者の価値観の根底に新自由主義は正しいという確信があり、だから市場経済で生き残っている会社は正しく、会社に従っている上司は正しい。だから上司を疑うことは会社を疑うことであり、ひいては新自由主義を疑うことになってしまうのである。現在は新自由主義に関する信仰は辞めているので、以前のような辛い気分になることはない。
単なるぼやきである。